◆これまでのあらすじ
大手証券会社に勤める圭也(29歳)の彼女・美波は、よく鼻歌を歌う。圭也は、彼女の選曲にはその時々の感情が込められていることに気づいた。ある日、美波が口ずさんでいたのが元カレのバンドの曲であると知り、浮気を疑うが…。

▶前回:「まさか元カレに会ってた?」表参道で彼女と同棲中の30歳男。深夜に気づいた、異変とは




鼻歌のメッセージ【後編】


「美波。何か悩みごとでもあるのか?」

圭也は、キッチンで洗い物をする美波の傍らに立ち、声をかけた。

「ええ?どうして?」

美波が振り返って答える。

「いや、なんとなく…。職場とかで、何かあったのかなって思って」

「ううん。何もないよ」

美波は口もとに微笑みを湛えながら答え、洗い物を続ける。

穏やかな表情の裏に、何かしらのネガティブな感情が秘められているように感じられた。

圭也は「そうか」と言ってリビングに戻るが、気になって仕方ない。

― それなら、なんでそんなに暗い歌を口ずさむんだ…。

美波の背中に向かって問いかける。

これまで圭也は、美波が暗い歌を口ずさんでいればそれとなく声をかけ、抱えた不満や悩みごとを聞き出し、解消してあげてきた。

今はそれが叶わないだけでなく、感情すら読み取ることができないでいる。

先日のこと。

美波は「友だちと会ってくる」と言って出かけて行った。

― 元カレと会っているのかもしれない…。

美波のどこかよそよそしい振る舞いから、圭也は浮気を疑った。

「昔、ちょっとだけバンドのボーカルの男の子と付き合ってたことがあるの」

そんな美波の過去の発言を思い出し、浮気相手としてかつて交際していた男に目星をつける。

しかし、夜になって戻ってきた美波は、悲しげな歌を口ずさんでいた。

― 浮気相手と楽しい時間を過ごしていたのなら、そんな歌を選ぶはずがない…。

感情への理解が追いつかないだけでなく、歯車がうまく噛み合わないような状態だ。

その日から、圭也はもどかしさを募らせている。

すると、キッチンのほうからまた別の鼻歌が聞こえてきた。


美波が再び歌を口ずさみ始めていた。

しんみりとする暗いメロディーで、聞きおぼえがある。

― ああ。あの曲か…。

別れと卒業をテーマにした、ある女性シンガーの切ない曲だった。

歌詞に耳を傾けていると、時も人も移ろいゆくものであり、別れが訪れるのも仕方のないことであるというメッセージが伝わってくる。

圭也はしばらくのあいだ聞き入っていたが、もしかしたら美波がこの歌を口ずさむのには、何か意図があるのではないかと思い始めた。

― もしかして、美波は別れをほのめかしているのか…?

歌を聞いているうちに、そんな思いが頭をよぎった。

美波とは、結婚を念頭に置いて同棲している。そう簡単に関係に綻びが生じるとは思えなかったが、どうしても考えが悪い方向に及んでしまう。

― 実は、今までもこうやって遠回しに気持ちを伝えてきたんじゃ…。

美波は、歌を口ずさむことでメッセージを送ってきていたのではないか。圭也のなかでそんな思いが湧いた。

実は意図的に、本心を暗に示していたのではないかと思ったのだ。

― もしかして…あのネックレスも…!?

