東京で生きる、孤独な男女。

彼らにそっと寄り添い、時には人生を変えてくれるモノがある。

ワインだ。

時を経て熟成される1本は、仕事や恋、生き方に日々奮闘する私たちに、解を導いてくれる。

これは、ワインでつながる男女のストーリー。

▶前回:男の前でジャケットを脱ぎ、ノースリーブになる女。見え透いた手だけど、結局男って




Vol.10 泡が弾けるとき


〈プロフィール〉
名前:松永キヨ(28)
出身:岩手県
経歴:中央大学卒、現在は、WEBコンサルタント

私の名前、松永キヨ。

カタカナで「キヨ」なんて、昭和を越えて大正っぽい名前だから恥ずかしい。

だから、みんなには「きい」と呼んでもらっている。

中央大学時代の同級生・桃子がニックネームの名付け親だ。

桃子は、おしゃれで華やかな美人だった。キャンペンガールや読者モデルもしていたし、目立つ存在だったと思う。

それに対して私は、岩手県の豪雪地帯で生まれ、市街地まで車でも1時間以上かかる田舎出身。

大学に入学した当時は、オシャレや化粧に興味がなかった。

でも、桃子が「きいはスタイルもいいし、もとが可愛いのに、もったいない」と、私にメイクやファッションを施した。

彼女にしてみれば、私は着せ替え人形のような存在だったのかもしれない。

私は、桃子の影響でどんどんあか抜け、 周りの私を見る目が変わっていくことは快感だった。

しかし、自分に投資をすればするほど、お金はかかる。

ハンバーガーショップのアルバイトだけでは金欠だった私に、桃子が紹介したのが今でいう「ギャラ飲み」だった。

六本木や西麻布の華やかでダークな世界を、20歳にして知ってしまったのだ。



港区女子になって


「きいちゃんって、本当に可愛いよね」

大人の余裕ある男性からの優しい言葉、豪華なお酒や雰囲気、同席したお姉さんたちが教えてくれた身を守る社交術。

東京で私も「ナニモノか」になりたくて必死だった。

そして……。

28歳になった私は、一般人にもかかわらずInstagramのフォロワーは1万人ほどいる、ちょっとしたインフルエンサーになった。

ホテルステイや、飲食店、自撮り付きの新作コスメ紹介などをアップするたびに、「可愛い」「憧れ」といったコメントが入る。

― 私は、あれから「ナニモノか」になれたのかな?

