産後すぐに生命の危機にあい、これまで計17回手術をしたという認定NPO法人日本こども支援協会の岩朝しのぶさん。小学4年まで長期入院し、「学校では転校生?って言われた」という当時のお話を伺いました。(全4回中の1回)

【写真】「実は壮絶な入院生活を送っていた」ふっくらかわいい4歳のころの岩朝しのぶさん(全14枚)

普通の出産のはずが、生まれてすぐ大学病院へ緊急搬送

4歳のころ、入退院を繰り返していた岩朝さん

── 岩朝さんは生まれたときに緊急手術をされたそうですね。

岩朝さん:はい。実は、この前も手術したので計17回になりました(笑)。私は腎臓や腸など、内臓が不完全な状態で生まれてきて、緊急手術でなんとか命を取り留めたんです。それからは、成長段階に合わせて不完全な内臓を再形成する手術を繰り返しました。内臓以外にも新しい病気が見つかったり、疾患の症状も出たり。結局、小学4年生くらいまでは病院で暮らしていると言えるほどの長期入院をしました。

── 小4のころまでほぼ入院生活だったんですね…。妊娠中から異常は見つかっていたのでしょうか?

岩朝さん:母が私を出産したのはごく普通の産婦人科で、妊娠中は何も異常が見つからなかったそうです。逆子でもないし、母は普通に出産するつもりでいたと話していました。体重も3400gと少し大きめに生まれたんですよ。

でも、出産後の状況は母がイメージしていたものとは全然、違っていたそうです。夜中2時ごろの出産だったのですが、生まれたばかりの私は母のもとではなく別の場所へサッと連れていかれたそうで。母の容態があまりよくなかったこともあり、意識がもうろうとしている母を驚かせまいと、看護師さんたちはすぐには私の容態を知らせようとしなかったようです。

生まれたばかりの私はもう死にそうな状態で、チアノーゼが出て全身紫色だったとか。生まれた病院から車で15分ほどの大学病院に搬送され、緊急手術をしました。早急に適切な処置が受けられたために奇跡的に一命を取りとめたそうです。

命も危ういなか子宮を温存してもらえた奇跡

── 命が無事でよかったです。

岩朝さん:そのときの宿直医がたまたま私の病気の専門医だったんです。多くの内臓が不完全なうえ、生まれたばかりで処置に時間もかけられない。もし他の専門医が宿直医だったら、命を助けるために不完全な内臓はすべて取り除く判断をされていたと思います。でも私の場合は、手術を担当した医師が子宮を温存し、それ以外の内臓を緊急的に形成し直す手術をしてくれました。

6歳のころの岩朝さん(中央)。お友達のお見舞いに

30代に入って不妊治療を考え始め、自分の体について調べたときに、当時私と同じような状態で緊急手術を受けた赤ちゃんのほとんどは、子宮を取られていたことがわかったんです。担当してくれたのは男性医師だったですが、のちに「妊娠・出産ができる可能性を残してあげたかった」と話していました。

当時、生まれたばかりの赤ちゃんの子宮を温存する技術を持った医師はごくわずかしかいなかったそうです。私はたまたま緊急搬送されたときに宿直していた医師がその技術を持っていた。生きるか死ぬかの瀬戸際でさまざまな判断が難しい状況のなか、子宮を温存できる形に直し、また赤ちゃんの体に戻す、そんなリスクの高い手術をしてくれました。しかも命が助かった。生まれたときから、「自分はラッキーとしか言いようがない人生なんだ」と思いました。

ただ、どうしても残すのが難しかった内臓は除去されていて、たとえば腸などは普通の人の半分くらいしかありません。いろんな部位を形成し直してもらい、なんとか生きてきたという感じです。

── 入院生活のことは覚えていますか?

岩朝さん:よく覚えています。大学病院に入院しているのは重症の子ばかりで、みんな半年とか1年とか、長期にわたって入院していました。顔色を見るとなんとなくわかるんです。目に黄疸がある子は「肝臓系の病気かな」と思ったり、顔色が特に悪い子は「10歳まで生きられないんだろうな」と察してしまったり。

そんな子どもたちを医師や看護師さんは愛情たっぷりに包んでくれて。小児病棟はそれはもう、温かい世界でした。先が見えているからこその温かさというのでしょうか。周りの大人たちが1日1日を大事に、すごく優しく接してくれたことを覚えています。

命を救ってくれた先生には「今でもおごってもらってる(笑)」

── 岩朝さんが手術してもらったドクターとは今も交流はあるのですか?

