プロポーズを期待していた30歳女。それなのに彼が、ポケットを漁って手渡してきた予想外のモノとは
「あの頃の自分が思い描いていたオトナに、ちゃんとなれてる?」
高校卒業から12年。
これは様々な想いを抱えて上京してきた、男女9人の物語だ。
恋に仕事に、結婚に。
夢と現実の狭間でもがく30歳の彼らが、導き出した人生の答えとは?
夏原千紘、29歳。上京12年目の別れ
― 記念日なのに残業になっちゃった。大事な話ってもしかして、プロポーズかな!?
渋谷にあるオフィスを出た私は、タクシーに飛び乗った。車中でメイクを整えながら時計に目をやると、時刻は20時半。約束の時間から30分以上過ぎている。
妄想を膨らませながらエスカレーターを駆け上がり、待ち合わせしていた『DAL-MATTO』に入る。店内を見渡すと、彼は一番奥の席でグラスを傾けていた。
「遅くなってごめん!急いで入稿しなきゃいけない原稿ができちゃって」
「…千紘、お疲れ。部署異動しても忙しいんだね」
そう言って、幸太郎は控えめに口角を上げた。
私と幸太郎は、今年30歳。
彼は目黒生まれで、生粋の東京育ち。現在は大手商社で働いている。
一方の私は「作家になりたい」という漠然とした夢を持って、大学入学とともに愛媛から上京したが、今は廃刊寸前の週刊誌の記者。毎日ゴシップネタを追いかけてばかりだ。
幸太郎との出会いは2年前。私が担当していた連載の、取材窓口となってくれたのが彼だった。
そして幸太郎を見た瞬間、胸が高鳴った。彼は私の初恋相手・大和にそっくりだったから。
「私、ここのフォカッチャ大好き。オリーブオイル、どれにする?」
「千紘が決めていいよ」
メインディッシュを平らげ、〆のパスタが運ばれてくるまでの間。幸太郎は急に真顔になって、ポケットから何かを取り出そうとした。
― くる。プロポーズだわ…!
心臓がバクバクと音を立て始める。しかし彼が取り出したのは、指輪なんかじゃなかったのだ。
幸太郎が握りしめていたのは、私のマンションの合鍵だった。
「千紘、別れてくれないか」
「えっ…?やだ、なんで急に。どうしたのよ」
「急じゃない。今だって会うのは2週間に1回くらいだし」
幸太郎は私の言葉をさえぎると、残りの白ワインを飲み干して言った。
「ここ数ヶ月、ずっと考えてたんだ。俺と千紘は一緒にいても、うまくいかないと思う」
「…どうして?」
「価値観の違いってやつなのかな。俺は結婚する人には、家庭を守ってほしいって思うんだ。ストレートに言うと、千紘は結婚向きじゃないっていうか…」
焦った私は、早口でまくしたてる。
「うん知ってる。だから先月、休みの取りやすい部署に異動したし」
「でも結局、毎日残業してるじゃん。それに千紘はいつも生き急いでる。一緒にいて落ち着かないんだ」
彼の「生き急いでいる」という言葉に、私の記憶は封印していた12年前へと遡っていった。
夏原千紘、18歳。初恋と東京への憧れ
2010年9月、高校最後の夏。
2学期が始まったばかりのこの日、私は恋人の大和と放課後の教室にいた。
「昨日のデコログ見てくれた?上京したら行きたいところリスト!」
窓の外を見つめていた大和に、携帯電話を差し出す。
渋谷109に竹下通り、そして六本木ヒルズ。ガラケーの小さな画面には東京の有名スポットが並び、文章は大量のデコメで装飾されている。
「…千紘は生き急ぎすぎだって。大学生になったらいつでも行けるんだし」
「え〜。だって半年後には、東京で暮らしてるんだよ!私たち」
「まずやることあるでしょ。ほら、勉強勉強!」
そう言って私に数学のノートを差し出すと、彼は再び窓の外に目をやった。長いまつげと少し癖のある前髪が風で揺れていて、思わずドキッとするほどカッコよかった。
サッカー部のエースで人気者だった大和は、私の初恋の人。体育祭の日に私から告白して、1年間の片思いが実ったのだった。
「…ねえ大和。絶対に2人で、東京の大学に行こうね!」
彼は何をやるにも真剣だった。指定校推薦で早稲田への入学がほぼ内定していたが、休み時間も参考書を手放さなかったのだ。
一方の私は、都内有名女子大の推薦枠を狙っていて、勉強はそこそこしか頑張っていなかった。大学に行くことよりも「大和と東京に行く」という気持ちの方が強かったから。