港区で「女」と「若さ」という武器を安売りし、堕ちていく人も何人も見てきた。

そんなふうになりたくなかった私は、人気だったWEB業界に就職もちゃんとした。

それに、港区で派手に遊び歩いてる女の悪い噂はすぐにまわるから、特定の恋人ができたら出会いの場や食事会にも顔を出さないと決めている。

「可愛くて、ノリがいいのに、チャラくない」

信頼と地位を時間をかけて築いてきたのだ。

でも…。



「きい、ごめん。好きな人ができたから別れてほしいんだ」

表参道のカフェでデート中に、彼氏の彰人が別れ話をしてきた。

最近、彰人の態度がそっけないとは思っていたので、話があるとLINEで切り出された時は、身構えた。

心の準備はしていたつもりだったのに、いざ彼から別れ話を切り出されると、私は動揺が隠せなかった。

日系航空会社に勤める彰人とは、友人の紹介で2年前に知り合った。

お互いフリーで、お互い外見も「アリ」で、趣味も合ったし、決定的な価値観の違いもない。

燃え上がるような恋愛をしたわけではないけれど、2人で何度か食事を重ねる間に、自然と付き合うことになったのだ。

そろそろ結婚してもいいかな、なんて考えていたのに…。




「好きな人って何?その女と同時進行でもしていたわけ?」

涙が溢れないように、つい強い口調で彼に言う。

「彼女とは、まだ何もないよ。新卒の女の子で、最初は仕事の相談を乗っているうちにだんだん彼女に惹かれて。全然、化粧っ気もない、普通の子だよ…」

「そういう子が、1番計算高いんだって。わかる?」

「きいの方が、数倍綺麗だとは思う。彼女は不器用な子なんだ…」

私へのフォローのつもりなのかもしれないが、彰人が彼女について語れば語るほど、私の心はえぐられた。

「キヨ。ごめんな」

― 出会ってから、初めて「キヨ」って本名で呼んだね…。

その事実に私は、無性に腹が立った。

「お幸せに」と言い残し、私はカフェを後にした。

― そろそろ落ち着こう、なんて思って「安定した恋愛」を求めていたのがよくなかったのかも…。

怒りと虚しさで込み上げる涙を拭いながら、私はずっと未読だったあるLINEグループを開いた。




2週間後。

「きい、久しぶり!最近付き合い悪かったもんな〜」

彰人と付き合ってから断り続けていた六本木での飲み会に、私は久しぶりに顔を出したのだ。

数年前に知り合った若手IT社長とシャンパンで乾杯をして、その場にいた、はじめましての顔ぶれの数人にも挨拶をした。

「きいさん、はじめまして!実は、私、きいさんのインスタをフォローしていて、綺麗で、ずっとお会いしたいと思っていました」

話しかけてきたのは、モデルをしているという20歳の美沙。

「きいさんって、どんな字書くんですかー?」

「私?きいは、ニックネームなの。本名はカタカナでキヨだよ」

「そぉなんですね。きいさん!よろしくお願いしますっ」

― 私も、港区に顔を出し始めた20歳のころは、こんなふうに初々しかったのかな?美沙ちゃん、かわいいなぁ。

「あのっ、実家の猫ちゃんが体調崩しちゃったって連絡きて…。みなさん、ごめんなさいっ。心配なので今日はここで帰りますね」

22時を過ぎた頃、美沙はそう言って申し訳なさそうにお店を出た。

― あ、美沙ちゃん、ハンカチ忘れてる。

「まだ間に合うかも!ちょっと、私届けてくるね!」

私は、急ぎ足でお店を出ると、駅とは反対方向側に彼女の姿を見つけた。

そして急いで駆け寄ると、彼女は電話中のようで…。


「ごめーん!今からタクシー乗って合流する!気になる経営者の人たちとはLINE交換したから!」

さっきの甘い声とは別人かと思うほどの、ドスのきいた美沙の声が六本木の交差点に響いていた。




「そういえば、Instagramのkiiって女、やっぱり加工女だったよぉ〜。しかも本名、キヨだって!ウケる!おばあちゃんかって。あ、タクシー止まったから、後でねぇ」

電話を切って、タクシーに乗り込もうとする美沙の肩を優しく叩き、私は精いっぱいの笑顔を向けてハンカチを渡した。

その時の美沙の引きつった顔は、一生忘れないだろう。



『ごめん。彼女追いかけてたら、足くじいちゃった。今日はもう帰るね』

食事会のメンバーに適当にLINEを送り、私は、六本木から赤坂の自宅まで夜風にあたりながらトボトボと歩いていた。

― なんだか、虚しい。

私に港区のキラキラした景色を教えた大学時代の友人の桃子は、いつの間にか、地元の埼玉に戻り、1児の母となっていた。

彼女は今、フォロワー300人ほどのSNSの鍵アカウントを作り、プチプラ親子コーデをアップしていたりする。

ブランド品をアップしていた桃子が、ずいぶん落ち着いたなと思っていたけれど、今は、素性も知らない人たちからのたくさんの「いいね」よりも、彼女の投稿が眩しく思える。

そんな考え事をしていたら、普段あまり通らない、六本木通りから1本入った細い道を進んでいたことに気がつく。

すると、目に飛び込んできたのは、古いビルの端っこで、ライトで照らされた小さな看板だった。

『今日、くらむぼん開いてます。BAR…』

― クラムボン?

私は引き寄せられるように、「OPEN」の看板が下げられた木の扉を押した。

そこは、小さなお店だった。

ざっと見渡してもカウンター5席、テーブル1席ほどしかない小ぢんまりとした空間で、今は他にお客さんはいない。

店主と思われる細身の男性が、「いらっしゃいませ」と、着席を促した。

「あの、私、通りがかりで…。看板を見て…」

私が、そう言うと店主は笑った。

「すみません、変な看板で。ここは、日本ワイン専門のバーなんです」

華やかな食事会の席で飲むのは、フランスやアメリカのワインばかりだったから、日本ワインと言われても、ピンとこない。

「今日は、『くらむぼん』という山梨県産のブドウ・甲州を使ったワインのご用意があります」

「日本ワインって味の割に高いし、薄いし。俺は飲まない」

そんなふうに言っていた経営者の人も一定数いたので、私も日本ワインを飲んだことはほとんどなかった。

でも、私は『山梨』『クラムボン』という言葉を聞いて、地元・岩手県花巻出身の宮沢賢治が書いた有名な童話を思い出していた。

実は私、中高時代は、物静かな文学少女だったのだ。

「『くらむぼん』ください」

カニの絵が描かれたボトルが可愛い。

グラスに注がれた白ワインは、透き通るレモンイエロー。私が好きな柑橘系の爽やかな香りだった。

「美味しい…!」

口に運ぶと…、優しい酸味と柚子のような苦味やほのかな甘味も味わえる。

夏に吹き抜ける、心地よい風のような印象を抱いた。




こんな美味しい日本ワインがあるのに、勝手に日本ワインをバカにして、有名なワインを味わうことなくガブ飲みしていた人たちって、つまらないかもと思った。

― いや、私も同じかもしれない。

田舎出身の自分を恥ずかしがって、自分の出身地や名前をバカにして否定している。

「とっても美味しいワインをありがとうございます、また絶対に来ますね」

私がそう伝えると、店主は、笑顔で私に言った。

「ぜひお待ちしていますね。えっと…、よろしければお名前を教えていただけますか?」

「はい、キヨです!カタカナで2文字で、キヨ!」

「では、キヨさん、また!」

店を後にした私は、勢いで、キラキラとした投稿に溢れたInstagramアカウントを削除した。

「明日、久しぶりに本屋に行こうかな」

画面のスクロールも、華やかな飲み会も悪くない。

けれど、私は、紙の本のページをめくるあの音を、心が1番欲していたことに気がついた。

『クラムボンが、きっとこんな私を見て、かぷかぷ笑ってるわね』

童話の中で、親子のカニが木の枝に引っかかったやまなしを見つけ、お酒になるのを待つシーンがある。

カニの親子が、2日後に飲もうとしていたお酒は、もしかしたら今日のワインのような味だったかもしれない。

そんなことを考えながら、私は1人微笑んでいだ。




◆今宵の1本


くらむぼん 甲州/くらむぼんワイン

日本 山梨県 勝沼町

甲州100%白ワイン。

社名でもある『くらむぼん』シリーズの看板白ワイン。

日本で1000年以上の歴史を誇る『甲州』ブドウの魅力を最大限に生かし、丁寧に造り上げている。

人間が機械的にワインを製造するのではなく、より自然な味わいのワインづくりを目指し、化学農薬や殺虫剤を使わずに気候風土に合わせた栽培を行う。

『くらむぼん』という名前は、宮沢賢治の童話、『やまなし』で蟹が話す言葉からきている。



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