前回:「22時までに夜桜を見たい」地方出張中に上司を先に帰らせ、意中の彼女と…



弘前公園のさくらまつりに行くため、京子と大輝はタクシーに乗った。

それならばとタクシー運転手がすすめてくれたのは、弘前公園の東門前での下車。2人がタクシーを降りたその瞬間、強い風が吹いて京子が巻いていたストールが舞いあがった。京子の顔を覆ったそれを大輝がほどいて、京子の首に巻きなおしている時に、京子が言った。

「教えてくれる?」
「え?」
「恋とはどういう感情なのか、あなたが私に教えてくれる?」
「…それって、どういう…」

意味ですか?とストールをととのえる手を止めぬまま、大輝が京子に問い返すと、京子はハッとしたような表情になった。

「…ごめんなさい。変なこと言った…」
「…恋を教えてっていいました?今」

確認され恥ずかしさが増した京子は、忘れて、とうつむく。すると大輝が、いや、忘れません!と慌てた声で言って、京子の手を取った。その手がぎゅっと握られ、驚いた京子が顔を上げる。

「教えたいです、恋。オレが京子さんに」
「違うの、恋そのものじゃなくて、恋というものがどういう感情なのかを教えてくれたら…」
「どう違います?」
「…説明するから、ちょっと一旦手を放して…」

そう言って、大輝の手から抜け出そうとした京子のその力を、大輝がぎゅっと引き留めて言った。

「恋を教えるのなら、実技込みにしましょう」
「……実技?」

これですよ、と、大輝はつないだ手を京子の視線まで持ち上げ、行きましょう、とうれしそうに歩き出した。振り払われぬようにと大輝が強めに握ったその手を、京子はほどくことはしなかったものの明らかに動揺し、その顔は夜目にも赤くなっているように見えた。そして大輝も。

― ヤバい。落ち着けオレ。

2人きりになりたいとは思っていたけれど、こんな展開は予想も期待もしていなかった。京子とつないだ手のひらが…まるでそこに心臓が乗り移ったみたいにジンジンと熱を持ち始めている。

― 中学生かよ。

自嘲し、緊張をごまかそうと大輝は饒舌になる。

「たとえ疑似でも京子さんとの初デートだから、ここを選んだ自分を褒めたいです」

ライトアップされた夜桜、手をつなぐにはちょうどいい寒さって最高、と茶化す大輝に京子があきらめたように笑う。その笑顔にキュンとしながら、大輝はここが旅先である幸運に感謝した。東京ならきっと、手をつなぐことはもちろん、2人きりの花見だって躊躇している。

「好きな人を世間の悪意にさらすのって怖くない?……とすれば、そもそも、その思いは報われちゃダメというか…相手を守れるなら報われなくてもよくない?日の当たる場所にでちゃダメな恋なんじゃないの?」

美里にそう言った自分の言葉を、大輝は自戒をこめて思い出す。自分の願いは、京子の望みを叶えること。今はただ、自分の欲望をこの人に利用してもらうだけだ。そう言い聞かせながら、京子の手をぎゅっと強く握りなおした。


「弘前公園のさくらまつりって、日本三大夜桜って言われてるらしいですよ」

事前のリサーチに基づく情報をしゃべる大輝に、なるほど、と頷く京子との間には思ったほど色っぽい空気は流れない。それでも、弘前城を中央に据えた広大な敷地にライトアップされた膨大な数の桜の木々は日本三大夜桜という名にふさわしく華やかで、大輝は浮足立った。

屋台でたこ焼きを買って、京子が猫舌なことを知った。2本の桜の枝が重なり、空にハートが描かれているように見えるスポットで写真を撮ろうとした時には、何回トライしても京子の表情がぎこちなく、それを大輝がからかい、笑いあった。

途切れることがない人波の中では、はぐれぬようにと手をつなぐことが必然に思えて、手をつないだり、離したり。そのうちに、人にぶつからぬようにと、時々大輝が京子の肩を抱くことも、顔を近づけて喋るその距離も、ごく自然になっていった。

「ボートに乗りたかったな」

弘前城の西堀を両側から覆うように並び立つ桜が水面に映り、美しいのは夜だからこそ。でももし昼間なら、その川面を京子とボートで過ごせたのにと大輝は少し残念に思ったが。

京子は、その夜ならではの美しさを…花びらが水の流れに薄紅の絨毯のように浮き、ライトにきらめく様子を立ち止まって見つめている。それを急かすことなく待っていた大輝の視線にしばらくして気づいた京子は、照れたように言った。