「そろそろ塾行ってくる!大和は?」
「あぁ、俺は浩二と約束してるから。あいつが補習終わるのを待ってるよ」
「そっか。じゃあまた明日!あとで電話する〜」
私は彼に手を振ると、教室を出た。…これが大和との、最後の会話になるとは知らずに。
数日後。久々に登校した私が目にしたのは、大和の机の上に飾られたユリの花だった。
「大和くんね、自転車に乗りながら千紘の電話に出て、海に落ちたらしいよ」
「えー。マジ?じゃあ千紘が電話しなかったら、死ななかったってこと?」
目を真っ赤にした私が教室に入ると、ひそひそ話をしていた女子たちがとっさに「おはよう」と作り笑いを浮かべてくる。無言で席に着いた私に、クラスメイトの亜美が駆け寄ってきた。
「…千紘のせいじゃないから」
しかし彼女の声をさえぎるかのように、大和の親友である浩二が大声で怒鳴り込んできた。
「お前のせいで大和は死んだんだ!」
浩二の言葉で、クラス全体に重い雰囲気が漂う。すると亜美がその空気を打ち破るかのように、バンっと机を強く叩いて立ち上がったのだ。
「はぁ…!?あんた千紘の気持ち考えなよ!」
浩二が何かを叫び、亜美が彼の頬を平手打ちする姿がスローモーションで見えた。
それからのことは、覚えていない。
大和が死んでから、私はどこに行っても責められているような気がした。
だから卒業すると同時に、高校時代の友人とは縁を切った。そして地元から逃げるようにして、上京を決めたのだった。
◆
「千紘、どうしたの…?」
我に返ると、幸太郎が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「あっ…。ごめん」
「もしかして、泣いてる?」
「え?」
目に手をやると、いつの間にか涙が溢れていた。
「ごめん、突然だったよな。俺も無神経すぎた。すぐ別れるんじゃなくて、一旦距離を置こう」
そう言って幸太郎がうつむく。その姿を見て、私は自己嫌悪に陥った。
私は今、幸太郎との別れが悲しくて泣いていたんじゃない。大和のことを思い出して泣いていたのだ。
「…わかった、別れよう。幸太郎、今までありがとうね」
「えっ!?」
驚いてグラスを落としそうになっている幸太郎を残して、私は店を飛び出した。
― あぁ。私、何してるんだろう。
トボトボと歩きながら、ショーウインドーに映った自分の姿を眺める。髪の毛はボサボサで、1ヶ月以上メンテナンスしていないまつエクは、ほとんど抜け落ちていた。
さらに幸太郎にプレゼントしてもらったプラダのパンプスには、無数の傷が刻まれている。
18歳の頃、心の底から憧れていた東京。しかしその場所を歩いているのは、どう見ても無様なアラサー女だった。
六本木ヒルズを出てタクシーに乗ろうとしたそのとき、電話が鳴る。
スマホの画面を見ると、会社の上司からだった。
「夏原さん。さっき入れてもらった原稿、ちょっとヒドすぎ。構成もグチャグチャだし。明日の朝までに直して再入稿して」
「明日、ですか…」
「はぁ」という短いため息とともに、一方的に電話を切られたが、またすぐに着信があった。上司だと思った私は、とっさに電話に出る。
「もしもし夏原です。すみません!原稿は明日中に…」
「…千紘?」
「えっ!?どなたですか?」
「よかった、電話番号変わってなくて。亜美だよ。…12年ぶり、だよね」
上司だと思って出た電話の相手は、高校時代の友人・亜美だったのだ。彼女とも、地元を出るタイミングでそのまま疎遠になっていた。
「久しぶり。どうしたの?」
「あのね。私、結婚することになったんだ。千紘には報告しておきたくて」
「えー!おめでとう!相手は?どんな人なの?」
私は涙をぬぐい、できるだけ明るい声で祝福する。…しかし亜美から発せられたのは、思いもよらない男の名前だった。
「私、浩二と結婚するの。それでね、千紘には結婚式に来てほしいなって思ってて」
大和の死を「私のせいだ」と責め立てた男の顔が浮かぶ。私は何も言えず、その場に立ちすくんだ。
▶他にも:夫がソファの下で見つけた、動かぬ証拠。妻に浮気を問い詰めると、予想もしなかった“暴露”を始め…
▶Next:8月2日 火曜更新予定
高校時代の親友からの思わぬ報告。そんな亜美も、東京で苦しい思いをしていて…?