朝まで一緒にいようと誘われたが、タクシーで帰った女。その後、前のめりだった彼からの連絡が途絶え…
結婚したら、“夫以外の人”に一生ときめいちゃいけないの?
優しい夫と、何不自由ない暮らしを手に入れて、“良き妻”でいようと心がけてきた。
それなのに・・・。
私は一体いつから、“妻であること”に息苦しさを感じるようになったんだろう。
◆これまでのあらすじ
夫の浮気に悩まされる麻由は、カフェの推し店員・圭吾と急接近。カラオケしているうちに終電を逃してしまい、「僕はこのままここで過ごしてもいいですけど」と言われる。
朝までカラオケ?
「オールって、このまま朝までカラオケするってこと?」
「僕はそれでもいいですよ。麻由さんが嫌だったら、別の場所でもいいし」
夜の新宿で、私たちは終電を逃してしまった。
涼しい顔でそんなことを言う圭吾くんに、私は「どうしよう」と頭を悩ませる。
― 別の場所って……。
終電後のこの時間から朝まで過ごせる場所について、頭の中で考える。
でも、そもそも、いくら今夜は浩平が家に帰ってこないとはいえ、圭吾くんと一夜を明かすのはマズイんじゃないだろうか。
今日は、お互いにこれまで話してこなかったことを打ち明けあって、今まで以上に距離が縮まったけれど。
そう、このまま朝まで歌ったり、おしゃべりしたりしながら時間を過ごすのも悪くないなと、年甲斐もなく思うくらいに――。
「なんか今日は、麻由さんと色々なこと話せた気がするし。僕はせっかくだから、もっと話したい気分なんですけど」
私が考えていたことと同じことを、彼が言い出すので驚いた。
見ると、圭吾くんがとても優しい眼差しで、私を見つめている。その瞳に、思わずキュンとした。
― こんな顔で見つめられたら…一緒にいたくなっちゃうんですけど。
半分開き直るようにして、「ここでオルカラしちゃおっか」と言いかけた瞬間。
私は、“あること”を思い出したのだ。
圭吾と一夜を過ごすか迷う麻由が、思い出した“あること”とは?
「ごめん私、明日の予定思い出しちゃった…帰らなきゃ」
「予定?明日の朝、早いんですか?」
引き留めちゃってすみません、と圭吾くんが頭を下げた。それを見て、私はつい口をすべらせてしまう。
「ううん、夜なんだけど。義理の母の誕生日でね、義両親がうちにくるの」
「義理のお母さんの誕生日って。でも麻由さんの旦那さん、今日も浮気相手のところで帰ってこないんでしょう?そんな人の親のために、麻由さんが頑張る必要なくないですか?」
圭吾くんは私の目をじっと見つめる。
彼の言うことは、正論だ。私だって、結婚さえしていなければ、圭吾くんと同じ考えを持っていただろう。でも…。
― 浮気してる浩平のことは許せないけど。だからといって明日をドタキャンしたら、なんだか自分が許せなくなりそう…。
もしかしたら、これはただの意地なのかもしれない。
浩平からどんなに理不尽な仕打ちを受けようと、私はこんなにもきちんと、“妻”として“嫁”としての役割を果たしているんですよ、と。
誰かに、堂々と主張していたいのかもしれない。浩平に、義母に――あるいは、自分に。
けれど、それをうまく説明できる気がしなくて、私はモゴモゴと言い訳をする。
「うーん。でも、夫が浮気してることを義両親は知らないから。いきなりお祝い事をやめるわけにはいかないし」
私の言葉に、圭吾くんは一気にしらけたような表情になる。
「意味わかんないな。そのリクツ」
彼の冷たい表情を目にするのは初めてのことで、私は内心あわてた。
「圭吾くんも一緒にタクシー乗る?三鷹まで帰るなら、私が持つよ」
「いや、別にいいです。僕はここで朝まで過ごしますから」
「…そっか。ごめんね、じゃあ私は先に行くね」
1万円札を置いて、足早に部屋を出る。
靖国通りに出て、タクシーを拾った。
タクシーに乗った瞬間、デートの余韻に浸る余裕もなく、私は頭の中で、やるべきことを高速でリストアップし始める。
― 明日は、早起きして家じゅうを片付けて、食事の準備をして。それから、プレゼントも買いに行かないと。三鷹や吉祥寺で買うわけにもいかないし…。
義母の来訪
「あらぁ!悪いわねえ、こんなに準備してもらっちゃって」
ローストビーフにクリームシチュー、カニクリームコロッケとミックスピザ。
相変わらず子どもが好きそうなメニューばかりを並べたが、義両親はニコニコとご機嫌だ。私は張り付けたような笑顔を浮かべながら、なんとか準備が間に合ったことに心底安堵していた。
「おふくろはホント、麻由のつくる料理が好きだなあ」
16時ごろにワイン1本だけを持って帰宅した浩平も、義両親の横で得意げに微笑んでいる。
