「マイ・キューティー」

13歳上の夫は、美しい妻のことを、そう呼んでいた。

タワマン最上階の自宅、使い放題のブラックカードに際限のないプレゼント…。

溺愛され、何不自由ない生活を保障されたセレブ妻ライフ。

だが、夫の“裏切り”で人生は一変。

妻は、再起をかけて立ち上がるが…?

◆これまでのあらすじ

夫・英治の浮気発覚後、離婚を決意して家を飛び出した里香。だが、仕事も住む場所もない。困り果てた里香は…?

▶前回:「僕と別れたら、人生終わりだろ?」妻を裏切った夫が、離婚話の最中に見せた冷酷な本性




「…こ、これだけ!?」

ATM画面に映し出された金額に、里香は大きく目を見開いた。

― いち、じゅう、ひゃく、せん、まん…。

声に出さず、心の中でもう一度数えてみる。が、結果は同じだった。

128万円。

結婚してからは使うこともなく、タンスの奥底に眠っていた独身時代の貯金。

根拠はないが、200万はあると見積もっていたため、予想以上の少なさに里香は衝撃を受けた。

頭の中でガガガガーンと、ベートーヴェンの運命が鳴り響く。

最低な夫・英治と別居するため家を飛び出してきた手前、彼から与えられているお小遣いやブラックカードを使うつもりはない。

なけなしの貯金を切り崩して生活していくしかないのだ。

「…こんなの、要らないんだから!」

ATMを後にした里香は、メイクポーチから眉毛ハサミを取り出した。過去と、英治と決別するように、ブラックカードにハサミを入れる。

「ああ、すっきりした!」

4つに切ったカードをポイッとゴミ箱に捨てると、妙に爽快な気分だった。

とりあえずATMで下ろした3万円を握りしめ、里香はスタスタと歩き出す。

「…いたたたた」

どうやら靴擦れが悪化し、絆創膏も剥げてしまっている。

足の痛みに耐えかねた里香が足を止めると、目の前は渋谷109の入口だった。

「どうせギャルみたいな格好なんだし、もういいや!」

里香は、ゲームセンターの如く爆音が鳴り響く店内に入ることにした。


困り果てた里香のSOSに駆け付けた友人。慰めてくれるのかと思いきや…?


