感染症の流行により、私たちの生活は一変してしまった。

自粛生活、ソーシャルディスタンス、リモートワーク。

東京で生きる人々の価値観と意識は、どう変化していったのだろうか?

これは”今”を生きる男女の、あるストーリー。

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Act8. 最後の砦

2019年11月


望月桐花の幸せ…それは、娘・栄花の笑顔である。

「ママー。お仕事、頑張ってね」

桐花は保育園の見送りで、娘の笑顔から元気をもらって今日も仕事に向かう。

「ありがとう。えぃちゃんもお友達と仲良くね」

今年で2歳になる栄花。桐花に似て目鼻立ちが整っている、天使のような可愛い女の子だ。イヤイヤ期真っ盛りだが聞き分けはいい方で、その賢さはシングルマザーの彼女にとって、とても助かっている。

― この子は、何事にも代えがたい宝物…。

大手ディベロッパーの設計部門で働く桐花。完璧な仕事ぶりで男性社員にも引けを取らず、顧客や同僚からの信頼も厚い。

実家は遠方であるため助けは借りられないが、子育てサポートが充実している地域に引っ越し、病児保育やシッター、ママ友や地域のサポートを駆使してなんとかやっている。バリバリ働く彼女を子持ちだと知らない社員も多い。

「子ども?まぁ、何とかなるものよ。あのコも小さいながら理解しているみたいだし、もうこの生活が普通になっちゃってむしろ余裕?みたいな」

職場の飲み会で、桐花はビールを手に笑いながらそう語った。強がりもあるが、金銭的余裕もあるゆえ、本当になんとかなっているのだ。

そう、2020年が訪れるまでは…。


仕事と育児。両立を困難にさせる事態が起こってしまう…


2020年4月


緊急事態宣言が発令されて数日後、桐花は保育所から渡された通知に目を疑った。

「え…原則登園自粛って、そんな…」

申し訳なさそうに頭を下げる保育士。桐花は必死で詰め寄った。

「でも、仕事があるんです。何とかなりませんか?」

「申し訳ありません。自治体からも指示があり、医療福祉、流通関係の保護者以外の児童はそのような対応にさせていただきました。どうぞご理解ください」

頑なな保育士の言葉。周りに保護者もいたため、それ以上訴えるわけにはいかない。桐花は明日への不安を胸に、暗い夜道を栄花と帰宅した。

― どうしよう、今から預けられる人はいるかな…。

栄花が寝静まってから慌ててシッターを探すも、この状況でどこもいっぱい。とりあえず会社は数日休ませてもらうことにした。

3日後以降の予約はとることができたが、仕事の時間ほど預ければ1日1万円以上かかる。この先、休園状態が続いた場合のことを考えると、桐花は憂鬱になってしまった。




桐花は寝室に戻り、幸せそうに眠る栄花の顔を見て気持ちを安らげる。

時折、コホコホとせき込む喘息気味の小さな背中をさすりながら、感染症リスクよりも仕事のことを考えてしまう自分を恨んだ。

― 余裕だと、思っていたのに…。

自分なら、うまくやれると思っていた。真面目で計画性も高く、1人でも子育てできる財力と環境も揃っている。

だが、それは平和に日常が流れていればの話だ。すべてがイレギュラーになったこの世界では、いつも通りの生活ができなくなってしまった。

今は、先がほぼ見えない綱渡りの状態…。その状態は自分だけではないが、桐花はどうしようもなくなってしまい頭を抱えた。

「そういえば、前もこんなことあったな…」

桐花は、元夫・栄作との2年にも満たない結婚生活を思い出す。

入籍後、1年ほどで第1子・栄花を出産した桐花。お互いの仕事を両立すべく、0歳で栄花を保育園に入れ、家事分担や育児の明確なルールを決めていたのだが…。

それは、理想に過ぎなかった。

独身気分が抜けない栄作は、すべてを彼女に押し付けたのだ。子どもを迎えに行かず平気で残業をする、ミルクを当番制にしたにもかかわらず、夜に子どもが泣いても起きない…など。