食事の準備と掃除が終わった部屋を見て、「おう、サンキュー」とだけ言うのだから、怒りを通り越して呆れる。
「麻由さん、なんだか痩せた?食事もあまり進んでないようだし」
不意に、笑顔だった義母が心配そうな顔で私を見つめてくる。
たしかに、私は食事にあまり手を付けていなかった。実際、浩平の浮気に悩まされるようになってから、なんとなく家では食が進まなくなっている。
浩平が呑気に「そうかな?」と言うと、義母は彼をギロリと睨む。
「浩ちゃん、あんた大丈夫?麻由さんのこと、困らせたりしてない?」
急に働く義母の第六感?浩平の反応は…
「ちゃ、ちゃんとやっているよ。ママってばどうしたの、いきなり」
浩平はあわてたのか、私の前では決して口にしない“ママ”というワードを漏らしてしまっている。その様子に、私はつい吹き出してしまった。
「お義母さん、お気遣いありがとうございます。料理の間に味見してたから、お腹がいっぱいなんです」
「そうなの?ならいいけど…」と首を傾げている義母の横で、浩平はほっと安心したような表情を見せていた。
◆
3週間後。
ある日曜日。
スーパーへ食料の買い出しに出かけた後、私は家に着いて、なんとなく時間を持て余していた。
― ネイルでも塗り直そうかな。
ドレッサーの引き出しを開けて、Diorのポリッシュをいくつか取り出した。静かな空間で、カチャカチャと蓋を開ける音が、やけに大きく聞こえる。
義母の誕生日会以来、浩平は何かを感じたのか、外泊の回数は落ちた。
しかし相変わらず土日は留守がちで、毎週「接待ゴルフ」という言い訳を使って、ゴルフバッグを手に外へ出ていく。昨日の朝も、ちょうどそんなふうにして、浮かれた表情で出かけて行った。
最初こそ、彼の浮気につらい・苦しいという感情で悩まされていたけれど、最近ではだんだんと無感情になってきている。
浮気をやめてくれたら嬉しいような気はする。ただ、逆に急に誠実な態度に戻られても、どう接していいかわからない。複雑な感情の中で、私は考えることに疲れ、とりあえず問題を放置していた。
― 圭吾くんからも、あれから連絡ないな。
カラオケでの一件以来、圭吾くんとは一切連絡を取っていない。
あの日、私はたしかに「圭吾くんとこのまま朝までいたい」という感情になっていた。彼の方もきっとそうだったのだろう。
それを無下にしてしまったことで、彼のプライドが傷ついたのか、興味がなくなったのか…。いずれにせよ、もう私と関わりたくないと思ったのだろう。
胸がチクリと痛んだ瞬間、不意に傍らに置いていたスマホが振動し始めた。
見ると、圭吾くんからの着信だった。
― ウソ…!電話!?
あわててスマホを手に取る。震える手で、応答ボタンを押した。
「麻由さん、こんにちは。しばらくぶりですけど…元気でしたか?」
聞こえてきたのは、圭吾くんの声だった。
「もしかしたら亜美かもしれない」とうっすら警戒していた私はなんだか安心して、スピーカーをONにし、ネイルを塗りながら返事をする。
「うん、私は元気だよ。圭吾くんも元気にしてた?この前はごめんね、なんかバタバタと帰っちゃって」
「いや、全然いいですよ。むしろ僕の方も、なんか大人げない態度ですみませんでした。義理のお母さんの誕生日会、うまくいきました?」
はじめはぎこちない雰囲気だったけれど…少しずつ以前の調子を取り戻して、私たちはとりとめのないことを話し合った。
お互いに好きなお笑い芸人のYouTube動画の話や、圭吾くんが今度行く予定の夏フェスのラインナップ。西新宿に最近できたカレー屋さんについてとか…本当に、他愛のない話だ。
「じゃあ麻由さん、今度そこのカレー屋行きましょうよ。スープカレーが本当においしかったんで、麻由さんにもぜひ食べてほしいんです」
「いいね、行こう行こう。夏だからこそ、カレーが食べたくなるよね」
そうして、私たちはLINEで予定を合わせることに決めて、電話を切った。
「…カレーかぁ。楽しみ!」
つい口元がゆるみ、1人でつぶやく。
投げやりに色を選んで塗っていたネイルも、せっかくだから少しかわいいデザインにしたくなってくる。
塗ったばかりだけど、ネイルサロンに行ってもっとかわいくしてもらおうかな――少し浮かれて、そんなことを考え始めた。
その時だった。
背後で「バタン」と、大きな音がする。
心臓が止まりそうなほど驚いた。
反射的に振り向くと――
「麻由。今の誰だよ。誰と電話してたんだよ」
私は息を呑んだ。
ウォークインクローゼットの中から、浩平が現れたのだった。
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圭吾との電話を、浩平に聞かれてしまった麻由。浩平は怒りのあまり…