空港でグランドスタッフに一目惚れした男。思わず名刺を差し出すが、彼女は意外な反応で…
空港は、“出発”と“帰着”の場。
いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。
それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。
成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。
▶前回:外資コンサルの男が、柄にもなく一目ぼれ。思わず“あるモノ”を差し出すと、女は困惑し…
Vol.13 美香の物語
また、成田空港で…
― はぁ、間に合ってよかった…。
276人を乗せた中型機・A330-300が、定刻どおりスポットから離れていく。
美香はモトローラを使って、各部署に運行状況を報告した。それからしばらくの間、ゲートの窓辺に立って、徐々に小さくなっていく飛行機を見送る。
「この瞬間だけなんだよね。ひと息つけるのって―」
美香がつぶやくと、となりにいた後輩の嶋田真澄美が心細そうな声を出した。
「そうですね。ていうか、羽根田先輩。風…強くなってきてません?」
― 確かに、今日は天候が荒れるかもしれない。
外にいる整備士たちを見ると、制服のつなぎのお腹のあたりがたわんでいる。相当風が強いのだろうと、美香は思う。
「次の便はDelay(遅延)するかもしれないから、今のうちに食事しておこう」
「えーっ!私、次もゲートリーダーのOJTですよね?通常のフライトだってまだ危ういのに、Delayするフライトのリーダーだなんて…」
「大丈夫、私もついてるから。ほら、早く戻るよ」
「はぁい…」
ゲートからオフィスまでは、早足で10分強。
「お疲れさまです」
軽く息を切らせた美香と真澄美は、オフィスの入り口で挨拶をする。それからゲートバッグを開けてフライトに関する諸々の書類を取り出すと、所定の引き出しにしまった。
その足で休憩室へ向かう。家で作ってきたお弁当を冷蔵庫から出し、温めた。
「…定刻で出発しますようにっ!」
美香の正面に座る真澄美は、ひき肉が8割を占めるそぼろ弁当に向かって、真剣に手を合わせている。
「何それ、“いただきます”じゃないんだ?まぁ、でも覚悟しておこう」
すると、彼女は苦いものでも食べたかのように顔をしかめるのだった。しかも、その願いは次の瞬間あっけなく打ち砕かれることになる。
「羽根田さんと嶋田さん、ここにいたのね―」
「2人とも、お疲れさま」
次長の声に、美香と真澄美は箸を止める。
「次のフライト、30分Delayになったわ。今からチェックインのヘルプに入って、それからゲートに行ってもらえる?」
2人はまだ1/3も食べていないお弁当を冷蔵庫にしまい、ササッと身支度を整えた。
その数分後。
美香たちがチェックインカウンターにやってきたときには、パーテーションで仕切られた3列の動線いっぱいに人が並んでいるのだった。
こういう日のチェックインは、通常よりも説明事項が増える。お客様から質問を受けることも多く、1人1人に時間を要する。
だから、どうしてもカウンターの前には長蛇の列ができてしまう。
「もう30分以上並んでるんだけどっ」
「時間、かかりすぎだよ!」
順番待ちをするお客様たちの声が、耳に痛い。
それでも美香は、不安やいら立ちに寄り添うように柔らかい口調を意識して、2時間で30人近くのチェックインを済ませた。
12時30分。
― そろそろ行かなくちゃ。
定刻13時55分出発のフライトは、今の時点で30分の遅延が決まっている。とはいえ、ゲートに定刻通りにやってくるお客様も少なくない。
美香は、となりのカウンターでチェックインをする真澄美に「行くよ」と視線を送る。そして席を立ち、“CLOSE”の看板を立てた。
次の瞬間、勢いよく怒鳴り声が飛んできた。
