◆これまでのあらすじ

メガバンクで総合職として働く氷室唯は、「結婚する」と信じていた男性に振られた直後、同じ支店の女子・藤堂カンナから結婚式の2次会に招待される。彼女は女子大を卒業し、一般職として働く「かわいく生きてきた」女子。

唯は後輩の一ノ瀬東也に説得され、婚活のため2次会に行くことを決意。モテる女になりたくてヘアサロンの予約をして臨んだが…。

▶前回:メガバンク勤務、28歳ワセジョの婚活が難航するワケ




ワセジョの憂鬱/氷室 唯(28歳)【後編】


初めて訪れた「ホテル椿山荘東京」は、迷路のように広かった。そこは隅々まで抜かりなく、ゴージャスで非現実な雰囲気が漂っていた。

品の良い装飾と高価そうな調度品、ハイスペックな参列者たち…。新婦の藤堂カンナみたいな女子が好きそうなものは、ひと通りそろっている。

― 新郎の名前、よく見てなかったな。まあ、いいか。別に興味ないし……。

私は受付の列に並び、財布を開いた。会費7,000円は、安くない。このお金でマッサージを受けることができる。アフタヌーンティーを楽しむこともできる。アプリでもっと「いいね!」をもらえるように、顔面へ課金することもできる。

しかし私はここに来た。藤堂を祝うためではない。結婚相手が見つかるかもしれない、そんな愚かな希望を抱いて。

「氷室さん!どうしましたか、お札をにらんで?呪いでもかけてるんですか?」

後輩の一ノ瀬から声をかけられた。いつものオフィスカジュアルと違い、ネクタイをして体にフィットしたスーツに身を包んでいる。そこには“頼りにならない、ちょっと抜けてる後輩”の面影はない。

― 今日の一ノ瀬、セクシーで魅力的!?いや、彼を素敵だと思うなんて、今の私、相当愛に飢えているのかな…。

ちらりと芽生えた恋心を否定するように、私は彼から目を逸らす。

「そんな魔法が使えれば、どんなにいいだろうね」

「どうせなら黒魔術じゃなくて白魔術にして下さいね。ていうか、その格好……」

彼の視線は、私の全身を行ったり来たりした。そう、私はイメージチェンジをしたのだ。黒いロングヘアを茶色くカールにして、薄い水色のキュートなドレスを着て、メイクもバッチリしていた。
藤堂を参考にしたので、男が好きそうな要素を兼ね備えているはずだ。

「や、やっぱり変かな。黒いセットアップと迷ったんだけど…」


「いえ、かわいいですよ。うっかり近づくと火傷しそうなくらい、魅力的です」

― でも、炎の中には飛び込んできてくれないんだよね?

そんな言葉が喉まで出かかったが、舌の上で溶かしておいた。

今ここで、一ノ瀬から褒められても意味がない。

男性の中途半端な優しさは、アルコールに似ている。少しは気分が良くなるが、現実に戻った時にいたたまれない気持ちになる。

私たちの番が来て、受付をして会場に入った。

会場では、高く積まれたシャンパンタワーが出迎えてくれた。空のグラスは、新郎新婦によって注がれるのだろう。さぞかしお金をかけたに違いない。

私は一ノ瀬とビールで乾杯をした。それは既にくたびれていた私の喉をうるおしてくれる。

「氷室さん。乾杯って、杯を乾かすことじゃないんですよ。これだからワセジョは」

「ワセジョは、何?」

「まあ、ワセジョというよりは氷室さんは、ですが。友達としては最高なんですけど、恋愛対象として見られたいなら……」

「中身も藤堂みたいにかわいくなれ、ってことね」

一ノ瀬が口を開きかけると、会場で音楽が鳴り響いた。新郎と新婦の登場だ。




「は?」

ふたりの姿を見た瞬間、私は全身に悪寒が走った。危うくグラスが手から滑り落ちるところだった。

新郎は私が先月、一緒にペアリングを買いに行くと約束していた元カレだったのだ。

「ねぇ、一ノ瀬、乾杯しよっか」
「またですか?しかも両手にグラス持ってるし?!」
「あの男は先月まで私と付き合ってたんだよ。つまり、私と藤堂を二股かけてたってこと」
「招待状と受付で、名前を見て気付かなかったんですか?」
「よくある名前でしょう。そもそも藤堂の結婚相手に興味なかったし」
「ここは東京ですよ。多くの男女が住んでいます。1人のハイスぺ男性を多くの女性が取り合う。これが婚活の構図なんじゃないですか?」
「それで男性に選ばれるのは、最もトーキョーっぽい女の子なわけね」

一ノ瀬は、数回瞬きをした。それは彼が物事を理解していない時に、よくやる仕草だった。

「東京が大好きな、かわいく生きてきた女の子だよ。うるさいことは言わないし、山手線の内側で飲むといえば、喜んで付いてくるような…」

私は一気にビールをあおった。飲まずにはいられない。一ノ瀬のアーモンド色の瞳が、不安げに揺れる。

「そうやって女性をだます詐欺師みたいな男は、きっと地獄に堕ちるよ」

「そういう男を見抜けない女性にも、落ち度はあるんじゃないですか?彼と結婚したら、一緒に地獄を生きるわけですから」

― あぁ、そうか…。

私にとって、今まで男は同志であり、友達だった。恋人として品定めをしたことはあるけれど、分母が少ない。男を見る偏差値は20くらいだろう。婚活を成功させるには、恋愛偏差値を上げるべきなのだ。そして恋愛というリングに上がるには、かわいく生きて、まず相手に選ばれなくてはならない。