岩朝さん:大学病院の医師はたいてい、何年かすると別の病院に転職されるのですが、私の担当医はずっと大学病院にいてくれました。「長期的にその子の経過を把握しているドクターがいないといけない。だから転職しなかった」と言っていました。今でもその先生とは交流していて、当時の病児たちと、表向きは「先生を囲む会」と称して先生にごちそうになる会(笑)を開催しているんですよ。

現在の岩朝しのぶさん(写真/寺尾公郊)

── 先生にごちそうしてもらうんですね!(笑)

岩朝さん:はい(笑)。生き残った者の責任ではないですが、長期入院していた10年間で、たくさんの子が亡くなっていくのを目の当たりにしました。だから、「1日もムダにしないで生きていこう」とずっと思ってきて。子どものころに長期入院するような病気をした場合、私のようにその後外で動き回れるほど元気になれるのはごく少数なんです。

とはいえ、思春期は体じゅうが手術の跡だらけで、恋愛などいろんなことで思い悩みました。中学生のころには、「海に行こう」と誘われても「ビキニなんて着れないし…」となってしまって。「どうせ私なんか…」って腐っていた時期もありましたね。

── 思い悩むのも当然だと思います。

岩朝さん:いっぽうで、「頑張ったらここまでできるんだ」という成功体験もありました。長期入院中は、毎日とにかく生きるために必死で、勉強なんて気にする余裕もなかったし、親やまわりからも「勉強、大丈夫?」なんて言われたことがなかったんです。私がいつまで生きられるかわからない状態だったから、「生きていてくれるだけでいい」って、それだけ。誕生日を迎えるたびにみんな涙を流して喜んでくれていました。怒られた記憶もほとんどありません。

そんな感じだから、入院中はまったく勉強しなくて、漢字は何ひとつわからないし、算数もわからない。小学4年くらいで退院できて学校に行ったのですが、勉強なんてちんぷんかんぷんでした。でも、頑張って勉強の遅れを取り戻して、小学6年くらいには学年で上位になっていたと思います。

── 学年で上位だなんて、すごく頑張ったんですね。

岩朝さん:中学2年のときもまた長い入院をして、学校に帰ってきたらまた浦島太郎状態になっちゃったんですけど(笑)。二次方程式とか全然わからなくて、呆然としました。

ただ、その後、3か月くらいでみんなに追いつけたので高校受験はなんとかなったんですけど。学校から帰ってきたら勉強をして、次の日の休み時間には職員室に行って先生にわからないことを質問していました。

「生きたくても生きられなかった命」を知っているから

── 幼少期のつらい経験から、里親を支える活動を始められたんですね。

岩朝さん:今、里親の啓発・支援活動をしているのは、虐待に遭った子たちをひとりでも助けたいからです。生きたくても生きられなかった命を見てきたから。

健康って、お金を出しても買えないんですよね。でも、世の中には、せっかく健康な体で生まれたのに、親から暴力を振るわれたり、ご飯すらもらえなかったり、そんな仕打ちを受けている子どもがたくさんいる。しかも亡くなる子がいるなんて私には耐えられない。

もし5歳の子が虐待で亡くなったとしたら、守ってもらえるはずの親から虐げられて地獄のような5年の月日を過ごし、たったひとりでどんなに苦しい思いをするか…。同じ5歳でも、小児科で亡くなった子たちは、まわりの大人から1日も愛されない日がないなかで最期を迎えます。そんな子たちを知っているから、「おなかがすいた」「痛い」「ごめんなさい」と言いながら亡くなる子どもがいることが本当に耐えられない。これってやっぱり運命ではない。小児がんの子たちは私たちが頑張っても助けることが難しいとしても、虐待に遭っている子たちは亡くなる前に助けることができると思うんです。

いま、虐待や不適切な環境、経済的な問題などさまざまな理由から保護された子どもたちを児童相談所から一定期間預かり、子どもにとって「自分だけを見てくれる大人」として育てる養育里親が不足しているという現実があります。その状態をなんとかしたい。だから、自分にできることに取り組んでいるところです。

PROFILE 岩朝しのぶさん

いわさ・しのぶ。1973年、宮城県生まれ。先天性の病気によりこれまで17回の手術を経験し、シングルマザーの母親に支えられ幼少期を過ごす。25歳で起業後、広告代理店業の代表に就任。不妊治療を経て養育里親となり、現在も現役里親として子どもを養育している。認定NPO法人日本こども支援協会 代表理事 一般社団法人明日へのチカラの代表理事 「ドコデモこども食堂」代表。

取材・文/高梨真紀 写真提供/岩朝しのぶ