慶應の音楽サークルで、三角関係に陥った男。親友の彼女を好きになってしまった結果…
麻布には麻布台ヒルズ。銀座には、GINZA SIX。赤坂には、赤坂サカス…。
東京を彩る様々な街は、それぞれその街を象徴する場所がある。
洗練されたビルや流行の店、心癒される憩いの場から生み出される、街の魅力。
これは、そんな街に集う大人の男女のストーリー。
▶前回:帰国子女で外資系化粧品メーカーに勤める36歳女。日系企業に転職し直面した現実とは
Vol.8 『いつまでも変わらないもの/赤坂サカス』誠一(26歳)
「おお、東京タワー。ほんの3年前まで、この景色が日常だったんだな…」
在学中の4年間は存在を意識してもいなかった東京タワーだが、数年ぶりに目にしたその姿は、春の青空を背景に眩しく堂々として見える。
今回の上京の目的は一つ。春休みの恒例イベントであるOBライブへ出演することだ。
大学時代に音楽サークルでドラムに打ち込んでいた誠一は、毎年このOBライブに誘われていた。
しかし家業を継ぐのに忙しく、今年になって初めて福岡を離れる時間を作ることができたのだった。
― 3年経って、仲の良かった後輩たちもOBOGになっているはずだ。会えるのが楽しみだな。
誠一の頭をよぎるのは、特別可愛がっていた2学年下の後輩・咲の顔だ。
大学に到着し、久しぶりの友人たちとの再会に胸を高鳴らせて会場に入ると、同級生の克哉が会場の隅でギターのチューニングをしている。
「克哉、久しぶり」
「誠一!元気にしてたか。去年福岡で会って以来だな。少しは落ち着いた?」
「そうだな、酒蔵って地域密着だから、身の回りも落ち着いてようやく地域の信頼を得てきている気がするよ。もうしばらく修行したら、代替わりになると思う」
「ゆくゆくは福岡の顔だな!楽しみにしてるよ」
克哉との挨拶を終えて、誠一はさりげなく会場内を見回した。
後輩たちが集まって談笑している様子も見られたが、そこに咲の姿はなさそうだ。
「なぁ克哉。今日、咲は来るのかな」
誠一は思い切って尋ねる。一瞬迷う気持ちはあったが、克哉に聞くのが一番自然だろう。
なにせ誠一と克哉、咲の3人は大学時代いつも一緒で…克哉と咲は付き合っていたのだ。
「ああ…今日は咲、来られないって。留学の準備で忙しいみたい」
克哉と咲が今でも連絡を取り合っている事実を嬉しく思いつつ、咲に会えないことがわかった誠一は落胆をあらわにした。
「そうか。せっかく東京に来たから顔を見たかったけど…。それにしても咲、海外に行くのか」
「学生時代から、行きたいって言ってたからなぁ」
「そういえば、そうだったな…」
会場設営を進める現役生を眺めながら、誠一は学生時代の在りし日を思い浮かべていた。
◆
「こんにちは〜。こちらのサークルって新入生募集してます?」
もともと咲は、新入生としてひとりで部室にやってきた。
父親に影響を受けた咲の音楽の趣味は渋く、好きなのはピンク・フロイドやイエスといったプログレッシブ・ロックと言われるジャンルだ。
趣味の合いそうなサークルがなく彷徨っていたところ、先日たまたま部室のベランダで、克哉がイエスの有名曲である『Roundabout』を弾いていたのを耳にして部室を訪ねたということだった。
むさ苦しい部室に新入生が訪ねてきたとあって、克哉は咲を喜んで迎え入れる。
「あの、みなさんと仲良くなりたくて…好きなケーキを持ってきちゃいました」
咲がおもむろに取り出したのは、シンプルな長方形のチョコレートケーキ。『Tops』という有名な店のケーキだという。これがえらく美味しく、甘いものにさほど興味がない誠一も一口、また一口と手が伸び、あっという間に完食してしまったことを覚えている。
それ以来、克哉と咲はすっかり意気投合し、克哉は咲にギターを手取り足取り教えながら、自分のバンドのギターボーカルに咲を立てるなどして、授業のない時間はほとんど一緒にいた。
克哉とバンドを組んでいた誠一も、必然的に咲と過ごす時間が増え、サークルメンバーからも「いつもの3人」と認識されるようになったのだ。
音楽の趣味の合う3人が、セッションだけでなく様々なアーティストのライブへ行ったのは数回のことではない。互いに好きなアーティストが来日するたびに誘い合って、しょっちゅう音楽談義を繰り広げたものだった。
数あるライブ会場のなかでも最も足繁く通ったのは、赤坂BLITZだ。
ライブが始まる前に、少し早めに赤坂サカスの『Tops』直営店に集まって、チョコレートケーキを食べる。それが、3人の定番だった。
誠一の目当てのアーティストはなぜだか赤坂BLITZでの公演が多く、「誠一くん『Tops』に行きたくて私たちのことライブに誘ってるでしょ」と咲によくからかわれたことを、今でも覚えている。
そんな日々は、咲が2年生に、克哉と誠一が4年生になった頃にも続いていた。
