自由気ままなバツイチ独身生活を楽しんでいた滝口(38)。

しかし、離婚した妻との間にできた小6の娘・エレンを引き取ることになり、生活が一変……。

これは東京に住む男が、男としての「第二の人生」を見つめ直す奮闘記である―。

◆これまでのあらすじ

中学受験を控えたエレンだが、模試の結果は合格可能性がほとんどないE判定ばかり。そんななか、ついに受験本番を迎えたが…。

▶前回:中学受験直前、志望校が全てE判定。泣き崩れる子にかけた親の卑劣な言葉とは




Vol.12 中学受験本番


2月2日。

午前中に実践女子学園の試験を受けたエレンは、午後入試の香蘭女学校へ向かっていた。

都内の私立中学入試のスタートは2月1日。ほとんどの学校が、複数の受験日を設けている。

昨日の午前中、エレンは香蘭女学校を受験したが、当日夜のオンラインの発表では、エレンは不合格。今日は2回目の試験なのだ。

だが、エレンは落ち込んでいなかった。

「ミカ子さんも、2日が真剣勝負って言ってたもんね」

「そのとおり。本番は今日だ」

滝口とエレンは、顔を見合わせ笑った。

というのは、昨日、2月1日の朝。

香蘭女学校に指定時間の少し前に着くと、校門まわりには、たくさんの塾の先生方がのぼりや手製の横断幕を手に立っているのが見えた。自校の受験生に本番前の喝を入れるため、待ち構えているのだ。

「うわ、すごい数の先生がいるね」

その異様な熱気に驚きながら、通り過ぎようとした時だ。

「パパ!あそこ、見て!」

エレンがその集団の中の見慣れた顔に気づき、声をあげた。

そこには、真っ赤なコートに必勝のはちまきを締めたミカ子の姿があったのだ。「Do your best!Elen!」と手書きで書かれた小さな旗を手に、一際目立っている。

― 昨日、ミカ子さんが応援に来てくれてなかったら…。

ミカ子はその時、「エレンちゃん、今日は練習。明日があるから気楽にね!」とエレンを激励してくれたのだ。


結局、2月1日の入試ではいい結果は得られなかったが、エレンは「今日が本番」とばかりに意気込んでいる。

「昨日も来たけど、電車って慣れないな」

滝口はエレンを促して旗の台駅で降りると、改札方向に向かってホームを歩く。

すると、前方に沙織と咲季の姿が見えた。

「エレン、あそこに咲季ちゃんがいるよ」

しかし、そう言った直後、2人は彼女たちのただならぬ雰囲気に気づいてしまった。

「泣いているみたい、咲季ちゃん」

参考書で顔を隠し、肩を震わせ泣く咲季。

「いい加減になさい。そんなことだから昨日失敗したのよ!」

慰めるどころか、感情的に咲季を叱る沙織。彼女も泣いているように見える。




「エレン、通りすぎるのもなんだから、声をかけて一緒に行くか」

きっと勉強がどんなにできる子だって、気持ちに余裕などないはずだ。だが、裏を返せば、気持ちの持ちようひとつで、偏差値以上の実力を発揮できることもあると聞く。

「こんにちは。咲季ちゃん、どうしたの?緊張しちゃった?」

滝口は、咲季に声をかけてみる。すると、その声に振り向いた沙織の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「すみません、私ったら人前で恥ずかしい…」

沙織はバッグからハンカチを取り出し涙を拭う。

「エレンちゃん、これから香蘭ですか?」

「ええ、昨日の試験は、落ちちゃったんだよな?エレン」と滝口が言うと、エレンが「今日が本番だからいいんだよ」とニヤリとした。

「咲季ちゃんも香蘭ですよね?学校までご一緒しましょう」

滝口が促すと沙織はうなずき、子どもたちは少し先をお喋りしながら進み始めた。

「すみません。うち、昨日第1志望の立教も、午後受験の大妻も落ちて…。咲季が香蘭の試験に行きたくないとワガママを言い出したので、つい叱ってしまって…そんなんだから落ちるのよって…」

