あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

経営者の夫・孝之が、秘書と浮気していた事実を知った美郷。あまりのショックに一度は離婚を考えるものの、小学校1年生の娘・絵麻のためにも別れられないと思い直す。

土下座で「魔がさした」と言い訳する孝之に再構築を告げるとともに、ある条件を突きつけたのだった。

▶前回:経営者の夫がまさかの浮気。献身を続けた妻の選択は離婚か、それとも…




クリスマス直前のキデイランド原宿店は、コロナ前と同じような盛況ぶりを見せていた。

お目当てのすみっコぐらしのグッズを買ってもらった娘の絵麻は、ニコニコと満面の笑みを浮かべながら祖父母と両手を繋いでいる。

「じゃあ、絵麻ちゃんは一晩お預かりするわね。美郷さんと孝之も、たまには夫婦水入らずでゆっくり楽しんでいらっしゃい」

「すみません。お言葉に甘えて、絵麻がお世話になります。絵麻、おじいちゃまとおばあちゃまの言うことをよーく聞いてね」

優しい微笑みを浮かべて、義理の母が労ってくれた。私も笑顔で応えるが、祖父母と絵麻の姿が見えなくなると、すぐにその仮面をしまいこんだ。

私と同じように一転して暗い顔になった孝之が、人混みをかき分けてタクシーをとめる。

「美郷、行こうか」

美しいイルミネーションが煌めく表参道で、こんなに沈鬱な表情を浮かべているのは、私たち2人だけのように思えた。

この幸せな空間から一刻も早く逃げ出すようにタクシーに乗り込むと、私と孝之は目的地までの道のりを急ぐ。

恐ろしい地獄が待ち受けているであろう、残酷な目的地への道のりを。


子どもを預けた美郷と孝之が向かった、目的地とは…


傾斜のかかった壁が続く六本木ヒルズクラブの廊下は、いつもほんの少しだけ私の平衡感覚を狂わせる。

だが、軽いめまいに襲われているのは、今日に限ってそれが原因ではないだろう。

会員制の和食ダイニング『百味庵』の個室には、来客の方が先に到着していた。

ふすまを開けると、下座に1人で座っていた女性がハッとした表情を浮かべて振り向く。

彼女こそ、孝之の秘書を4年間つとめている…孝之の浮気相手・木村可奈だった。

「木村さん。ご無沙汰しています」

私は入り口に立ち尽くしたまま、なるべく平静を装って挨拶をした。

「奥様…。ご無沙汰しております」

頭を深くうつむきながら、彼女も応える。

正直に言ってどんな顔をすればいいのか、わからない。これこそが、私が孝之に突きつけた、再構築するにあたっての条件の1つなのだ。

3人で顔を合わせ、事実を確認すること。そして…私の目の前で、木村さんときっぱり別れること。

孝之いわく、彼女と関係を持ったのは6月の1回だけ。理由は単純に「魔がさした」から。

だが、孝之ひとりの主張であれば、なんとでも言えるのだ。

なぜ幸福な日常が壊れてしまったのか、その理由を徹底的に知りたかった。

たとえ孝之と木村さんが綿密な辻褄合わせをしていたとしても、嘘を絶対に見抜くと決意してここへやってきた。

理由は、絵麻のために。ただそれだけだった。

「木村さん、単刀直入に伺います。主人と関係があったのは1度だけで、お互いに魔がさしただけ…ということで合っていますか?」

簡単な事実確認の質問。たとえ事実と違っても、ここは辻褄を合わせてくるのだろう、そう思っていた。

けれど、木村さんの口から告げられたのは、予想もしない答えだったのだ。

「いいえ、奥様。はっきり申し上げます。ずっとずっと、ずっと前から、今もです」




「ちょ…っ、何言ってるんだよ!木村さん、どうしてそんな嘘つくんだよ!」

個室で会うことにしたのは正解だった。そう安堵してしまうほど大きな声で、孝之が木村さんを問い詰める。

だが、孝之の様子は心の底から狼狽しているように見えた。嘘をついているようには見えない。

混乱した私は、改めて木村さんの方へと向き直る。すると木村さんは、切長で美しい瞳を涙で潤ませながら、言葉を続けるのだった。

「私…。ずっとずっと、ずっと前から社長が…孝之さんのことが好きです。先代の息子さんとして初めて社にいらっしゃったときから、今もです。

だから、孝之さんが1度だけでも私を抱いてくれて、本当に幸せでした。孝之さんにとっては魔がさしただけだとしても、私にとってはまったく事実とは違います」

喪服のように真っ黒なワンピースに身を包んだ木村さんの頬が、赤く上気していた。

泣いているせいなのか、突然の愛の告白のせいなのかわからない。だが不覚にも私は、木村さんのあまりの美しさに言葉を失ってしまう。

しかし、木村さんが続けた言葉に、私はハッとして我に返らざるを得なかった。

木村さんはハラハラと涙をこぼしながら、責めるような瞳を向けて私に問いかけたのだ。

