自由気ままなバツイチ独身生活を楽しんでいた滝口(38)。

しかし、離婚した妻との間にできた小6の娘・エレンを引き取ることになり、生活が一変……。

これは東京に住む男が、男としての「第二の人生」を見つめ直す奮闘記である―。

◆これまでのあらすじ

ママ友・沙織からの頻繁な食事の差し入れに辟易していた滝口。差し入れを断る口実が欲しかった。ある時、伝説の家政婦・ミカ子をSNSで見つけ、連絡を取ったところ…。

▶前回:「コーヒーでも飲んでく?」付き合っていない女を家に呼ぶ男の本音とは




Vol.8 ママ友からのお誘い


家政婦・ミカ子がやって来た翌日。

「実は、家政婦さんに来てもらうことにしたんですよ。なので、夕飯差し入れはもう大丈夫ですよ」

塾の迎えの際にすれ違った沙織に、滝口はさりげなく釘を刺した。

「あの〜、やっぱり本当にご迷惑だったんですね…」

沙織はシュンとした様子だ。本心を悟られないように滝口は、慌てて取り繕う。

「そんなことないですよ。エレンを引き取った時から、家政婦を探していたんですよ」

すると、沙織の表情がパッと明るくなる。

「じゃあ、食事の心配もなくなったし、塾に行ってる間、たまには大人だけで飲みにでも行きませんか?」

― えっ、突然飲みの誘い?これは、どう答えるのが正解なんだ?

