ヒモ同然だった元カレが、司法試験に合格。生まれ変わった彼から差し出された、封筒の中身は…
― 【ご報告】―
SNSやメールでたびたび見るこの言葉に、心がざわついた経験はないだろうか?
人生において、新たなステージに入った【ご報告】をする人。
受ける側は【ご報告】されることによって、相手との関係性を見直したり、自らの人生や現在地を振り返ることになるだろう。
この文字を目にした人は、誰もが違う明日を迎える。
これは【ご報告】からはじまるストーリー。
▶前回:起業して、急に羽振りの良くなった元同僚に呼び出され…。変化のない毎日を送る女が言われた言葉
Vol.9 <ご報告:合格しました>
会社帰り。何の予定もない金曜夜の電車内。
奈津美がなにげなく元カレ・向原良一のTwitterアカウントを覗いてみると、トップにピン止めされていたのは、去年の秋のツイートだった。
@むかいはら(@司法修習中)
苦節9年、32歳でやっと司法試験に合格いたしました。共に切磋琢磨し、そして苦しみを分かち合って下さった皆様のおかげです。ありがとうございました。#司法試験
― 頑張ったんだ、良一。
驚きとともに、懐かしい気持ちが蘇ってくる。
4年前、良一とは彼の司法試験5浪が決定したことをきっかけに別れた。
奈津美は新卒から大手電機メーカーで事務系総合職として勤務。当時は彼の生活のほとんどを面倒見ていたと言っても過言ではない。
一緒に暮らしながら、良一の浪人生活を支える毎日。
良一は学習塾でのアルバイトに精を出しているかと思えば、突然いなくなってバイクで長期間貧乏旅行にいってしまうような、そんな男だった。
付き合い始めの学生の頃は、そんな奔放な彼に魅力を感じていた。しかし、成長も努力もする気配のない状態が何年も続けば疑問を持ち始めるのは当然だ。
そして、5回目の不合格の夜。予備試験を受けて再度チャレンジするか、諦めて就職するかの二択を突きつけると、彼は迷わず前者を選んだ。
そんな良一に、一緒にいても意味はないと愛想を尽かしたのだ。
奈津美は、彼に遅ればせながらのダイレクトメッセージを送る。
<おめでとう>
程なくして、返事がきた。
<ありがとう。あの時、喝を入れてくれた奈津美のおかげだよ>
ふたりの時計が、再び動き出した。
良一から食事に誘われたのは、2、3回のメッセージを交換したタイミングのことだった。
― まさかとは思っていたけど、本当にこの店、予約したんだ。
丸の内の『Morton's The Steakhouse』。
半信半疑で、良一の名前をレセプションに告げる。ちゃんと予約は入っており、奈津美は席に案内された。
同棲していた頃。
テレビでニューオープンと紹介されたこの店を見て、「いいな、行ってみたい」と奈津美が呟いたことがあった。
「え、連れて行ってくれるの?」
スマホを見ながらごろ寝していた彼の一言にカチンときた奈津美は、最大級の嫌味を返した。
「司法試験、合格したらね。あるのかなぁ、そんな奇跡」
「あはは。いつになるかなー」
乾いた笑いに、奈津美の苛立ちはさらにつのっていった。
きっかけとまではいかないけれど、それは積み重なった別れの理由の一つに違いない。
◆
「久しぶり」
良一は、すでに席で待っていてくれた。あの頃は外で待ち合わせても遅刻がザラだったのに。清潔感あるネイビーのスーツが似合っている。
「良一、この店、覚えていてくれたんだね」
「え…?」
「合格したらこの店に連れて行ってあげるって言ったよね。まさか、自分で予約してるなんて」
奈津美は戸惑いながらも席に腰をおろす。
「ああ、どこかで聞いたことあると思っていたんだ。でも安心して、今日は奈津美をご馳走するために呼んだんだ」
良一はそう言いながらスタッフを呼び、ポーターハウスコースとシャンパンを注文する。
トップランクのコースを当然のように選ぶ彼。昔とは全く違うそのスマートさに成長を感じた。
「ここね、内定先の先輩に教えてもらったんだ。先輩といっても、大学の同級生だけれどね。テニスサークルの綾瀬。覚えてる?」
「内定…?」
「うん。一応もう、お世話になる事務所は決まってるんだ」
名前を聞けば、五大事務所でこそないが、奈津美でもその名を知っているほどの大手であった。
何浪もしているだけあって、就職にも苦労しているだろう。何の疑いもなく、そう思い込んでいた。
だが良一は、知人の伝手を辿り苦労人の経歴を買ってもらったのだ、と、煌びやかな現在地を謙遜する。
「奈津美と別れてから、ようやく本気になったんだ。実家に戻って、受験勉強に専念する生活にしたんだよね」
今は、世田谷にある実家で暮らしながら、司法修習生として仕事を学んでいるのだという。