「おい、こんなに混んでるんだぞ!」
「大変申し訳ございません。すぐに代わりの者が参りますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか」
きっぱりと、だけど腰を低くして美香は答える。あとに続く真澄美は、早くも気弱な声を出す。
「羽根田先輩…。私…大丈夫でしょうか」
「大丈夫!行こう」
入社2年目の彼女は、運がいいのかDelayの日にあたった経験が少ない。
― しっかりフォローしてあげなくちゃ。
美香は、周囲の様子だけでなく真澄美にも気を配りながら、ゲートの準備を見守った。
13時40分。
15分後の搭乗開始時刻に合わせて、ゲートのまわりには乗客が集まり始める。
“プルルルル―”
そこへ、電話の音が鳴り響いた。
「えっ!出発時刻が未定…。はい…わかりました」
受話器を持つ真澄美の顔からは、血の気が引いている。
「嶋田さん、チェックインカウンターから?何て?」
「あ、はい。えっと、強風の影響で滑走路がクローズして、全便離発着できないそう…です」
「わかった。じゃあ、まずはお客様にアナウンスして」
「遅延で…出発時刻が未定の場合は…。あった、これだ」
彼女は、動揺しながらもアナウンスマニュアルを開き、マイクをオンにして該当のページを読み上げた。
すると、美香たちがいるゲートは、大きなため息で包まれるのだった。
だけど幸いなことに、いつもより3人も多くゲートヘルプに人をまわしてもらうことができている。職員が8人もいれば、お客様への対応も行き届きやすい。
美香は、まず真澄美に声をかけた。
「嶋田さん、今のうちにお化粧室に行っておいたほうがいいと思う」
「お先にいいんですか?ありがとうございます!すぐ戻ります」
ところが、その帰り。
ゲートの近くで、1人のお客様に呼び止められる彼女の姿を視界がとらえた。それが、終始いら立った様子を見せていた男性客だということに美香は気づく。
― 大丈夫かな?
美香が、様子をうかがうまでもなかった。
「何時間待たせるんだっ!」
大きな怒声に、ゲートのまわりがシンと静まり返った。
「何時に出発かわからないって、どういうことだ!」
激高する男性客に詰め寄られた真澄美は、今にも泣きだしそうな顔をしている。
彼女は、普段は明るくいい子なのだけど、こういう場面にめっぽう弱い。
近くにいたスーツ姿の男性客が、止めに入るべきか気にかけてくれているようだ。
― ありがたいけど…。
お客様同士のトラブルになっては、そっちのほうがまずい。美香はすかさず駆け寄って、頭を下げた。
「羽根田先輩…。すみません」
「ううん、気にしなくていいから。じゃあ、嶋田さんは乗り継ぎがあるお客様のリストをだしてくれる?」
「…はい」
しかし、そこからの真澄美はミスが続き、とてもゲートリーダーを任せられるような状態ではなかった。
美香がゲートリーダーに変わって、2時間。
次長からの連絡で、ようやく新しい出発時刻が決まる。
― 17時25分出発ってことは、3時間30分のDelayね。搭乗開始まであと1時間はあるし…。
「嶋田さん、ミールクーポンの用意してもらえる?」
美香は、チェックインカウンターに電話をかけ、空港内の飲食店で使える1,500円分のミールクーポンを全乗客に配る許可をもらった。
出発時間の目途が立ち、そのうえ食事券を手にすることができた乗客は、ここにきて初めて笑顔を見せてくれるのだった。
重苦しい空気が和らぎ、美香もホッとする。
― これくらいしかできなくて申し訳ないけど…、でももう少しで出発できるから。
自分に言い聞かせるようにして、美香はグッと踏ん張った。空腹も、トイレに行きたい気持ちもとっくにピークを越えている。
ただ、ずっとしゃべり続けていたせいで、のどがひどくひりついていた。
「んんっ」
