20代後半から30代にかけて訪れる、クオーターライフ・クライシス(通称:QLC)。

これは人生について思い悩み、若さだけが手の隙間からこぼれ落ちていくような感覚をおぼえて、焦りを感じる時期のことだ。

ちょうどその世代に該当し、バブルも知らず「失われた30年」と呼ばれる平成に生まれた、27歳の女3人。

結婚や仕事に悩み、揺れ動く彼女たちが見つめる“人生”とは…?

▶︎前回:3対3の食事会に15分も遅刻してきた27歳女。それなのに、気になる男性とイイ雰囲気になれたワケ




“自分らしさ”を見つけた女・遥(27)


この日、私は朝からソワソワしていた。

「もしかして緊張してるの?大丈夫だよ、遥なら」

そう言って夫の翼くんが優しく微笑みかけてくるけれど、朝ご飯が喉を通らないくらい緊張している。

「頑張ってきてね。まあ、もしダメでもさ。遥の帰る場所はここにあるから」
「翼くん…。ありがとう」

心優しい夫を送り出し、私も慌てて身支度を始める。

前までは「もう仕事なんてしたくない」と思っていた。責任感もあるし、失敗も許されない。だからずっと、お気楽な専業主婦になることに憧れていた。

学生時代から付き合っていた彼と早々に結婚し、自分が思い描いていた通りの人生になったと思っていたのに。

ここ最近色々なことがあり、私の心境に変化が表れ始めたのだ。

何より自分でも驚いたのが「社会の中で、1人の人間として認められたい」という、自我の芽生えだった。


結婚してからずっと専業主婦をしていた私が、始めようと思ったこと。それは料理教室でアシスタントをするという仕事だった。

亜希さんに「何か仕事をしたいと思っている」と相談したところ、彼女のツテで料理研究家のRIHOさんを紹介してくれたのだ。

RIHOさんは私がずっとInstagramでフォローしていた、憧れの女性。料理がオシャレなだけでなく、テーブルコーディネートまで完璧な人だった。

商社マンの夫に帯同し、数年前まではイタリアで駐妻をしていた彼女。その影響で、SNSには「イタリアに住んでいたときによく食べた…」なんていうお洒落すぎる文字も並んでいる。

SNS上でも一部を公開しているご自宅は、白を貴重とした豪華な一軒家。誰もが羨む優雅で幸せそうな暮らしをしている人、というのがRIHOさんに対するイメージだった。




自由が丘駅から、歩いて10分。

閑静な住宅地の坂を上った先にある一軒家が、RIHOさんのご自宅だった。ここには料理教室を開催しているスタジオも併設されているという。

震える手でインターホンを押すと、エプロン姿の彼女が出迎えてくれた。

「初めまして、遥です。本日からよろしくお願い致します!」

写真からは想像できなかったが、意外にも背が高くて迫力があったRIHOさん。

対面すると同時に、頭のてっぺんから足の先までジロジロとチェックされ、途端に萎縮してしまう。

「どうも、RIHOこと小堺里帆です。…早く入って。下準備が全然できてなくて」
「お、お邪魔します!」

慌てて中に入ると、そこにはSNSで見ていた通りの世界が広がっていた。大きなガラス張りのダイニングテーブルに、ブルーを基調としたお洒落なテーブルコーディネート。

その中央にはお花が生けられており、思わず惚れ惚れしてしまった。




「本当に素敵ですね。私、RIHOさんのアシスタントになれて幸せです!」
「そう、良かった。とりあえず、この下準備を手伝ってもらえるかしら?」

― あれ?意外にクールな人なのね。

さっきから淡々と話すRIHOさん。でもこれは仕事なのだから仕方ない。そう思って、目の前にある野菜の下ごしらえに専念する。

でも気がつけば、彼女の姿が見えない。ふと外を見ると、タバコを吸いながら誰かに電話をしているRIHOさんの姿が目に入った。

しかも窓が開いていたので、嫌でもその声が耳に入ってきてしまったのだ。

「もしもし、リュウくん?今日も旦那帰ってこないし、もうすぐ終わるから、うちに来て大丈夫だよ♡どうせアイツも、ほかの女のとこに泊まってるだろうし。早く会いに来て…」

洗いかけのズッキーニを持つ手が、震えてきた。

― えっ、どういうこと…?