「そ、そうですね…」

滝口が答えに窮していると、背後から「パパ」と呼ぶエレンの声がした。

― た、助かった…。

「おかえり、エレン。どうだった?」

沙織との会話を断ち切るように、エレンの方を振り返る。

「算数の宿題が結構難しいから、明日ミカ子さんに聞いてもいい?」

「ああ、いいよ。ミカ子さんならきっとわかるね」

先日、「頭の良くなるチーズケーキ」を持参したミカ子は、エレンのノートに“分度器を用いずケーキを3等分する方法”を丁寧に解説した。

そして、ミカ子の強烈なキャラも手伝って、あっという間にエレンを手懐けてしまったのだ。

彼女が帰った後、エレンと2人「ミカ子って何者?」という話で大盛り上がりしたのは、言うまでもない。

「ミカ子さんって、もしかしたら家政婦さんですか?」

沙織が滝口に聞くと、横からエレンが「そうだよ」と即答する。

「息子3人を東大、京大に入れている方なんです。いろいろお任せできて安心です」

滝口が補足すると「そうですか…」と、沙織は残念そうな顔をした。


沙織からの飲みの誘いに、どう返すか悩んだ滝口は・・・


家政婦ミカ子との生活が始まる


「ミカ子さん、今日は何作ってるの?」

土曜日で学校が休みのエレンは、料理をしているミカ子に興味津々だ。

「ロールキャベツとかぼちゃのポタージュ。そして、冷蔵庫にはサラダが2種類。あと、シナモンロールを発酵させている最中です。

今作っているのは、サーモンのパイよ」




「お魚のパイ?」

エレンが聞くと、ミカ子のメガネの奥の瞳がキラリと光った。

「成績が上がるかもしれないパイなの」

エレンが「あ、例のやつ始まる」という顔をした。

「このパイ生地は、間にバターを挟んで伸ばすの。こうやって2つ折りにして、その次に3つ折りにして…そうするとパイ生地は、何層になるかしら?」

エレンはノートを持ってきて、真剣に考えている。

「グルテンができる理由と一緒に答えてね、これ、麻布中学の理科で出たことあるのよ。オホホホ…」

ミカ子の息子の1人は、麻布中学出身だ。10数年前とはいえ、彼女は中学受験事情に詳しい。

「いけない。私、これから塾だから、答えはミカ子さんにLINEしてもいい?」

エレンが聞くと「いいわよぉ〜」とミカ子が即答する。

かなり癖のある人柄のようだが、料理はなんでも手作りしているし、掃除も完璧。その上娘の勉強も見てくれるとなると、滝口にとってミカ子は最高の家政婦だ。

「エレンちゃん、水筒持ってね」

ミカ子が保冷マグに冷たいほうじ茶を注ぎ、エレンに手渡した。

「お父様も、お茶飲まれます?」

ソファに座り、2人のやりとりを眺めていた滝口に、ミカ子が声をかける。

「ええ、いただきます」

エレンの「いってきます」と声がしたかと思うと、玄関のドアが閉まった。

「娘の勉強まで気にかけていただいて、ありがとうございます」

滝口は、ミカ子に改めてお礼を述べた。

「息子たちの受験を思い出して楽しいです。気になさらないで」

ミカ子からすると、男1人で娘を育てながらの中学受験は、相当大変に見えるようだ。

「“独身貴族”から“イクメン”に華麗なる転身をされたんだもの。そりゃ大変ですよね〜。お父様、おモテになるでしょうに…」

意味深な笑みを浮かべるミカ子。

「いや、モテはしないのですが…」

ここまで言った時に、滝口はふと沙織のことを相談してみようという気になった。あくまで、男女間の話というよりは、同じ学校の保護者としてどう対処すべきかという相談だ。

「ミカ子さんに、ご意見を伺いたいのですが…」

滝口はエレンの同級生の保護者から「飲み」の誘いを受けていることや、時々食事を差し入れにやってくることを話してみた。

すると、ミカ子は“それ以外答えはない”とでも言うように、きっぱりと言った。

「毅然とした態度でお断りすべきよ、お父様」

断りにくいなら、娘が塾に行っている間に、親だけ飲むなんてできない、とでも言うべきだと、ミカ子は言った。

「恋愛が悪いとは申しません。中学受験は親と子の二人三脚。エレンちゃんが勉強している時間は、お父様も同じように過去問を調べたり、学校を調べたりするべきです」

「お、おっしゃるとおりです…」

ぐうの音も出ない滝口。

「子ども絡みの関係なので、揉めたくないというお気持ちはわかりますが、卒業すればただの他人。それにお父様…このままですと」

ミカ子は、滝口を正面から見据えて言った。

「エレンちゃん、間違いなく落ちますよ」

ミカ子の口から出た想定外の言葉に、滝口は唖然としたまま何も返せずにいた。


滝口は誘いを断る気だが、沙織の本心は・・・?


西尾沙織の本心


― やっぱり、滝口さんって素敵…。

ベッドに入る前、辛口の赤ワインに、1粒のチョコレートを添え、沙織はホッと一息つく。

若い頃からお酒を飲むことが好きで、学生の頃はバーでアルバイトをしていたこともあった。

娘の咲希が生まれてからは、外で飲む機会も滅多にない。1日の終わりに、こうして1人グラスを傾けるのが、いつからか沙織の習慣になった。

― 滝口さんと、一度飲んでみたい。

いつからこんなことを思うようになったのだろう。

10年前に、夫と離婚して以来、誰とも恋愛することなく、必死で娘を育ててきた。

なのに、ここ最近、上品で洗練された滝口という男の残像が彼女の脳裏から消えないのだ。

元夫は、滝口とは正反対の“ギラギラとした営業マンタイプの男”だった。

彼とは、大学卒業後、大手損保に勤めていた際、同期に誘われて参加した食事会で知り合った。当時は、実直で裏表のないおおらかさに惹かれた。

2年ほど付き合って、27歳の時に授かり婚をした。

育休を経て、仕事に復帰したのだが、その頃からだ。夫とぎくしゃくするようになったのは。

体育会のアメフト部出身の夫は、妻は自分の人生のマネージャー的存在で、家にいて子育てと家事に専念してほしいという気持ちが強いタイプだった。

また、後輩や取引先に対して面倒見がよく、娘が生まれてからも飲みの付き合いや休日のゴルフが減らなかった。

完全にワンオペ状態だった。

「私もフルタイムで働いているから、せめて、土日は家にいて、咲希の面倒をみてほしいの」

度々協力を求める沙織に、夫は耳を貸そうとはしなかった。




「だったら沙織が仕事を辞めればいいじゃん。それが嫌なら、経堂の俺の実家を二世帯に建て替えて、親に面倒みてもらうしかないんじゃない?」

― この人、自分では何もする気ないんだわ…。

後輩がやりきれない仕事を肩代わりしたり、同僚が進んで手を挙げないゴルフ接待を自ら請け負ったりするのは、ただ単に外面がいいから。

自分が評価されることのない「子育て」は、彼の人生の中でのプライオリティーは低いのだと気づいたころには、すっかり彼への愛は消失していた。

それでも、娘のために離婚だけは避けたいと思っていたのだが。

ある日のこと。

「転勤になった。福島に」

仕事から帰ってくるや不機嫌そうな顔で言われ、沙織は絶句した。

夫の顔色から、栄転でないことは確かだ。

― 家庭は放ったらかしのうえに、仕事もできないなんて…。

「私、咲希と2人で東京に残るわね。仕事あるし」

夫と目を合わせることなく、自分でも驚くほど冷たく言い放った。

「一緒に付いてくるとは言わないんだな…」

「言えないわよ。お互いさまよ」



しばらく沈黙した後、沙織は胸に支えていた不満をすべて夫にぶちまけた。

「あなた、覚えてる?私、育児の協力を何度も求めたわよね?でも何も手を貸してくれなかったじゃない」

フルタイムで仕事をし、咲希の保育園の送り迎え、お風呂、寝かしつけ、すべて沙織が1人でどうにかこなしてきた。そのうえ、遅く帰ってきた夫に食事の準備をし、後片付けをし…。

揚げ句の果てには疲れてベッドに入った後、当たり前のように沙織の体に手を伸ばしてくる夫。

― 夫さえいなければ、どんなに毎日が楽になるだろう。

ふと気がつくと、夫のいない毎日を想像するようになっていた。そんな時、下りた辞令は、沙織にとって青天の霹靂。

願ってもないチャンスだったのだ。

夫が福島に単身赴任して半年ほど経った頃、夫から離婚の意思を告げられた。断る理由もないし、寂しいと思う気持ちもなかった。

沙織はチョコレートを口の中でゆっくりと転がし、ほろ苦さの中にゆらゆらと広がる甘みを楽しんだ。

今さら誰かと結婚したいなんて、沙織は思っていない。

娘と2人の生活を維持できるだけの稼ぎがあるし、何より仕事が好きだ。

しかし、娘と2人だけで暮らし、早10年。40歳を前に「もう一度恋愛をしてみたい」と沙織は思うようになった。

― 昨日は話が途中になっちゃったけど、滝口さん飲みに行ってくれるかしら?

沙織はグラスを置き、LINEのトーク画面を手繰り始めた。

▶前回:「コーヒーでも飲んでく?」付き合っていない女を家に呼ぶ男の本音とは

▶1話目はこちら:浮気がバレて離婚した男。6年ぶりに元妻から電話があったので出てみたら…

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