誰にも聞こえないように軽く咳ばらいをした美香は、ゲートのまわりを見渡す。さっきまでとは打って変わって、数人の乗客を残して静まり返っている。
そのなかに、気になる姿を見つけた。
― あれ?あの人…。
美香の視線の先には、ぐったりと背もたれに体を預ける男性がいた。
― もしかして、具合が悪いんじゃ…。
ソッと足元にひざまずき、声をかける。
「お客様―」
呼びかけると、かすかに反応があり安堵する。
「お客様、お加減はいかがでしょうか?」
「え?…あ、はい。大丈夫です」
「そうですか、失礼しました。ミールクーポンはお受け取りになりましたか?」
「まだです…ね。でも、僕はいいかな」
二言三言交わすと、美香は自分の声がひどくかすれていることに気づく。
男性もそれを察したようで、未開封のペットボトルの水を差しだしてくれるのだった。
もう何時間も水を飲んでいない美香は、のどから手が出るほどそれを受け取りたい気持ちになった。
けれど、“制限区域内では、物の受け渡しは禁止”という厳守しなくてはならない決まりがある。
美香はせっかくの好意を断り、業務へと戻った。
◆
3日後―。
「ご搭乗ありがとうございました」
到着フロアで、ターンテーブルをまわるスーツケースがはけるのを確認した美香は、真澄美に声をかけた。
「次は、ゲートリーダーのOJTね」
彼女は、あのDelayの日からシュンと落ち込んだまま、元気がない。
「実は私ね…初めてのDelayの日、お客様に強く問い詰められて泣いちゃったことがあるの」
「…羽根田先輩がですか?」
「そう、でも今はこんなにたくましくなったんだから。嶋田さんもきっと大丈夫だよ」
「意外すぎます。羽根田先輩が泣いちゃっただなんて」
真澄美は、数日ぶりに笑顔を見せた。2人は揃って税関を抜け、到着ロビーへ出る。
そこへ、うしろから声をかけられた。
「すみません―」
振り向くと、スーツ姿の男性が美香のことをまっすぐに見ていた。
「先日の遅延のときは、お世話になりました。…あの、ゲートで水を―」
美香は、瞬時にその人物が誰なのか思い出す。
「その節はお気遣いいただき、ありがとうございました。
あのときはお伝えできませんでしたが、制限エリア内では物を受け取ってはいけない決まりがあるんです。失礼な対応をしてしまい、申し訳ございません」
男性は、ホッとした表情を浮かべる。
「いえ。そういうわけだったなら、全然。あの、じゃあ今だったら受け取ってもらえますか?」
目の前に、名刺が差し出される。
「素敵な方だなと思ってました。よかったら、今度食事でも」
「…大変申し訳ございません。業務中ですので、差し控えさせていただきます」
美香は、丁寧に頭を下げる。
そして、こう付け加えた。
「またのご利用、お待ちしております」
― あー、ちょっとタイプだったのに。惜しいことしたかな?いや、でも―。
ここは、成田空港。日常からは切り離された特別な空間だから、ちょっとした出来事にもお互い“素敵な出会い”だと錯覚してしまう。ほんの一瞬だけ。
美香にとって、空の下―この空港で出会うすべてのお客様は平等であり、あくまでもお客様の域を超えてはならない存在なのだ。
「羽根田先輩、よかったんですか?イケメンっぽかったのに」
少し離れたところから、真澄美が駆け寄ってくる。
「まぁね。私は、制服を着てない普段の私のことを見てくれる人がいいから。
それより、今日のOJTで無事に合格できたら、ご飯でも食べに行こうよ」
美香は、後輩の背中をポンと叩くと、大空へと飛び立っていく飛行機を目で追った。
― また、成田空港で。
誰に言うでもなく、ただ心のなかでひっそりと思う。
成田空港で働く羽根田美香は、今日も誰かの物語の登場人物になっていく―。
Fin.
▶前回:外資コンサルの男が、柄にもなく一目ぼれ。思わず“あるモノ”を差し出すと、女は困惑し…
▶1話目はこちら:ロンドンから帰国した直後、女に予想外のトラブルが…