少し変化があったとすれば、克哉の咲への想いが、もはや公然の事実となっていたことくらいだろうか。
「咲!好きだー!!」
誠一たちにとって学生最後となるサークル合宿でも、克哉はライブ会場を駆け回りながら、咲への気持ちを叫ぶ。
しかし咲の方はというと、克哉のことを男性として見ることができないらしく、この日の告白は通算4度目の失恋に。それでも、3人の仲は変わらなかった。
授業の合間に部室のベランダで雑談をして、夜はライブや飲みに行き、スタジオに入って思う存分演奏をして、朝寝ぼけ眼で始発に乗って帰宅する。
残り少ないモラトリアムを、克哉という盟友、咲という可愛い後輩と燃え尽きるまで楽しむかのような日々は、誠一にとってかけがえのないものだった。
そんな咲から、卒業ライブの終演後の片付けの最中に耳打ちされたのは、思いもよらぬ言葉だった。
「ごめんね。実は、誠一くんのことが新入生の頃から好きだった」
それは、告白とは思えないようなさらりとしたささやきだった。
「え、それってどういう…?」
誠一はすでに福岡で家業を継ぐことを決めており、そのことは咲も知っていた。
そして、克哉からの5度目の告白を咲は受け入れ、この春から、2人は付き合っていたのだ。
「勝手でごめん。この2年間の気持ちを無かったことにしたくなくて。誠一くんが東京を離れる前に、自分の中で幕を引きたかったの」
笑顔を作りながら目を伏せた咲のまつ毛が、小さく震えている。
「幕を引く、か」
誠一も、心のどこかで気がついていた。
この2年間のうちに育まれた、咲の自分に対する気持ち。
そして、無意識のうちに咲の姿を追ってしまう、自分自身の視線に。
しかし克哉の咲への強い気持ちを目の当たりにして、事実から目を背けた。
すべてを「東京での思い出」として昇華させて、東京を離れると決めていた。
「うん。好きだったのは過去の話だから、安心して。5度も気持ちを伝えてくれた、克哉との関係を大切にするって決めたから…。ただ、もう簡単には会えなくなる誠一くんに、最後に気持ちを伝えたかった」
照明は落とされて薄暗く、バタバタと片付けの進む会場の中、誠一はさりげなく咲の肩を抱いた。
そして、ゆっくりとこの数秒を噛み締めるようにして、片付けを進めるみんなのもとへと戻った。
この出来事によって、その後変わったことは何一つとしてない。
しかしこの一瞬の出来事が、東京でのキラキラと輝く日々の象徴となって、誠一の心に強く残っていた。
◆
OBライブは無事に終わり、夜には飛行機に乗る予定の誠一は、打ち上げの誘いを断ってひとりメトロに乗った。
せっかく東京に来たのだから、と向かった先は赤坂サカスだ。
克哉と咲と共に、何度も訪れたライブハウス・赤坂BLITZのある街──。
しかし赤坂に降り立ってみると、なんと赤坂BLITZはライブハウスとしての役目を終えて、テレビ収録スタジオになっていた。
行き場を失った誠一が赤坂サカスへ入ると、新しいテナントが増えて、心なしか道ゆく人の雰囲気も変わっている気がする。
― 3年で変わるなぁ、東京の街は…。土産でも買って帰るか。
足が自然と向かったのは、ライブ前に咲と克哉とチョコレートケーキを食べた『Tops』だ。誠一は歩き慣れたルートを懐かしみながら2階へと上がる。
しかし、あるはずの場所に『Tops』の看板はなく、賑やかそうに営業しているのは別のイタリアンの店だった。
「あれ?おかしいな。まさか…」
手元のスマホで検索をすると、検索結果のトップに「Tops 閉店」の文字が現れる。
― ここも閉店か…!
思い出に浸ろうと赤坂に来てみたものの、目にしたのは自分たちが過ごした街の面影ではなく、変わりゆく街の姿。
時代の流れを感じて残念に思いつつ、諦めきれない誠一が店内を覗くと、レジ横のショーケースにはなんと『Tops』のケーキが並んでいた。店の看板が変わっても、ケーキだけは販売を続けていたのだ。
「あった!」
やっとのことで東京の思い出に出会えたことに嬉しくなった誠一は、浮かれて一番大きなサイズのチョコレートケーキを土産に購入した。
これを渡す相手、つまり誠一が笑顔を見たいのは、福岡で待つ妻と娘だ。
― 大学時代の甘美な思い出に浸るのは、ここまでだ。
エスカレーターを降り、赤坂サカスを後にする。この街に来る機会も、もうないのかもしれない。
消えゆく思い出の地、変わりゆく東京に、寂しさと羨ましさを感じないといったら嘘になる。
しかし、いつまでも変わらないものもある。
変わらない幸せ、家族の待つ福岡へと帰ろう。
ポップな箱に包まれたチョコレートケーキを抱えて、箱を開きながらはしゃぐ妻と娘の笑顔を想像しながら、誠一は羽田空港へと向かった。
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あっさり「サヨナラ」とは行かなくて…。旅立つ直前のGINZA SIXで、想いをぶつけあった咲と克哉の行く末は?