「ごめんなさい、さっき私、すごく子どもっぽいこと言ったよね」

35歳になるのにね、というその言葉が、恋とはどんな感情かを教えて欲しいと言ったことを指すのだとわかって、大輝は、子どもっぽくてもいいじゃないですか、と答えた。

「オレもよく下手だって言われてますよ。恋愛」
「…よく?意外すぎるね」
「向こうからきてくれると楽っていうか。正直、ライトな関係ならいくらでも上手くこなせるんですよ。でもなかなか…」

自分からどっぷりハマると加減がわからなくなるということを、京子の前で口にするのは気が引けて大輝は話題を変えた。

「京子さんは、恋の感情が知りたいって…なんで思ったんですか?」
「どういうものか知らないのかも、って気づいちゃったから」
「…それは…ご主人に対しては恋じゃなかったと?」
「どうだろう。……恋愛経験が少なくて、ほぼ彼しか知らないから机上の空論的になりがちで。私が思う恋はリアルじゃなかったのかもしれないって反省したの。恋愛で傷ついた記憶もないなぁって」

30半ばで気づくことじゃないんだけど、と笑った京子に大輝は、今、十分に傷ついてるじゃないですかという言葉を飲み込み、言った。

「京子さんが反省するんじゃなくて、相手を責めてもいいと思うんですけど。悪いのは、どう考えても浮気した旦那さんで、その相手なんですから。文句ならいくらでも聞きますよ」

大輝の言葉に答えず、ただ微笑んだ京子の髪にヒラヒラと数枚の花びらが舞い落ちる。それをつまんで外した大輝にお礼を言った京子が、行こう、と歩き出した。

日本一古いと言われるソメイヨシノ、ヤエベニシダレと呼ばれる枝垂桜、オオヤマザクラと呼ばれる野生種など、2,600本もの様々な種が咲き誇る公園内を回りながら、あ、と大輝が足を止めた。

「これ、京子さん好きそう」

真っ白な花びらの桜。大輝が携帯の植物名を調べるアプリで写真を撮ると、オオシマザクラという名前だった。

オオシマザクラの花びらは白くて一重だった。濃淡はあるものの桃色で、種によっては幾重にも花びらを重ねて咲き誇る周囲の桜と比べると、一見地味にも見える。だが。

― 確かにこの桜、好きかも。

そぎ落とされた美というか、凛としている。そんな自分の好みを大輝が言い当てたことに京子が感心していると。

「あ、桜餅の葉は、このオオシマザクラの葉を塩漬けにするんだって」

携帯を見ながら言った大輝を、京子は、美味しそうだけど、情緒がぶち壊しね、と笑った。


「タクシーで、10分くらいでホテルっぽいですけど、もう少し歩きませんか?」

2時間程かけて公園内を回った後の大輝の誘いに京子は乗ることにした。コンビニで温かいお茶と、寒くなった時のためのカイロを買い、携帯のナビを頼りに歩き始める。

視界がまだうっすらとピンクな気がする、と桜の余韻を感じながら歩く夜道は、22時を少し回ったところだったが、どこもかしこも明るい東京に慣れている2人にはとても暗く感じた。

歩道の車道側を歩く大輝の向こうを、時折車が通るものの交通量は多くない。その静けさに、ここ1ヶ月程の騒がしかった日々がどこか遠くに消えたような安堵感を覚えた京子はふと、大輝に尋ねた。

「…変なこと、聞いてもいい?」
「なんでもどうぞ」
「…どうしてあの日、私に好きだと言ったの?」

京子の質問に大輝は驚いた顔をして、それは、オレの言葉が信じられないということですか?と聞いた。

「信じられないというよりは、不思議だなって。私はあなたに好かれるようなことをした覚えもないし、特別に興味を引く容姿ではないから」

京子さんはキレイです、と不満そうに言った大輝には反応せず、京子は続けた。

「とびきり容姿のいい男性が私のことを好きになるはずがないとか、年の差があるからありえないとか、そんな理由で自分を卑下してるわけじゃなくて、私は結婚しているでしょう?」

既婚者に好きだと言える情熱がどこから来たのか知りたい。その感情の源を聞いてみたい。そう言った京子に大輝は言葉を迷う。京子はきっと美里と大輝を重ねている。それでも結局は正直に答えることにした。

「本来なら伝えるはずのなかった思いです。好意を伝えたとしてもそれはあくまで、先生と生徒という範囲でとどめるつもりだったし、恋心として伝えることなんて考えてもいなかった」