明らかに、不倫の電話である。

私がグルグル考え込んでいると、RIHOさんが何食わぬ顔をして戻ってきた。

「遥ちゃん、洗えた?そこにある野菜、あと10分以内に全部洗っておいてね」
「は、はい!」

そうこうしている間に生徒さんたちがやってきて、結局何も聞けないままこの日は終わってしまった。

ただ私の中にあった“憧れのRIHOさん”は、ただの“里帆さん”になってしまったのだ。


その日の夜。自宅に帰って翼くんと食卓を囲みながらも、ついRIHOさんの言動を思い返してしまう。

「なんだかなぁ…」
「料理教室のアシスタント、ダメだったの?」

唐揚げを美味しそうに頬張りながら、夫は私の愚痴を聞こうと気遣ってくれる。

「ううん、仕事自体は楽しかったんだけど。人って、見えないところで色々あるんだなと思って。SNSだとみんな輝いて見えて、羨ましいっていう思いしかないのに」
「まあ、ね。でもSNSなんて、どうせ虚構の世界でしょ?」
「そうなんだけどさ…」

すると翼くんが突然、箸を置いて唐揚げを指さした。

「例えば遥だって、この唐揚げの写真を撮ることは絶対にないじゃん。これこそが、僕たちのリアルな夜ご飯なのに」




そう言われてみればそうだ。

私のインスタなんてまだまだフォロワーが少ないし、ほぼ友達しか見ていないけれど…。今日みたいな、特に映えない普通の食事は投稿しない。

いつも以上に手間をかけて、見栄えのいい料理ができたときだけ、写真を撮ってポストしている。

「俺はSNSやらないから、わかんないけどさ。むしろこういうリアルで自然体な投稿を、みんな見たがってるんじゃないの?」

翼くんの言葉が、ストンと腑に落ちた。

たしかに、スマホの中のキラキラした世界に疲れ始めている自分もいる。SNSを見れば、何者でもない平凡な自分が嫌になることも多い。

でも本当は皆、私と同じようなことを考えているのではないかな、とも思う。






結局、私はRIHOさんのアシスタントを続けることにした。言いたいことは山ほどあるけれど、人は人。それに私の雇い主でもある以上、仕事として割り切るしかない。

「遥ちゃん。このあと来客があるから、早めに片付け終わらせてもらってもいい?」
「わかりました、急ぎます」
「あと次から、買い物も全部お願い。メニューも本当は考えてほしいくらい」
「わかりました」

正直、お給料は驚くほど安い。それでも私はRIHOさんの下で働いた。社会復帰の糸口には良かったし、それに料理教室の集客方法など、学べることは多かったから。

ただその間に、私は自分のインスタで“超リアルな晩ご飯”アカウントを始めた。

まったくキラキラしていないアカウント。

仕事で疲れて帰った日などキッチンにも立ちたくないし、何もしない翼くんに対して腹が立ったりもする。

そんな日常生活をそのまま届ける、加工もほぼしない夫婦2人の晩ご飯。

すると驚くことに、300人もいなかったフォロワーがあっという間に1,000人を超えた。そして数ヶ月経つ頃には、1万人を超えていたのだ。

「遥、すごくない?すっかり有名人じゃん」

「レンジでできる揚げないナスの煮浸し」を食べながら、夫がニヤニヤしている。…なんだか自分でも不思議だった。

少し前まで私はただの専業主婦だったし、何者にもなれないと思っていたから。でも今は自分で行動を起こして発信すれば、何だってできる。

「有名人じゃないよ!…でも、#Harukaご飯が認知されるのは嬉しいな」

― 思い切って、一歩を踏み出して良かった。

ほんの少しのためらいを乗り越えれば、いつだって変われるチャンスは転がっているのだ。

もっと自分で稼げるようになって貯金ができたら、私はアシスタントを辞めて独立しようと思っている。

自力で切り開いていく人生も悪くない…。そう思えるようになった自分が、最近かなり好きだったりする。

▶︎前回:3対3の食事会に15分も遅刻してきた27歳女。それなのに、気になる男性とイイ雰囲気になれたワケ

▶1話目はこちら:26歳女が、年収700万でも満足できなかったワケ

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QLCから抜け出した、女たちの人生