数ヶ月前とは打って変わり、沙織は疲れ切っていた。

「実は千葉と埼玉も受かっていないんです。受験校選び、完全に失敗しちゃいました…。エレンちゃん、明日もどこか受けるんですか?」

「ええ、香蘭以外は、家の近くの実践女子で固めています。今朝も受けましたし、明日もそこです」

学校の前は昨日と同じように塾の先生方が待ち構えていた。エレンと咲季が「いってきます」と手を振り、と一緒に学内に入っていった。

「さ、娘たちを待っている間、どこかでコーヒーでも飲みましょう」




2023年5月


「エレン、荷物はまとめられたか?そろそろ帰るよ」

「うん、でもお土産が入りきらなかった」

滝口とエレンは、ゴールデンウィークを利用して、エリが住んでいるロサンゼルスに遊びに来ている。

咲季のために買ったお土産が大きすぎただの、トランクが小さすぎるだのエレンは1人でぶつぶつ言っている。

1ヶ月前、エレンは晴れて中学生となった。第1志望の香蘭は、学力が届かず不合格だったが、家からも近い実践女子学園に受かった。

あの日、駅で泣いていた咲季は、2日目の香蘭に合格したそうだ。

「もう帰っちゃうのね」

エリは寂しそうに言う。

「たった3泊の弾丸だったけど楽しかったよ」

エレンを引き取ってから丸1年。エリとは、LINEでエレンの近況報告をしていたことが功を奏し、気心しれた友人のように付き合えるようになった。

「やっぱ、パッキングしなおして、お土産全部トランクに入れ直してもいい?」

「いいよ。まだ時間があるからゆっくりどうぞ」

2人のやりとりを見ていたエリは「娘に優しいパパだこと」と言った。

「いやそういうわけじゃないよ。女性はなんでも気が済むまでやらせないと、後々が面倒なんだ」

「さすが、今までの経験が生きてる!」とエリがからかう。




「それにしてもあなたが、娘のためにわざわざロサンゼルスまでやってきて、ディズニーランド・ホテルに泊まるなんて思ってもみなかったわ」

バルコニーでコーヒーを飲みながらエリが感心したようにつぶやく。滝口の父親ぶりがおかしくて仕方がないようだ。

「自分でも驚いてるよ。でも、割といいパパだと思うんだが」

「娘に尽くしているのは、エレンのインスタを見ればわかるわ」

エリの口調からは、もはやかつてのわだかまりなどは一切ない。

「インスタは学校で禁止されているはずなんだけどな」

「鍵付きなの。エレンには内緒で見せてあげる」

エリは自分のスマホの画面を差し出した。


すると画面には、友達と楽しそうに自撮りをするエレンの写真に混じって、曲げわっぱの弁当の写真がところどころに混じっている。

そのうちのひとつをクリックすると、不恰好なおかずを詰めた滝口手製の弁当だった。

― え?僕の作った弁当?

キャプションをスクロールして見ると、「今日のパパ弁」とある。そして、あるハッシュタグに滝口は釘付けになった。

#thankyou
#myhero

― 僕のほうこそ、エレンに感謝してるよ…。

滝口は立ち上がると、隣の部屋のエレンに声をかけた。

「エレン、そろそろ空港に行こうか」




いつもの日常に戻り…


アメリカから帰国した翌週。

朝、エレンを学校に送り出すと、滝口はスマホを片手に、コーヒーマシンにカップを置くと、抽出ボタンを押した。

― 今日はエレンが帰宅する頃に、ミカ子さんが来るんだったな。

淹れたてのコーヒーを一口飲み、ソファに腰を下ろした。

― 受験の時はあんなに忙しかったのに、終わったら意外と暇だな…。

エレンが入学して1ヶ月も経つと、滝口は早起きや弁当作りにもすっかり慣れてしまった。仕事も人に任せられるようになったので、以前ほど忙しくはない。

1年前は欲しくて仕方がなかった自分の時間が、また滝口の日常に戻ってきたのだ。

手元のスマホがブルっと震え、LINEの通知が画面に表示された。

― お!セイラだ。

ピラティスでいう“オープンレッグロッカーのポーズ”をとる女のアイコンをクリックしてトークを見る。

「セイラ:おはよう。これからいい?」

「滝口:もちろんだよ。待ってるね」

滝口は、返信を打つと、トレーニングウエアに着替え、フローリングシートで軽く床を拭く。

床にヨガマットを敷き、アスティエ・ド・ヴィラットのお香に火をつける。柔らかなサンダルウッドの香りが部屋に静かに広がる。

― ピンポーン

インターホンの音に、滝口はそそくさと玄関まで出向く。

「おはよう。LINEからたいして時間経ってないけど?」

「早く会いたくて急いで来ちゃった」

滝口の首に手を回す仕草が妙に可愛くて、滝口は自分の方にセイラを抱き寄せた。

セイラは、最近知り合ったピラティスのパーソナルトレーナーで、時々こうして出張レッスンに来る。

彼女の年齢は32歳で、滝口にエレンという娘がいることも知っている。

若い子のように、むやみにわがままを言わないところや、健康に関心が高く、常に体を気遣ってくれるところに、滝口は惹かれている。




「セイラ、今日はランチを一緒にする時間はあるの?この後、美味しいサラダランチでもどう?」

「もちろん!あ、そうだ。私の夏休みに合わせて旅行にっていう話、どうなったの?行けそう」

セイラの「夏休み」という言葉に、滝口はハッとする。

― 夏休み…そうだった。うっかりしてたな。

すぐさま残念極まりない表情で、滝口はセイラの髪をなでた。

「ごめんね、セイラ。ちょうどその時期、仕事が忙しくなりそうなんだ…」

滝口は申し訳なさそうに詫びる。

「そっか…。無理言ってごめんね」

セイラが聞き分けよく引き下がってくれたことに、滝口は内心ほっとした。

― よかった…。夏休みはエリが帰国するからな。

エリの帰国に合わせて、エレンと3人で食事をしたり旅行に行ったりする計画が満載なのだ。

さすがに、ヨリを戻すといった話にはなっていないし、今のところ滝口もそれを望んではいない。だが、エレンの喜ぶ顔が見たいばかりに、滝口は、張り切っている。

「そういえば、この間シャネルを通りかかったら、セイラに似合いそうな小さなバッグを見つけたんだ。良かったらこれから見に行かない?」

彼女の瞳がパッと輝く。

「じゃあ、早速行こう。靴を履いて準備して」

セイラを玄関に促した滝口は、1人リビングに戻り、ペンを手に取った。

『エレン、おかえり。ミカ子さんのおやつを食べたら、宿題やってね。パパより』

小さなメモをダイニングテーブルの上に置き、滝口は自宅を後にした。

Fin.

▶前回:中学受験直前、志望校が全てE判定。泣き崩れる子にかけた親の卑劣な言葉とは

▶1話目はこちら:浮気がバレて離婚した男。6年ぶりに元妻から電話があったので出てみたら…