確かに、大輝は京子が大学に来るたびに、大学でのランチや食事を一緒にとは言っていたけれど、連絡先を教えて欲しいなど、京子のプライベートに踏み込んでくることは一度もなかった。

「じゃあいつから恋をしていたのかと聞かれると、難しいんですけど」

大輝はそう言って続けた。

「京子さんの言葉が刺さった。その時のことはすごく覚えてます」

それは、京子の講義を受け始めて半年たった頃のことだった。京子が生徒たち全員にショートムービーの脚本の課題を出し、その批評と添削を1人1人個別に受けることになった。




「私は脇役の、この女の子の孤独が、とても愛おしく感じました」

その京子の言葉に大輝はとても驚いた。大輝の脚本は、高校生の群像劇で数人の思いが絡まるラブストーリーだったが、京子が指摘した脇役の女の子、クラスのお調子者のキャラクターに、大輝は自分の孤独を投影していたからだ。

「幸せの形が色々あるように、孤独の形も人それぞれです。あなたの脚本は、人それぞれの孤独の形を認めて、声を上げられない人の寂しさをぎゅっと抱きしめてあげているようで、とてもやさしくできていました」

京子は、大輝がそのキャラクターに自分を投影したことまでは、気がついていないようだった。それでもその言葉は、大輝の胸を刺した。誰にも言えなかった自分の孤独を理解してもらえたように思えた。

それでも最初は、京子の言葉が自分に響いたのは、長い間、門倉キョウコという脚本家の大ファンだったからだろうと思った。

でもその後…京子の言葉足らずで不器用だけれど真っすぐな言動も、本人が特別じゃないと評する容姿も、何かと気になるようになり、京子の授業が今まで以上に楽しくなった。その思いが膨れ上がり、ランチを一緒にと初めて誘ったのがいつだったのか、もう覚えていない、と大輝は照れ笑いの顔になった。

「さっきも言いましたけど、伝えるつもりはなかったんです。でも京子さんが泣いているのを見たら、どうしようもなくなって…言葉が溢れました。裏切りなんかのせいで、自分の価値を見失って欲しくなかった。だからあなたを好きな男がここにいる、あなたは素敵な人だと言いたくなって。

でも、もし時が戻せて…止められるなら、ご主人の裏切りを止めたいです。オレの思いを伝えるチャンスが消えたとしても、京子さんが傷つかない方がいい」

じゃあもしあの日、私が頼らなければ?と聞いた京子に、きっと今も、伝えてはいなかったと思います、と大輝は笑った。


「オレは京子さんが望むことをしたい。でもオレの気持ちが邪魔になるなら消えた方がいいとも思ってます。それでもできることを探してしまう。矛盾してるのはわかってるんですけど…」

― 矛盾。

確かに、人の思いと行動は矛盾に満ちている。京子を一番好きだと言いながら、美里に向かう崇も。そして、崇の言葉に打ちのめされたのに、彼の唯一という立場を手放す選択をしきれずにいる自分も。

結婚は恋だけでは成り立たないと人は言う。でも結婚を壊す恋が存在することも事実で、それもまた矛盾なのではないだろうか。

そしてまた思い出してしまう。子どもが欲しいと万年筆で書き、崇さんをくださいと訴えた美里の激情、そんな美里を崇が思わず抱きしめてしまったのも激情。

その激情は間違っていると、正々堂々と否定し闘うべきだったのかもしれない。妻という武器を使えば、ねじ伏せることもできたはずだ。

― でも…。

「そんな顔をしないでください」

そう聞こえて、気がつくと京子は大輝の腕の中にいた。そんな顔をされると…と言葉に詰まった大輝に、京子が顔を上げると視線がぶつかった。

「…京子さんの生活の邪魔も、京子さんを悪者にも絶対にしない」

だから、と背中に回った腕に力がこめられる。

「今だけ、オレの矛盾に流されて」

そして唐突に。2人の唇が重なり、京子は驚きで目を見開いた。

「……恋ってどんな感情なのか……オレにも難しいみたいです」

大輝が呟いたその時、大きな音をたてながら数台の大型トラックが通り過ぎ、そのライトが続けざまに歩道の2人を照らした。目を閉じたのはそのまぶしさのせいだと、京子は誰にするでもない言い訳を思った。

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▶1話目はこちら:24歳の美男子が溺れた、34歳の人妻。ベッドで腕の中に彼女を入れるだけで幸せで…

次回は、4月13日 土曜更新予定!