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UNHCRは、第二次世界大戦後の1950年に、戦争で避難を余儀なくされたヨーロッパの難民を支援する機関として、国連により3年間の期限付きで設立された。にも関わらず、設立から70周年を迎える今なお、世界中でUNHCRによる人道支援の需要はなくならない。むしろ難民の数は年々増加するばかりだ。

「一言で難民と言っても、国と地域により様子はさまざまです」と守屋さん。シリアでは、2011年に起きた民主化のデモに端を発し、政府軍と反政府派の間で今も内紛が続いている。紛争が深刻化し、シリア国民の半数が難民または国内避難民となる異常事態が起きている。守屋さんによると、シリアはもともと世界遺産もある文化的な国で、国民の教育水準も高く、暮らしぶりも日本とそうかけ離れたものではなかったそうだ。シリアの国民は、ある日突然、着の身着のまま逃げ惑う暮らしを余儀なくされることになった。守屋さんに、現在、シリア難民が暮らしている難民キャンプの様子を教えてもらった。

まずその場所が悲惨である。日中は50度近くまで気温が上がり、夜になれば明かりひとつない真っ暗闇。およそ人が暮らしを営むのに適さない砂漠の真ん中に難民キャンプはある。たびたび砂嵐が起きるので、簡易テントはものの役に立たない。シェルター(仮設住宅)を作ってはみたが、シェルターの中には、水も電気も通っておらず、砂漠でも冬には雪も降るほど寒く、暖のないシェルターでは凍えてしまう。さらに、明かりがないことが、生活をより一層不自由なものにしている。夜に用を足す際は、危険の伴う真っ暗闇の外へ出ていかなければならないという。

右写真:難民キャンプには、次々と難民が押し寄せ、大きいキャンプでは8万〜9万人もの規模になるという。その半数は幼い子どもたちだ。想像できるだろうか。何もかもを失った人々が暗闇の中で暮らさなければならない状況を。

2010年より、UNHCRはIKEA Foundationとグローバルパートナーシップを組んでさまざまな支援を行ってきた。その取り組みの一環として、イケアストアですべての照明製品が1つ購入されるごとに1ユーロがUNHCRに寄付されるという「難民キャンプに明かりを届けよう」キャンペーンが2014年度からスタート。集まった寄付は、難民キャンプで太陽電池式の街頭やソーラーランタン、太陽電池式エネルギーシステムの設置に役立てられている。「昼間の太陽のエネルギーを利用するソーラーランタンはキャンプでとても重宝しています。夜間に行動ができるようになったことで、子どもたちは勉強をすることもできるようになりました。」と守屋さんは言う。

・エチオピアとヨルダンの28万4,000人を超える難民と受け入れコミュニティーの人々は、5万6,000個以上のソーラーランタンの提供と720本以上の太陽電池式街灯の設置のおかげで、以前よりも夜間に安全に暮らせるようになった。

・バングラデシュとチャド、エチオピアでは、3万7,000人以上の子どもたちが小学校へ入学し、学習を継続できるようになり、さらにこれらの国では740名以上の教師に対してトレーニングが行われた。

・バングラデシュでは、22のバイオガスプラントが建設され、し尿の15%を処理して、調理用のグリーン燃料を生成している。

イケアの他にも、民間企業による新しい支援の形が増えているという。ユニクロは、CSR(企業の社会的責任)活動の一環で、全国に展開するユニクロの店舗で着なくなった衣料を回収し、世界の難民キャンプに届けるという活動「全商品リサイクル活動」を2006年から行っている。「限られた支援資金の中で、衣食住の衣料はどうしても”食べる”、”住む”より後回しになってしまいます。難民の方が仕事に就こうと思っても、まず着る服がないとそれもできませんよね。衣料支援は、身を守るものとしての洋服を提供しているだけでなく、その先にある自立支援にもつながっていきます。」また服には自己表現といった文化的な側面もある。「ユニクロさんの服を着ている難民の皆さん、とてもお洒落に、自分らしく着こなしていらっしゃると思いませんか? 」老若男女の難民の方々が身にまとうユニクロの衣料が、人々の暮らしや心に彩りをもたらしている。
写真:ユニクロの店舗で集められた衣料は、ユニクロの社員が難民キャンプまで行って直接難民の方へ手渡されている。 cShinsuke Kamioka

「UNHCRの支援活動は、あくまで難民問題の対処療法でしかありません」と守屋さんは言う。紛争はなくなる日=難民がなくなる日でもある。世界中で紛争が起こり続けている限り、私たちは、難民の発生が一時的なものではなく、常に起こり得るものであることを意識していかなければならないのかもしれない。