圭也は、鼻歌を参考に、美波にターコイズのネックレスをプレゼントしたことがあった。あれは、美波が欲しい物を歌で暗示していたのではないかと思えてくる。

主導権を握っていたつもりだったが、手のひらで踊らされ、手玉に取られていたのは自分のほうだったのではないかと、想像が飛躍する。

圭也は心をかき乱されながら、洗い物を続ける美波の背中を眺めた。



翌週。

圭也は、高校時代からの友人である大祐と、渋谷にある『鳥竹 総本店』で待ち合わせていた。




大祐は同じく音楽好きの友人で、圭也はが強く影響を受けた相手でもある。

当時からCDの貸し借りなどをおこなっていた。

大学卒業後は大手レコード会社に就職。

アーティストのブランディングや、リリースにあたってのショップとの連携、イベントの管理など、幅広く任されていると話していた。

「で、例の件について何かわかったか?」

久しぶりの再会であり、積もる話はあるものの、圭也は早々に本題を切り出した。

大祐はすでに美波とも面識があったため、大まかな事情を伝えていた。

部屋のレコードプレイヤーに残っていたCDに記載されていたアーティスト『SPINOSAURUS(スピノサウルス)』について調べてもらっていたのだ。

「ああ。ほら、これが『SPINOSAURUS』のアー写だよ」

大祐は手もとのタブレットを起動させ、画像を表示させた。

インターネットで検索してもハッキリと顔の認識できるような素材が見当たらなかったため、食い入るように覗き込む。

「これが、そのボーカルか…」

憂いを帯びたような表情を浮かべるボーカルの男は、CDを聴いたときに抱いた、しっとりとした歌声のイメージと合っていた。




大きな瞳はトロンとして生気が感じられないが、その奥に何か強い光を宿しているようにも見えた。

「それで、バンドは解散後どうなってるんだ?」

2年前に解散しているという情報までは得ていたため、近況が知りたかった。

「それが…。つい最近、そのボーカルが亡くなったみたいなんだ」

「ええ…?」

「もともと持病があって体が弱かったみたいで、解散もそれが原因らしい。活動中も何度か入退院を繰り返していて、先週…」

「そうだったのか…」

― ということは、このボーカルと会っていたわけじゃないのか…。

状況から推測して、元カレが美波の浮気相手とは考えにくい。

そもそも浮気ではなかったかもしれないとの思いもよぎるが、完全に疑惑が晴れたわけではなかった。


大祐と解散して、圭也は表参道の自宅マンションに戻った。

わだかまりを抱えたままの状態に耐え兼ね、美波に直接真相を尋ねてみたところ…。

「はぁ!?私が浮気?そんなわけないでしょう…」

美波に呆れたように言われてしまった。

大祐から聞いた情報も併せ、元カレのバンドマンとの関係を疑っていたことも伝える。

「元カレと?別れたの何年前だと思ってるの…。あり得ないから」

半ば怒り気味に返され、圭也は肩身を狭くする。

「いや、だって…。最近、美波の様子がおかしかったから…」

「それはね…」

美波がここまでの経緯を話し始めた。

「大学時代の友だちに会ったときに、彼の容態が悪いって聞いたの。それで後日、友だちと一緒にお見舞いに行ったんだ。そうしたら、もうだいぶ弱ってて…」




「そのあと、亡くなってしまったのか…」

美波が、「うん」と頷いた。

「部屋でCDを聴いていたのは?」

「それは…。ちょっと昔のことを思い出したから」

哀悼の意を示して…といった意味合いのようだった。

そこで、美波が思いがけない言葉を口にする。

「でも、私も圭也のこと心配してたんだよ。最近、暗い歌ばっかり口ずさんでるから」

意味がすぐには理解できず、圭也は首を捻った。

「気づいてなかった?圭也、しょっちゅう鼻歌を歌ってるんだよ」

「ええっ?俺が?」

美波が、「そうそう」とスマートフォンを取り出し、画面を操作して差し出した。

受け取って見てみると、日付が縦に書き並べられ、その横に曲名と思われるタイトルが記されている。

「それね。圭也の鼻歌リスト」

「なんだよそれ」

「一緒に暮らし始めて、圭也がいっぱい歌を口ずさんでたから、日付と曲名をメモしてたの」

「ええ…。俺、こんなに歌ってるの…!?」

曲名を数えると、50以上ある。

「まあ、歌ってた意識は多少あるけど…」

同棲を始めてからの1〜2ヶ月のあいだ、ほぼ無自覚のうちにこれだけの曲を口ずさんでいたことに驚かされた。

ようするに、美波にばかり留意していたため、自分の行動への意識が欠けてしまっていたのだ。

互いに鼻歌を歌っては感情を察し合い、それにより気を揉んでいたことになる。

「なんだよ…」

相手の感情を勘ぐっては、気を回し過ぎていたことがわかり、緊張の糸が切れ、肩の力が抜けた。

美波も疑念が晴れたせいか、安堵の笑顔を浮かべている。




― これからは、ちゃんと向き合わないとな…。

美波とのやり取りに齟齬が生じた原因は、感情を把握できていると過信し、コミュニケーションを怠っていたことにある。

慢心は関係を破綻させかねないと、自分を戒めた。

圭也はソファに浅く腰掛け、背もたれに寄りかかり、天井を見上げてホッとひと息つく。

すると、傍らにいる美波が鼻歌を歌い始めた。

圭也がチラッと顔を覗く。

目が合い、ハッとする。

圭也自身、同じように鼻歌を歌っていたことに気づいたのだ。

同じタイミングで、しかも口ずさんでいたのは、同じ歌。

それは、仲直りをテーマにした歌だった。

2人は互いに顔を見合わせ、照れたようにクスクスと笑い合った。

Fin.

▶前回:「まさか元カレに会ってた?」表参道で彼女と同棲中の30歳男。深夜に気づいた、異変とは

▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由