どんなに分担しても、栄作は桐花が指示した通り動いてくれない。むしろ負担になった。一日一日がどうなるかわからない状態だった。

「なんで分担した通りできないの!?」

「できないよ。俺は君じゃないんだから!!」

口論が続く毎日。ついに桐花のストレスが爆発してしまい、それがきっかけで離婚してしまったのである。

頼めばちゃんとこなしてくれる他人の助けを借りていた方が、スムーズに進むし、夫の世話もしなくていいからずっとラク。

桐花に離婚を後悔する気持ちはない。

だが、今になってふと思ってしまった。

― 栄作がいたら、助けてくれたかな…。

養育費はある程度の金額を一括で受け取ったため、もう連絡は取っていない。

栄作は風のうわさで勤務していた会社を辞めたと聞いた。その自由さに、離婚してよかった、と心から感じる。

桐花は、頼ろうと思ってしまった自分を悔やむのだった。


可愛い我が子を悪魔と感じてしまった桐花はついに…


幸い会社でリモートワークの体制が整い、可能な限りではあるが在宅勤務が許された。

桐花は、栄花の面倒を見ながら家で仕事をすることにした。だが…。

「ちょっと!ママはお仕事中なの。大人しくトトロ見ててよ」

「やだー。遊びたい」

栄花はことあるごとに膝の上に乗り、パソコンのキーボードをいじり始める。

「ちょっと!そこ触らないで!」

仕事時間の半分以上を、このようなやりとりに費やす。会議の時にもやってきて、なかなか話が頭に入ってこない。

「大変だねえ」「かわいい」と同僚たちは笑っているが、桐花の頭の中は申し訳なさと仕事に集中できないイライラでいっぱいだ。

そして、ついに限界が訪れてしまう…。

「えいちゃん、何したの!?」

少し目を離した隙にパソコンをいじった栄花が、業務で大事な作業中のファイルを削除してしまったのだ。

「おてつだいしたの」とニコニコする彼女が憎く、さらに怒鳴ると、その天使の笑顔はゆがみ、耳をつんざくような声で号泣した。

それでも桐花の怒りは収まらない。泣く栄花を放置して、寝室に引きこもった。

― もう、だめ…。

泣く子どもの声を聞き、胸が痛む。すると、スマホが突然振動した。通知の名前は、珍しい人物だった。

「もしもし…久しぶり」




久々に会った夫。別れた時は物心つく前だったのに、栄花はすぐにずっと接してきたかのような懐き具合を見せた。

「やっぱり、パパだってわかるのかな」

「さぁ…私に似て賢い子だからね」

退職後、起業準備に入ることに伴う引っ越しの連絡をしてきた栄作。話の流れで現状を訴えた桐花に対し、彼はすぐに家に駆け付けてくれたのだ。

「とりあえず、作業進めなよ。明日が期限なんだろ。俺は今、時間ならたくさんあるから」

栄花を抱いてリビングから出て行った栄作。子ども部屋からうっすら聞こえる笑い声をBGMにしながら、桐花は溜まっていた仕事をこなすのだった。



「お疲れさま」

仕事を終え、気がつけば夜の23時過ぎになっていた。栄作はご飯を用意し、風呂や寝かしつけまでしてくれていた。

「ありがとう。これ…」

桐花が財布から1万円を出すと、栄作は首を振った。

「いらないよ。僕も楽しんだし」

「でも急で、迷惑かけたでしょ?私も気持ち的に、この方がラクよ」

そう言うと、彼は桐花の両肩をグッとつかんだ。そして、真剣な目で見つめるのだった。

「迷惑、かけてくれよ…」

「え…」

そして栄作は「今さら、謝っても仕方ないと思うけど」と謝罪を始めるのだった。

家族だった頃は親として未熟だったこと。妻と子どもがいなくなってから、自分の身勝手さや自覚のなさに気づいたこと…。

「君に甘えていたんだ。だから、その時の借りを返させて欲しい」

思いがけない彼の言葉…。桐花の目からは、自然と涙がこぼれていた。

― こんなこと、言ってくれる人だったの…?

正直、彼がすぐ駆けつけてきたことは想定外だった。こうやって、改心しようとしていることも。

自分は今まで、何もかも完璧を求めすぎていた。仕事のように、綿密な計画通りにこなしていればうまくできると考え、臨機応変に対応できる余裕がなかった。

しかし、未曽有の世界で予想外の状況、そして子育て…。

これからの人生でも、イレギュラーは十分にあり得ることだ。

桐花は、いつの間にか栄作の胸の中で涙を流していた。こんなふうにまた彼に甘えることになるなんて、考えられなかった。

この先、どうなるかはわからない。

でも、今はちょっとだけ彼に甘えて、迷惑をかけてみよう。

桐花は栄作の胸の中でそう考えたのだった。

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自粛生活のSNSで可視化される、本当の友達と自分の姿…