「お酒、好きなんですか?いい飲みっぷりですね!」

私の決意と同時に、テンション高めの男性が話しかけてきた。やってやろうじゃないの。

彼は、大手の監査法人で会計士をしていると自己紹介をした。

身長は180cm以上ありそうだが、猫背で少し自信なさげに見える。メガネの奥の鋭い目には、利口さが表れているように感じた。

「まだまだ飲めますよ」と私は答えようとして、やめておいた。かわいく生きる決意をしたばかりだ。

「実は私、お酒を飲むのは1年ぶりなんです」

会計士の背中越しに、一ノ瀬が吹き出すのが見えた。私は彼を無視して、会計士と話し続ける。

確かに、会計士の彼は私のタイプではない。

でも、今の私は恋愛偏差値を上げるために男性と接する機会を増やすことが大事だ。入試の前に模試があり、模試の前に問題集を解くのと同じだ。問題集の問題を間違えても、致命傷は負わない。

「そうなんですね。僕は家で料理をしている時に、ついつい飲んじゃうんです」
「お料理するんですね。私も料理が好きで、料理教室に通ってるんです」

練習問題を解いていると思うと、自分の口からスラスラ嘘が出てきた。

後ろで聞いていた一ノ瀬は、「もう耐えられない」と言いたげに笑いをこらえているのが見える。


「何系を作るのが好きなんですか?」

「えーっと、グラタンとか…?」

「あぁ、僕もソースから作る性質なんですよ。ダマにならないようにかき混ぜるのが難しくて。何かコツを知っていますか?」

「うーん。泡立て器を使うとか…?」

会計士の笑みが少し引きつったのがわかる。

― お酒を飲んでごまかすしかない。

ちょうど新郎と新婦がシャンパンタワーにシャンパンを注ぎ、場内は興奮に包まれた。




ウェイターがシャンパンを振る舞ってくれる。

私は口からでまかせを言い続け、嘘を洗い流すかのように、グラスを乾かし続けた。

私も「かわいい」を演じているうちに、自分がよくわからなくなってきた。今まで生きてきた人生はなんだったのだろうか?

きめ細かい泡と、まろやかな風味…上質なお酒だ。お酒はいつも私の心を癒やしてくれる。




史上最悪の二日酔いで目が覚めた。私はホテルのベッドの上にいて、断片的に覚えている記憶を手繰り寄せた。

あの後、会計士は私から離れて行き、次に声をかけてきた弁護士と話をした。

しかし、結局仕事の話になり、かわいく返答できずに玉砕し続け、残ったのはアルコールだけだった。そして「氷室さん、もう帰りましょう」と一ノ瀬に言われて、一緒にタクシーに乗ったのだ。

ラグジュアリーホテルの前を通りかかり「ねえ、このホテルずっと行ってみたかったの。現地調査に行かない?見るだけだから!」と彼を誘い、ここに来たのだった。チェックインをして、部屋に入り……見るだけで終わるはずがなかった。

― いっそ、ぜんぶ忘れていた方が楽だったのに…。

時刻は深夜2時で、視線を横に向けると鏡があった。それは私が何も身に着けていないことを教えてくれた。体を起こし、下着を身に着けて、トイレに向かおうと立ち上がる。

すると、バスルームから一ノ瀬が出てきた。

「あ。氷室さん、起きたんですね」

彼は腰にバスタオルを巻いていた。なめらかで引き締まった体だ。トレーニングもしていないくせに、意外といい体をしている。

「何、見てるんですか?さっき散々見たでしょう。氷室さん、かわいかったな」

「あ、よかった。酔っても“かわいいモード”キープできてた?」

「あんな作った感じもなく、もっと素でしたよ。“エリート銀行員の氷室”でもないし、ピュアというか、抜けてるというか…。素の氷室さん、かわいかったですよ」

― 知らなかった。私にそんな一面が、あったなんて。

もしかしたら、私は自分をよく見せようとしなくてもいいのかもしれない。誰かになろうとしなくていいのかな。

それでも良いと言ってくれる希少な男性は、いるのかもしれない。目の前にいる、彼のように―。

「一ノ瀬、ありがとう。また、婚活がんばれそうな気がしてきたよ」

「どういたしまして。って、俺なんかしました?」

一ノ瀬が不思議そうに微笑む。

素敵な笑顔だ。まっすぐで、嘘のない。それは今の私が必要としているものだった。

ベッドに腰かけた彼に向かって、私は言った。

「一ノ瀬、始発の時間まで付き合って」
「え、もう1回するんですか?」
「違うよ!婚活の作戦会議だよ!」

諦めることはいつでもできる。だから、もうちょっと恋愛をしてみることにした。頼りになる後輩も、いることだしね。

もっと私は“私”に還るべきなんだ。

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