47歳のシンパパが元妻への怒りを解消できた訳

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離婚から7年を経て、元妻への怒りを解消できたその訳は……(写真:ペイレスイメージズ1/PIXTA)

「けんか別れした彼女から、別れて4カ月後に突然『話がある』とメールがありました。あなたの親に話がしたいとのことだったため、母に彼女の話を聞いてもらい、母を介して妊娠を知らされました。すでに7カ月。彼女は、私が育てようと考えている、と」

多くの男性なら、ここは共感し妥協するところなのかもしれない。「本当に俺の子なのか?」と、疑うところから始める男性がいてもおかしくない状況だ。しかし、安藤一浩さん(47歳)は、こう即答した。

「授かった命を大事に、僕が育てたいです」

これからの人生は子どもに命を注ぐ

当時、一浩さんは40歳にもうすぐなるところ。件の彼女と付き合う前に婚姻歴があり、その結婚は相手の精神的な課題が原因で、相手の親に、親元に連れ戻される形で別れさせられた。


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「精神障害を抱えている人で、僕が仕事のためにそばを離れることすら苦痛になるという状態でした」

離婚し、1年後彼女と付き合い始めた。結婚前より古くからの音楽仲間で、いつも黒色の服を着ている、6歳年下のちょっと風変わりな女の子。離婚後再会し音楽仲間を超え、人生観を話し合ううち男女の関係になった。

結婚することになり、同棲する予定で部屋を借りた。借りた部屋に入居する直前、彼女は人が変わったかのように、突然意見を覆し、彼女から別れを告げられたという経緯がある。

前の結婚では子どもができなかった。妻がいて、子どもがいる幸せな家庭像を一浩さんは描き、夢を抱いていた。再び結婚し子が授かるといいな、そう思っていたが彼女と別れることで夢は現実にならないと諦めた矢先の妊娠の知らせ。驚きよりもむしろうれしさが勝ったと、一浩さんは言う。

一浩さんとしては、一方的に別れを告げられただけで、嫌いで別れたわけではない。だから、子どものことを優先的に考え、子どもには父母がともに必要だから、復縁を呼びかけた。彼女は拒み「私は育てられないので、あなたが育ててください」と言った。それならば仕方がない。自分自身で何としても生まれて来る子どもを育てよう。一浩さんは親になる覚悟を固めた。

「そのとき決心しましたね。自分のこれからの人生は子どもに命を注ごう、と。子ども最優先、仕事は最小限にして、自分の好きなことや趣味も捨てて、子どものために生きていく選択を僕はしました」

こうもすんなり父性が湧いてきた一浩さんが不思議だ。ふっくらした丸顔で不思議な安心感がある一浩さんは、昔から、ちょっと変わっている女の子に好かれてきた。もともと、弱い者を守りたくなる気質の持ち主なのだろうか。

子どもを育てやすい環境や社会資源のある都市に引っ越し、ベビーグッズをそろえ、出産を待った。

「出産予定日の1カ月前だった。彼女から突如メールが来て『本当にあなたは1人で育てられるのですか? 私も育てたい……』と。連絡をとり、子どもには父母がそろっていたほうがいいと話し合い、出産予定日1週間前に籍を入れました。でも、その結婚は2カ月も保ちませんでした」

「いのちの電話」を介して知った妻の苦悩

出産後、彼女は育休をとらず、産後4週間での復職を予定していた。復職1日目、彼女は青い顔で帰ってくると、「やっぱり私に、この子は育てられない」と言った。そして、自室に引きこもった。

「どこかに電話をかけている気配はしていました。でも、それがどこなのかはわからなかった」

翌日、彼女は「具合が悪い」と職場を休んだ。と、まだ午前9時にもならないうちに、家に保健師が訪ねてきた。

「僕が娘を抱いてあやしながら玄関に出たら、すごい形相で『奥さまは?』と。『奥で寝ていますよ』と言ったらその部屋に入っていき、30〜40分ほど話していたかと思ったら、彼女と保健師の2人でバタバタッと出ていってしまいました」

一浩さんは置かれた状況が理解できず、保健センターに問い合わせをした。そのときはっきりとした説明がなく、夕方になってようやく事情が知らされた。

彼女が昨晩、電話をかけた先は「いのちの電話」。彼女の様子がおかしいので「いのちの電話」を介し自治体の保健センターに連絡が入り、保健師が家庭訪問をした。保健師は、まずは児童虐待を疑っていた。しかし訪ねてみたら、子どもは父親にあやされてニコニコしている。それで母親である彼女と話をしたところ、精神科受診の必要があると判断。急いで病院に連れていったとのことだった。

