◆これまでのあらすじ

夫と離婚調停がなかなか思うように進まない楓。そんな時、大学の同級生の結婚式で元彼・賢司と再会。
思わずドキドキするものの、賢司からの誘いを振り切り、調停の争点である“夫と別居した時期”が最近であることを裏付ける資料を作り上げた。

▶前回:「私、夫と離婚するの」10年ぶりに再会した元彼に打ち明けたら、男は意外な反応で…




Vol.12 離婚調停が決着する


「あら、花奈。どこか具合悪いの?」

食卓を片付けようとした楓は、思わず心配そうな声を漏らした。

朝8時。いつもの花奈であれば、すでに朝食を終えて機嫌良くテレビの教育番組を見ている時間だ。

だが、テーブルの上の皿には、小さなパンケーキとフルーツが手付かずのまま残されている。

「うん、お腹空いてない…」

そういえば、少し頬が赤いし、目もとろんとしている。花奈のおでこに手をあてると、じわりと熱かった。

「熱がありそうね。幼稚園、お休みしようか」

幼稚園に欠席連絡をするため、楓はテーブルに伏せたスマホを手にとる。そして、花奈を椅子から下ろし、寝室へと促した。

寝室には、シングルベッドが2台横並びで置いてある。それぞれ楓と光朗のものだが、光朗はもう長いことこのベッドを使っていないため、すっかり花奈のベッドのようになっていた。

枕元に並べたお気に入りのぬいぐるみのひとつを手にしてから、花奈はベッドに横になる。

そして何を思ったのか、唐突に尋ねたのだった。

「ねえ、ママ。パパはもうおうちに帰ってこないの?」

娘の問いに、楓はびっくりして顔を上げた。

おそらく春以降、花奈の口から聞いたことがなかった「パパ」という言葉。

幼いながらに我慢をしているのかもしれない、と思ったことはあった。

だが、これまで「会いたい」と言われたこともなかったから、親子といえど時が経つにつれ執着は薄れていくのだろうと納得していたのだ。

「どうして、そんなこと聞くの?」

楓は優しく聞き返した。熱のある子どもに言うことではないと思いながら、これ以外の言葉は見つからない。

すると花奈は、うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて答えた。


「ううん、なんでもない。もしパパに会ったら、花奈はうさちゃんと仲良くしてるよ、って伝えておいて」

「うん、わかった。じゃあ、早く熱が下がるように、ゆっくり眠ってね」

楓が布団をかけると、花奈は大人しく目を瞑った。




5歳になる花奈だが、小さな頃から手がかからない子だ。絵本を読んで寝かしつけたりする必要もなく、手触りのよいぬいぐるみがあれば、1人で眠ることができる。

枕元にはいつも大小様々なうさぎのぬいぐるみを並べていて、その時の気分でどれかを抱き抱えて眠る。花奈はそれらひとつひとつに名前をつけているが、どれも似ているため、楓には区別がつかないし、もはやどこでどういう経緯で買ったのかさえ覚えていない。

数分もたたないうちに寝息が聞こえ始めた。

― なんでいきなりパパなんだろう?それもなぜ、うさちゃんについて?

子どもとは、大人が思ってもみないことを突然発言したりするものだ。でも、さっきの花奈の発言は、楓を動揺させるに十分だった。

― やっぱり、会いたいのを我慢させてたのかな…。

もしそうだとしたら、調停での話し合いを早急に進め、父親との今後の距離感についても早々に取り決めなくてはならない。

楓はそう決意を新たにするのだった。



それから3日後。

花奈の体調はすっかり回復し、今朝から幼稚園にも登園している。

楓は幼稚園に送り届けたその足で、マリキータ法律事務所に向かった。電話やLINEでやりとりすることももちろんできるが、真壁と直接向かいって話すほうが、自分の意思も伝えやすい。