「奥様。今回のことは、本当に申し訳ありませんでした。でも…奥様は、孝之さんを愛してますか?」

「そんなこと、当たり前じゃないですか。家族なんですよ」

あまりにも失礼な質問に、思わず頭にカッと血がのぼる。しかし、木村さんは引き下がるどころか、ますます瞳に強い光を宿らせて質問を繰り返した。

「そういうことじゃなくて、奥様は本当に孝之さんを愛してますか?もし、そうでないなら、孝之さんを私に下さい。私の方が絶対に孝之さんを大切にします」

「木村さん!」

私が答える前に、孝之が会話をさえぎった。そして、木村さんに向かって深々と頭を下げながら懇願する。


夫を譲って欲しいという浮気相手。彼女の本音に夫は…


「こんなことになってしまって、本当に申し訳ない。でも、僕が愛してるのは妻と家族です。可奈さん…いえ、木村さんの気持ちには応えられません」

「孝之さ…社長……」

涙を流し続ける木村さんに、孝之は懇々と謝り続けた。

雇用関係がありながら関係を持ったことから、すべての責任は孝之の側にあるとし、孝之から十分な慰謝料を渡すこと。現在の秘書業務から別部署、もしくは関連会社への異動を受け入れて欲しいこと。異動となるまでは在宅勤務とさせてほしいこと。

私たちは、それらの条件を提示して今回の騒動の決着をつけた。

その後の木村さんは、一言も言葉を発することはなかった。ただただうな垂れて、最後に深くお辞儀をすると、私たちと時間をずらすために10分早く部屋を後にしたのだった。



修羅場。

状況をシンプルに表現すれば、これがいわゆる修羅場だったのだろう。

だが、孝之は約束通り木村さんと3人で面会する場を設けてくれたし、私が思っていたよりもずっとハッキリと目の前で彼女を突き放してくれた。

話し合いから3日が経つが、結局木村さんは孝之が提示した条件をのみ、在宅勤務をしてくれているらしい。ただし、慰謝料の受け取りは頑なに拒否していると言っていた。

ともあれ、孝之が私にした言い訳は、すべてが事実だったのだ。木村さんとそういう関係になったのは、たったの1度だけ。彼女に気持ちはなく、本当に魔がさしただけ。

それなのに…。

私の心は、まったく晴れる気配がない。

その理由は、わかっていた。

私は木村さんの、孝之を想う強い気持ちにすっかり打ちのめされていたのだ。

「奥様は、孝之さんを愛していますか?」

木村さんの質問が、耳の奥にこびりついて離れない。

もちろん、孝之を大切に思っている。大学に入学してすぐ、18歳の頃からなにもかもを犠牲にして時をともにしているのだ。孝之のいない人生なんて考えられない。

けれど…。あれほど強い気持ちで、孝之を欲したことがあっただろうか?木村さんよりも激しく、孝之を愛していると叫べるだろうか。

私を正面から見据えて「私のほうが絶対に孝之さんを大切にする」と言い切った、木村さんの美しい瞳。それを思い返すと、私の心は暗く沈むのだった。




絵麻も眠り、時刻は23時を回っている。

私は小さくため息をつきながらお風呂上がりのスキンケアを終えると、キングサイズのベッドに潜り込んだ。

「美郷、おやすみ」

すでに布団に入っていた孝之が、そう私に声をかける。

「おやすみなさい」

私も小さく返事をすると、孝之に背中を向けて枕元のライトを切った。

こうしていると、すっかり“事件”以前に時が巻き戻ったみたいだ。というのも、これも私が再構築のために孝之に出した条件なのだった。

― すべてが片付いたら、元の生活に戻ること。

今回のような屈辱的な出来事は2度と思い出したくない。なにより、私たちがいつまでもギクシャクしていたのでは、絵麻に悪い影響があるかもしれないと心配だった。

夫の一夜の過ちはなかったことにしなければ、とても再構築などしていられない。

そう感じた私は、孝之に“元通り”になることを強く願ったのだった。

でも…現実はそんな簡単なことではなかった。

真っ暗になった部屋で眠りに落ちる直前のまどろみに浸っていると、ふと肩に温かさを感じた。それは、事件が発覚してから初めて感じる、孝之の手の温もりだった。

短い愛の応酬が始まる合図。“以前”であればなんの疑問もなく受け入れていた、夫の温もり。

それなのに、いま私の全身を走り抜けるのは、甘美さのかけらもない氷のような悪寒だった。

「やめてよ…っ」

そう言い放ってから、悲鳴のような冷たい言葉が自分の口から出たのだと気がついた。

孝之が叱られた子どものように凍りついている様子が、背中越しの暗闇の中でもはっきりと感じ取れたのだった。

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夫婦関係を再構築するはずだったのに…。いつもの日常が砕け散った夫婦の行く先は?