木野瀬凛子、31歳。

大手広告代理店営業部に勤務し、この4月で9年目を迎えた。

常に凛としていてそつなく仕事をこなす凛子は、周囲から一目置かれている。

しかし本来の彼女は天才肌でもなんでもなく、必死に頑張って研鑽を重ねている努力型の人間。

張り詰めた気持ちで毎日を過ごしているのだった。

そんな凛子には、唯一ほっとできる時間がある。

“甘いひとくち”をほおばる時間だ。

これは、凛子とスイーツが織りなす人生の物語。




Vol.1 別世界に行けるパフェ


4月最後の金曜の夕方。

新橋にある大手食品メーカーのオフィスの一角に、凛子(りんこ)はいた。

毎週金曜日に行われる得意先との定例会のためだ。

「木野瀬さん。先日ご提案いただいた夏の屋台イベントへの協賛についてですが…」

得意先である大手食品メーカーの広報部・秋坂信五が、笑顔で凛子を見る。

「木野瀬さんのご提案通り、ぜひ実施の方向で進めたいです」

会議室の大きな窓の向こうで、新緑が揺れる。凛子はほっと安心して、整った笑顔を見せた。

「ありがとうございます、秋坂さん」

凛子は秋坂に向けてスラリとした手を伸ばすと、握手を交わした。

木野瀬凛子、31歳。

大手広告代理店営業部に勤務し、この4月で9年目を迎えた。

現在担当している大手食品メーカーとの付き合いは、まだ半年。それまでは長らく外資系自動車メーカーを担当し、数々のヒットCMの制作指揮をとってきた。

その仕事ぶりから「ディレクター」という肩書を持つ彼女は、100人近くいる同期の中でも一番の出世頭と言って差し支えない。

どんな仕事も落ち着いてそつなくこなす彼女は、社内で一目置かれる存在だ。

「では、また来週。お待ちしています」

定例会を終えた秋坂と凛子は、会議室を退出する。

秋坂はいつも、凛子をオフィスのエントランスまで見送ってくれる。

エレベーターでエントランスへと向かう途中、秋坂はあどけなさの残る人懐っこい表情で言った。

「いやあ、木野瀬さんが弊社の担当をしてくれるようになって半年ですが、本当にやりやすいです。

いつも的確な提案をしてくれて、僕の抜けたところもたくさんカバーしていただいちゃって」

「いえ」

凛子は口角を上げる。

「当然のことです。代理店ですから」


「ほんと、木野瀬さんに頼ってばかりで、…僕、木野瀬さんと同い年なのに。情けないばかりですよ」

秋坂は目尻を下げ、照れ笑いした。

凛子は学生時代からずっと、どのコミュニティにいても「できる人間」として頼られる。

切れ長の瞳に、通った鼻筋。167センチの高身長。

そんな見た目が、“かっこいい”という評価につながっていることも自覚している。

学生時代にはバレー部のキャプテンを務めていたし、成績もよく、慶應義塾大学経済学部を出た。

その肩書も、デキる印象を大きく押し上げているのだろうと、他人ごとのように分析していた。

― でも…。

1階ロビーで秋坂に挨拶し、ビルを出てしばらく歩いた凛子は、立ち止まってふうっとため息をついた。




― 私は本当は、“デキる女”なんかじゃない…。

生まれつき頭や器量がよくて、息を吐くように成果を出せる人種がいることを凛子は知っている。

凛子は、そのようなタイプとは程遠い。

ただ単に、あらゆる準備を入念に行なうタイプだからこそ、勉強でも、仕事でも、成果を出してきたのだ。

いつも失敗しないか、迷惑をかけないか、誰よりもヒヤヒヤしている。

― つまり私は、心配の天才。小心者なのよ。

実際、要領がいいとも言い難い。

部活では毎日深夜や休日に自主練をしてバレーボールの技術を磨いた。高校2年になると、ちょっとの隙間時間も惜しんでヘトヘトになりながら勉強した。

仕事だって、同じだ。

時代に反していると言われるだろうが、休みの日に資料をブラッシュアップしたり、プレゼンテーションの勉強をしたりしているからこそ、凛子は成果を出せる。

「失敗できない」という強迫観念にも似た思いが、凛子を“デキる女”に仕立てあげているのだ。




時刻は17時30分。

心身の疲労を感じながら、渋谷にある会社へ戻ろうと急ぐ。まだ仕事が残っているのだ。