育児ノイローゼだったのか。わからない。いずれにしろ、彼女に娘を育てるつもりはなさそうだった。実際、彼女は特別養子縁組について調べ、娘をそこに託そうとしていた。だが自分は子を育てたくないわけではない。「僕が育てます」と言ったときの覚悟を顧みて、一浩さんはあらためて娘を育てあげる決心を固めた。

「二転三転する彼女の気持ちに振り回され、子どものことを大事に思っているのか疑問で、当時は相当、怒りがありました」

一浩さんを親権者として協議離婚が成立。彼女は「育てることに関わらない、養育費は払わない」と言い、一浩さんは受け入れた。そして「出張の多い今の仕事では、男手ひとつで娘を育てるのは無理だ」と考え、住んでいた地方から東京郊外の実家に帰り、自分の両親に子育て支援を受けながら生活することにした。

勤めていた会社は退職。以前とはまったく畑違いの福祉分野の仕事に就くことにし、訓練施設が用意した託児所に子どもを預け介護職員初任者研修資格を取得した。

娘の人生にとって大事な「お母さんに会う」こと

それから7年経ち、娘は小学1年生になった。コロナ禍、入学時期が春から遅れて大変だった。現在は赤いランドセルを背負い、元気よく小学校に通っている。

7年間、娘と毎日、生活を楽しんできた。仕事に出ている平日は祖父母や保育所や託児施設の世話になることも多かったが、休日はほとんど娘に捧げた。旅行にもよく出かけた。泊まりがけ、レストランで食事をするほか、公園に行くなどお金はかけなくても、毎日が楽しい。娘は大病なく天真爛漫にすくすくと育った。

一方で、一浩さんはずっと彼女=娘の母親のことを考え続けていた。

娘を会わせたいかと聞かれれば、複雑な気持ちになる。しかし、娘の人生の中でそれはとても大事なことだと感じる。

「それで、娘に『お母さんに会いに行こう?』と呼びかけています。娘は『お母さんの顔がわからない。お母さんのところに、私の好きなおもちゃがあるかもわからない。だから、まだ会いに行きたくない』と言いました。0歳1カ月のときに別れた母親は小学1年生の子どもにとって、知らない大人なんでしょうね」

先日、一浩さんは、養育費を求めて調停を起こした。支払わないという母親の意見どおりにした養育費だが、それは親が決めることではなく子の権利であり、要求する必要があると思い直したためだ。もし、このまま一生会わずにいたとしても、養育費の支払いは別れて暮らす母親が子を思いやる気持ちを忘れていない証しであり、それは娘の心の支えになるだろう。

調停の場で、彼女は「養育費は払う」と認めた。それだけでも一浩さんの心は慰められたが、何よりよかったのは長年の疑念が晴れたことだった。

「彼女は養育費を払うけれども、裁判所が提示した額より少し下げてくれと申し出てきました。その理由として、実は自分には精神障害がある、と告白してきたんです。『いまは仕事に就けているけれども、それは契約期間があり、その先の見通しがたっていない。

職場や社会でコミュニケーションがうまくいかず、悩んで医療機関に相談したら精神障害があることがわかった。契約期間後の仕事に就けない可能性もある』とのことでした。障害者手帳も持っており、それを提示してきました」

一浩さんは、深く納得した。

「福祉の仕事に就いてから、さまざまな家族問題に向き合ううちに、障害ゆえの生きづらさを抱える人を理解しました。だから、彼女もそうだったのではないか、といつしか考えるようになったのです。

障害者である情報を開示してきたことは思いがけないことではありましたが、そのことから彼女の課題を納得でき、彼女への怒りがすうーっと溶けていきました」

相手を理解することで溶けていく「怒り」

この7年間は、彼女にとっても、決して平穏ではなかったのだろう。「なぜ普通に生きられない?」「誰もがしている子育てが、なぜこんなに苦しいの?」と、自分自身の生きづらさに悩み、ようやく受診に行き着いたのだろうと、一浩さんは推測する。

「いま思い返せば、こだわりが強い人でした。人と長い時間一緒にいることが非常にストレスになるようでもありました。夫でも、たとえ子どもであっても、誰かと暮らすのは彼女には難しいことだったのかもしれませんね」

それでも彼女は、娘にとって唯一無二の母親だ。その存在を消すつもりはない。いま彼女に望むことは、「姿だけでも見せてあげてほしい」ということだ。

一浩さんは、彼女と別れてからも毎年、3人で一瞬暮らした地方の子どもまつりに娘を連れて出かけている。生まれたての娘を抱いて、唯一、家族3人で見た思い出がある。

「例えば年に1度だけ会える、家族3人で集まってそれぞれの存在や成長を確認し合う、そんな家族があってもいいのではないかと考えています」