良一の口からたびたび発せられる「奈津美には本当に感謝している」という言葉はどうやら本心のようで、会話や行動の端々にその想いが溢れていた。
― 嫌味の一言でも言われるかと思ってた。
メッセージのやり取りをした当初は浮かれていたが、よくよく考えてみれば、自分は良一にひどいことをしたのだ。
試験に失敗し、これ以上なく落ち込んでいるところに、追い打ちをかけたのだから。
「今日は、あの頃のお礼を、気のすむまでさせてほしい」
幸せそうに微笑む良一を前にして、奈津美も思わず顔がほころぶ。
彼を疑ってしまったことを申し訳なく思った。
その時だった。
「あとこれ…。気に入れば、いいんだけど」
そう言って良一がテーブルの下から取り出したのは、大きなショッピングバッグだった。
その中身は、セリーヌのラゲージ。サイズも色も、以前から憧れていた品、そのものだった。
「もう、持っていたらごめんね。僕の気持ちだよ。今日会うことが決まって、慌てて買いに走ったんだ。今の自分があるのは、本当に何もかも奈津美のおかげだから…思い切って貯金を崩しちゃったよ」
受け取る手が、嬉しさのあまり震える。
そして、奈津美の胸には、ある感情が再び湧き起こってくるのだった。
良一は、自分をじっと見つめている。奈津美は思わず視線をそらした。
「雰囲気も素敵。お食事も美味しいね」
「うん。さすが、奈津美のアンテナにひっかかったレストランなだけある」
「忘れていたくせに」
極上のプライムビーフとワイン。心づくしのプレゼント。
失われていた良一への想いが再燃するのに、時間はかからなかった。
― このまま、告白、されるのかな…。
奈津美の心に再び火がついたのは、良一が司法試験に受かったからというだけではない。
本気で努力して夢を叶え、ここまで大人な振る舞いができるようになった今の彼に、まっさらな気持ちで惹かれたのだ。
奈津美はうっとりした表情で彼を見つめた。自覚できるほどにトロンとした目で、彼の瞳を捉える。
すると、彼は突然姿勢を正し、白い封筒を差し出すのだった。
「突然だけど、これ……」
「え、なに?」
まさか…と、困惑しながらも口元を緩ませ封を開ける。
「僕の気持ち。受け取ってほしい」
そこには──百万超の金額が書かれた小切手が入っていた。
「ど、どういうこと?」
「付き合っていた時はありがとう。出世払いというまで出世していないけど、借りたものは返さないと、安心して結婚もできないから」
「結婚…?」
奈津美は目を見開いた。
聞けば、奈津美と別れた後に出会った女性に、ずっと精神的に支えてもらっていたのだという。
「結婚前の禊、っていう感じかな」
そうはにかむ良一を見て、奈津美は顔を紅潮させながら、浮かんだ妄想を慌てて全てかき消した。
「禊…。その彼女に頼まれたの?」
「いや、違うよ。奈津美と付き合ってた頃は、ずっと心苦しかったから。プレゼントもできなかったし、レストランにも連れていけなかった。これは僕がしなくちゃいけないことなんだ」
良一の、何もかも吹っ切れたような笑顔。
奈津美はあの頃、良一がただのほほんと自分の元で暮らしていたわけじゃなかったことを悟る。
彼なりに悩んで、後ろめたさもあったのだ。それがちゃんと計算された金額に表れている。
― 私…そんなこと、気づけなかった。将来を信じてあげることも。
何度も押し問答を繰り返したのち、渋々、厚意は受け取ることにした。
「じゃあ、これだけは返す。私より彼女に渡した方が喜ぶんじゃない?」
奈津美は、怒りとも悲しみともつかない気持ちを一生懸命抑えながら、バッグが入ったショッパーを差し出す。
「大丈夫。彼女は高級品に疎い女性なんだ」
「あ、そう…」
無理に押し付ける気にもならなかった。
良一とは、店を出てその場ですぐに別れた。
彼はこれから、婚約者の元へ向かうという。
「…お幸せに」
彼の後ろ姿を見送りながら、あの時なぜTwitterアカウントを見てしまったのか、という後悔に襲われる。
ひとりぼっちの金曜日の夜は、いてもたってもいられないほどの不安と寂しさを覚えることがある。
そんな感情を少しでも慰めるために、自分よりも辛い生活をしていそうな人間を見るつもりで──いまだに司法試験に受からずに、惨めなフリーターをしているであろう良一のアカウントを開いたのだった。
奈津美は結局、未だにひとり。
心の中に、季節外れの寒風が吹いた。
「私も、がんばろう…」
奈津美は冷たい石畳の上に佇みながら、静かに呟いた。
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