守屋さんによれば、難民が救済されるルートとして、まずは自分の故郷へ安全に帰ること、次に避難先の国に定住し、そこで生活の基盤を持って生きていくこと。または、難民の受け入れを表明する第三国によって保護され、支援を受けながら定住することの3つの道があると言う。難民の受け入れについて、日本では、昨年5000人の難民認定の申請数があったが、認められたのはたった11人と極めて少ない。このことに関しては、「難民の数に対して、現制度における難民認定の事務処理スピードが全く追いついていない」と守屋さんは指摘する。

そもそも日本で難民問題が盛んに議論されるようになったのは、1975年前半のインドシナ難民の大量流出がきっかけだ。しかし日本は80年代インドシナ難民1万1千名を難民として受け入れた(※)という事実を私たちはあまりよく知らない。難民を受け入れるというのは具体的にどういうことなのだろう。守屋さんに聞いた。「認定を受ければ、日本語教育をはじめ、大学では奨学金で日本人と同じ教育を受ける道も開かれます。企業で働くこともできれば、国籍を取得することもできる。日本社会の一員として生活することができます。」かつて日本が受け入れたインドシナ難民のその後については、「そのまま日本で家族と暮らす人も多く、生まれも育ちも日本というインドシナ難民二世も育ち、日本の社会で活躍しているケースもあります。また祖国が平和になり、帰国する難民もいて、日本で学んだ学問や技術を祖国で活かしている人もいます。支援を受けた人々は日本に対して感謝の念を抱きながら、祖国復興に励んでいますよ。」と言う。

※ 日本は1981年6月の通常国会において、難民条約への加入が承認され、1981年10月3日に「難民の地位に関する条約」に、1982年1月1日に「難民の地位に関する議定書」に加入。1982年1月1日からこれらの条約や議定書が発効され、アジアでも数少ない難民支援の国となった。

日本の支援を活かし、力強く成長した難民の若者たちが、日本の文化や技術を吸収して、国に帰っていく、または私たちの社会でともに活躍してくれる。こんな国際交流の形が今後増えていくのかもしれない。社会の中で難民が異分子として周囲の目に移るのではなく、ある種モザイクとして豊かな社会の彩りのひとつであるという意識を、私たちが持つことができるのだとしたら、その時、私たちの心の中で“難民”という概念はなくなっていくのかもしれない。

「難民=可哀想な人々という側面ばかりが強調されてしまいますが、同じ社会に暮らし、文化的交流をして触れ合うことで、私たちが彼らから受ける刺激も大いにあります。」守屋さんは最後に、毎年9月、10月に東京を中心に開催されている「UNHCR難民映画祭」(右写真)について話してくれた。「映画を通して、難民の人たちの状況だけでなく、過酷な環境の中でも生き抜く力強さ、熱い思いを知っていただけるのではないかと思います。中には映画の出演スタッフ全員難民という作品もあり、彼らが発信するメッセージを直に感じることができるはずです。」
守屋さんが言うように、難民として国境を越えて、国へ向かう命からがらやってきた人々は、決して憐れむべき人々ではない。難民問題の解決に向けて、今問われていることは、難民の方々に対する私たちの意識と社会の制度の方かもしれない。今あなたは、なにを感じ、どう行動するだろうか。

■UNHCRへの募金・寄付はこちらから▼
「もし、明日、故郷を追われたら(国連UNHCR協会)」https://www.japanforunhcr.org/

1962年東京都生まれ。父親の仕事の都合で、幼少期より香港、メキシコ、アメリカなどで海外生活を経験。獨協大学法学部卒業。住友商事勤務。アンダーソン・毛利法律事務所などを経て、1996年より国連難民高等弁務官(UNHCR)駐日事務所に勤務。代表秘書や上席連絡調整官を歴任し、2007年より現職。日本国内の人々へ向けて難民問題に対する関心・意識の啓発や、難民支援への理解を深める広報活動に従事する。

UNHCRは、国連難民高等弁務官事務所 (United Nations High Commissioner for Refugees)の略称で、1950年に設立された国連機関の一つ。紛争や迫害により難民や避難民となった人々を国際的に保護・支援し、難民問題の解決へ向けた活動を行っている。1954年、1981年にノーベル平和賞を受賞。スイス・ジュネーブに本部を置き、約125か国で援助活動を行っている。