それになにより、真壁と話していると不思議と安心できるのだ。

「楓さん、早くから御足労いただいてすみません」

「いえいえ、私の方こそ忙しいのに無理言って時間を割いてもらって…」

先日の調停では、裁判官から「出された資料を見た限りでは、別居を始めたのは今年からというのが妥当」との回答をもらっていた。

このまま順当にいくと、夫が出て行った2月が財産分与の基準になる。夫の保有するマンションや有価証券、現金などは、その時点を基準に分けてもらうことになるのだが…。

「実は…『有価証券とゴールドは、親から譲り受けたものだから財産分与の対象じゃない』と回答がありました」

親から譲り受けた財産は「特有財産」といって、財産分与の対象にはならないのだと真壁は言った。




「だとしても、松島さんが手ほどきして購入した有価証券は、分与の対象ですよね?」

夫の元不倫相手の松島から、どの銘柄を購入すべきかアドバイスをしていたと聞いている。

「まあ、有価証券の売買履歴などを公開してくれればいいですが。それから、ご自宅のマンションもご両親から生前分与されたお金を使って買ったので、財産分与の対象には入らない、と主張されてます」

「そんな…生前分与のお金だったなんて、私聞いてません」

まったく想定していなかった夫側の主張に、楓は青ざめていく。

「向こうも、マンション、有価証券、現金のすべてが分与対象となったら、金額が大きいので必死ですよ。

子どもには養育費という形で払ったとしても、配偶者には1円だって払いたくないというのが、離婚したい男の本音です」

一旦家を出てしまった男は、もはや情など持ち合わせていないのかもしれない。まして、調停など起こす面倒な妻に対しては特に。

「それはわかります…。先生はどのように終結させるべきだと思いますか?」

楓が力無く尋ねた。

すると、真壁は楓の不安を断ち切るように、きっぱりと言い切った。

「あまり気持ちのいいやり方ではありませんが…」

真壁はこともなげに言いながら、にっこりと微笑む。

「楓さん、和解しませんか?」

真壁の口から出た言葉に、楓は衝撃を受けた。

「え?和解…ですか」




楓は、オフホワイトのツイードジャケットを羽織り、姿見の前に立った。パールのピアスとネックレスをつけ、手櫛で髪を整える。

「花奈、そろそろ行こうか?」

「うん!」

花奈は学校指定の帽子を被り、背中には小さな体に不釣り合いなランドセルを背負っている。

今日は、花奈の小学校の入学式なのだ。

マンションの外に出ると、春らしい柔らかな風が頬をくすぐる。もうすでに桜は散りかけているが、街路樹には新芽が芽吹き、気持ちのいい季節が始まろうとしていた。

2人で手を繋ぎ、歩いて10分ほどの小学校に着く。結局、私立小のお受験はしなかった。

「楓さん、花奈ちゃん」

花奈があたりをキョロキョロしていると、背後から晴子親子に呼び止められた。

「娘たち、同じクラスみたい。よかったわ」

晴子には、本当にお世話になってばかりだ。年明けにはじめた就職活動では面接の受け答えに付き合ってもらい、つい先日、初めての内定をもらうこともできた。

ホッと胸を撫で下ろすと、花奈が楓の手を振り解き、突然走り出した。

「パパ!」

花奈が向かった先で、スーツ姿の光朗が嬉しそうに花奈を受け止めた。楓も光朗の方に近づいていく。

「来てくれてありがとう」

少し周囲を気にしながら、礼を言う。

「いや、呼んでくれてありがとう」

光朗も遠慮がちに返した。




楓が光朗に会うのは、昨年末の和解以来だ。

真壁の提案のとおり、2人は和解の上、離婚に至った。

和解と聞くと、まるで「今までのことは水に流して」といった関係修復に近いようなイメージがある。

だが調停の場合、「お互いに折れるところは折れて終わりにしましょう」といった感じだ。財産分与としては、3,000万円を現金で譲り受けた。

ずいぶん安く叩かれた感があるのには、理由がある。

光朗から、子どもが大学卒業までの間、賃貸マンションを借りるための家賃補助を出すという提案があったのだ。その代わり、これまで住んでいた分譲マンションを明け渡すのが条件だった。