そのとき、社用のiPhoneが震えた。すかさず通知を見ると、メッセージは部長からだ。

『部長:今日はもうあがっていいですよ。僕ももう飲みにいくので。華金たのしんで!』

― うーん。まだ、仕事は残ってるのよね。

帰社するか迷ったが、家でやろう、と決めた凛子は上司に「わかりました」と返事をした。

その瞬間。

凛子は踵を返し、銀座方面に向かう。

― 金曜の夜、このちょっと早い時間に、新橋で暇になったなら…!

目指す場所は、ただひとつだ。


凛子が向かったのは、銀座にある、『資生堂パーラー 銀座本店サロン・ド・カフェ』

ここのパフェは、凛子の人生における必須アイテムと言っても過言ではない。

毎シーズン、足繁く訪れている。

― 季節によってメニューが変わるのがいいのよね。

凛子は、事前にインターネットでチェックしていた「ストロベリーパフェ」を注文する。

― 新潟県の寒いなかで育ったイチゴかあ。

どんなに甘いだろうかと思いを馳せていると、美しくカットされた新潟県産のイチゴが盛り付けられたパフェが登場する。




凛子はスプーンの上にバランス良くイチゴとクリームを乗せて、そっとほおばった。

「んんんんん」

かるくのけぞって、恍惚とする。

― 甘い。それに、すっごい柔らかい…。

口の中に、春のみずみずしさが一気に広がる。

「はあ…」

凛子は、先ほどの定例会で秋坂に向けていたのとはまったく違う、とろけるような笑顔を見せた。

甘いひとくちをほおばっているとき。

その瞬間だけ凛子は、あらゆることを忘れて別世界へと羽ばたける。

誰よりも幸福な華金を過ごしていると、凛子は自負した。

止まらないスプーン。どんどん減っていくパフェに名残惜しさを覚えながら、凛子はスイーツの世界に身を浸す。

身に余るような幸せをチャージし終わると、後ろ髪を引かれる思いでエレベーターを降りて、銀座通りに降り立った。

その瞬間、今度は私用のiPhoneが震える。

『昌文:おつかれ。金曜だし軽く飲みに行こうよ』

彼氏の昌文からだ。昌文は、10歳年上の先輩でもある。

将来の役員候補とささやかれる、敏腕の営業マン。4月で、付き合ってちょうど2年が経ったところだ。

社内ではよく「将来有望のお似合いカップル」と言われるが、凛子はなんだかむずがゆい。

― …行くか。仕事は、その後に寝ないでやればいいか。

『凛子:ぜひ。今銀座にいます』




返事を送った凛子は、仕事のスケジュールが急に入ったときと似たような感覚を覚える。

実際、凛子にとってデートというのは、仕事に近い。

相手の思っていることを観察して、その通りに振る舞ったほうがいい結果になるという点で。

― 昌文さんにとって、いい彼女でいないと。

凛子は彼氏にも、強迫観念めいたものをうっすら感じていた。

たとえば昌文は、凛子によく「凛子は年齢のわりに大人で物事をわかっているから、一緒にいて心が安らぐ」という。

凛子はその評価に対して、「そうしなきゃ」と指示されたような緊張感を覚えるのだ。

― 私って、誰に対してもそうかも。相手の期待に応えようとするあまり、自分の素を見せられないというか…。

両親にさえも、気をつかう。

期待に応えようとするあまり、学生時代からずっと、本当の自分で会話できていないような気がしていた。

友人だって同じで、ありがたいことに知人の数は多いけれど、「親友」であると胸を張って言い合える間柄の人は1人もいない。

― もしかしてこれって…かなり孤独?

突然頭をもたげた悲しい自己評価に困惑しながら、凛子は「さっきのパフェ本当に美味しかったなあ」と気をそらした。

甘いものがなかったら、身が持たないかもしれない。たまに、本気でそう思う。

― いいや、大人なんてみんな孤独よ。

凛子は、昌文に会うならちゃんと化粧直しをせねばと、GINZA SIXのパウダールームを目指して歩いた。

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昌文とのデートで、凛子は顔面蒼白に。一体なぜ?