快諾とは言えないが、調停を続けることに疲れ切っていた楓は、その条件を飲んだ。

「最後に一度、ちゃんと謝りたいとおっしゃってます」

まもなく調停を終えようとする時になって、弁護士経由で謝罪の申し出があったのは意外だった。

長い期間、特定の女性と浮気を続けていた夫。夫の裏の顔を知り、調停は拗れ、もう2度と会うこともないと思っていた。

― 私はもう2度と会いたくない。彼と会うのが恐ろしい…。でも…。

しかしその時、ふと娘の顔が浮かんだ。

― 花奈は会いたいのかな。あの日以来、パパのことは言わないけれど。

調停で面会交流については特に取り決めなかった。向こうから面会の話はでなかったし、こちらからも提案はしなかったからだ。

「真壁先生と一緒に、一度だけお会いします」

楓はそう返事をしたのだった。

そして──。

久しぶりに光朗と会った日のことを、楓は忘れないだろう。

真壁の事務所の会議室に楓が入るや否や、彼は深々と頭を下げた。

「いまさら反省しているって言うのはおかしいけど、迷惑をかけたと思っている。あの頃の僕は、金さえあればなんでも手に入ると信じて疑わなかった」

楓は彼の謝罪に、何も答えることができずにいた。

「楓さんも今日、ここに来ることをだいぶ悩んでいらっしゃいました。和解したとはいえ、傷つき、大変な一年を過ごしたのは本当ですし」

真壁が間を取り持つ。

「あの…。ひとつだけいいですか?」

楓が意を決した様子で言った。

「以前、私の留守に、自宅にいたことがありましたよね?あれは、なんのためだったの?アタッシュケースを取りに来たの?

あの時、人が変わったように私を罵倒したのは、本心?」

光朗は驚いているように見えた。弁護士たちもじっと固唾を飲んでいた。

「あの時は…」

光朗が言いかけた時、楓が言葉を被せた。

「花奈にぬいぐるみと手紙を届けるため?」

光朗がハッとした様子で顔を上げた。

「先日、あなたと離婚することを花奈に伝えたの。ネガティブな言い方じゃなく、これから2人で頑張ろうねって」

あの時花奈は、驚く様子もなく即答したのだ。

「花奈、知ってるよ。うさちゃんのお手紙で」

「えっ?お手紙って?」

なんのことか分からず、楓は聞き返す。

すると花奈は、へへっと笑って、一生懸命説明し始めたのだった。

それは、光朗が帰ってこなくなってしばらくした時のこと。幼稚園から帰って自分のベッドにお気に入りのうさぎを取りにいったら、そこにはいままでいなかったうさぎのぬいぐるみが一つ、いつものぬいぐるみに紛れて座っていた。

とても可愛かったので花奈が手に取ると、うさぎが斜めがけしているポシェットの中には手紙が入っていた。

それには、うさぎの言葉で、

「パパのかわりに、うさぎがはなちゃんをみまもっているから。いいこでママのいうことをきいてね」

とあったそうだ。




「きっと光朗さんが、花奈のために書いて届けたんだって、気づいたわ」

手紙は2枚あるから、やってきたのも2回。そのうち1回は楓と鉢合わせてしまい、もう1回はうっかりリビングの扉を閉めてしまった。きっと2回目は手紙を届けたついでに、アタッシュケースをひとつ持ち帰ったのだろう。

とはいえ、いろいろ謎は残る。

「あなたってどういう人なのか、わからないけど。私はもう気にしないことにしたの。もう夫婦じゃないし、友達でもない。

でも…娘の親として、時々連絡させてもらうことがあると思うけど。…よろしくね」

楓が光朗を許した瞬間だった。と同時に、ようやく新しい一歩を踏み出せると楓は確信したのだった。

「ママー、パパー。一緒に写真撮ろうよ」

ランドセル姿の花奈が嬉しそうにぴょんと飛び跳ねる。その姿を見て、思わず目頭が熱くなった。

光朗と肩を並べて、真ん中に花奈を立たせる。花奈の肩に置かれた光朗の左手に、今はもう結婚指輪は光っていない。

― そうだ。私たち、本当に夫婦じゃなくなったんだ。

あらためて実感した楓は、ふと思う。私たちは、これからもお互いに裸の左手で、こうして家族写真を撮り続けるのかもしれない…と。

なぜ浮気したの?

なぜ家を出て行ったの?

なぜ?どうして?

不毛な問いばかりを繰り返した一年だった。離婚は失うものばかりで、思うように得たものはほとんどなかった。

だが、それでも春はやってきて、楓は確信している。

以前より、自由で強い自分になれたこと。

夫婦として、正しく終われたこと。

そしてきっと───、家族としての新しい生き方を、始められたことを。

Fin.




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▶1話目はこちら:結婚5年。ある日突然、夫が突然家を出たワケ