辛辣な助言


「里香、あんた随分若作りじゃない!?ギャルにでもなるつもり?」

19時過ぎ。

『アルマ』に現れた友人・舞子は、カウンター席に座るなり、里香の全身に無遠慮な視線を向けた。

キャミソールワンピに、先ほど109で購入したペラペラの白いカーディガンと、ウェッジソールサンダル。

10歳以上年下と思しきリアルギャルの店員に、「めちゃ大人っぽくて、オススメですぅ」と勧められたものだ。

ギャル店員には大人っぽくても、やはり30歳の女が着る服ではなかったようだ。

「そんなジロジロ見ないでよ…」

里香がメニューを広げながら忠告すると、舞子は「私、モレッティ」と告げ、さらりと失礼なことを口にした。

「ごめん、あんまりにも安っぽい服だから、びっくりしたの。それさ、オーバー30、いやオーバー25にはキツいでしょ」

友人・舞子は、優しく面倒見もいい。今日も、行く当てもなくさまよっていた里香がSOSを出したところ、こうしてすぐに時間を作ってくれた。

だが、物言いに遠慮がなく、本質をズバリ指摘してしまうため、男性のプライドを傷つけることがよくある。その結果、彼氏いない歴4年、万年婚活中だ。

ビールが到着したところで、舞子はゆっくり口を開く。

「まあ、洋服なんかどうでも良いんだけど。LINEで家を出てきたとは言ってたけど、具体的に何があったのよ?」

「実は…」

里香は、英治の浮気相手がやってきたことや英治の反省しない態度など、昼過ぎからの出来事を洗いざらい話す。

その間舞子は、店の名物である東北の貝を堪能しながら、「うんうん」と話を聞いていた。

「浮気しておいて開き直る男なんて最低でしょ。あんな不誠実な男とは離婚する!それで家を出てきたってわけ」

里香が怒りながら話をまとめると、しばらく黙っていた舞子が、目を大きく開いた。

「里香、ヤバくない?」




もちろん舞子も「そんな男別れて正解だよ」と同意してくれるものだと思っていた里香は、予想外の言葉に狼狽える。

「ヤバい…?」

彼女の様子をうかがいながら尋ねてみると、舞子は運ばれてきた白ワインを一口飲んで続けた。

「だって、住む場所もないし、仕事もないじゃない。どうやって生きていくつもり?」

どストレートな質問に、里香の心臓はドクンと大きく波打つ。

「それは、これから考えるけど…。こうなった以上、私も働くしかないし。仕事見つけて、家もどうにか…」

ごにょごにょ答えると、舞子は「ノープランってこと!?」と、呆れた顔でため息をついた。

「だって仕方ないじゃない。こんなことになるなんて、昨日まで思ってもみなかったんだから。

昼過ぎに浮気相手がやって来て、それからまだ7時間よ?何も決まってなくて当然でしょ!」

痛いところを突かれてバツが悪くなった里香は、筋違いだと分かっていながら、つい言い返してしまう。

そんな里香を、舞子は憐れむように見つめた。

「数日ならうちに泊まってもいい。でも、その後どうするの?厳しいこと言うようだけど、大したキャリアもない30歳が仕事を見つけるって、相当難しいよ」

「私、受付の経験あるし」

里香は、ルックスには自信がある。事実、英治だってこの美貌にメロメロになったのだから。

受付というワードを出すことで、暗に私のルックスなら大丈夫だという意味を含ませた。だが舞子は、そんな里香の思惑を見破ったらしく、反論してきた。

「顔採用なんて、うんと若いうちだけよ?30歳過ぎててルックスに代わる武器もない女なんて、どこの会社も採用しないわ」

里香は、頭の中が真っ白になった。


舞子の正論にタジタジになる里香。辛辣なアドバイスをもとに動き始めるが…?


地に落ちた女


「とりあえず、家をどうにかしなさいよ」

恵比寿から渋谷方面に歩いて数分のところにある舞子のマンション。

里香が沈んだ気分でソファにゴロンと寝ていると、舞子はノートパソコンを運んできた。

「里香みたいな専業主婦が離婚するって、事務手続も多いしけっこう大変よ?保険証だって、今は英治さんの扶養に入ってるんでしょ。自分で働くなりして、どうにかするしかないわね。

仕事探すにしても、家がないと困るでしょ。今の里香の状況で審査通るところを探すしかないね」

反論の余地のない正論が、次々と放たれる。舞子は本気で心配してくれていて、だからこそキツいことも言うのだろう。

だが今の里香にとっては、具体的な解決策よりも「大変だね」と寄り添ってくれる方がありがたかった。

― 舞子を振った男たちの気持ちがわかるかも…。

里香がぐったりしていると、舞子は何かを察したらしく、突然話題を変えた。

「里香、お風呂でも入ってきたら?家とか仕事とかはまあ、明日にしよう!ね、疲れた身体を癒してきて」

「ありがとう」

バスルームに向かう里香の後ろで、「あー、また言い過ぎちゃった」と、小さくつぶやく舞子の声が聞こえた。




「長い1日だったな」

サンダルウッドの香りが広がる湯船に身を沈めた里香は、目をゆっくりと閉じて、しばしその香りに癒される。

春奈がやってきてから、ずっとたかぶっていた神経が落ち着いていくのが分かった。

「舞子の言う通りなんだよな」

落ち着きを取り戻した里香は、ボソッと独り言をもらす。

英治と離婚すれば、全てを捨てることになる。家も優雅な時間も、何もかも。

それでいいの?と、自問自答してみる。

だが、何度考えてみても、「それでもいいから別れたい」というのが、今の気持ちだった。

浮気されたこともショックだったけれど、それ以上に英治から蔑まれていたことにひどく傷ついた。

「言うことを聞け」と、まるで彼の所有物であるかのように扱われ、大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、人間としての尊厳を踏みにじられたような気分になった。

英治が薄ら笑いを浮かべる姿を思い出すだけで、虫唾が走る。

「いつか絶対に見返してやる!」

里香は、拳をギュッと握りしめた。



翌日。

舞子のアドバイス通り、里香は家探しに来ていた。

女子大時代に住んでいた三軒茶屋。交通網も充実しているし、何より住んでいたことがあるから土地勘もある。

駅前の不動産屋に張り出されたチラシを眺めていると、50歳過ぎと思しき白髪混じりの男性が店内から顔を出した。

「どういった物件をお探しですか?」

「家賃は70,000円くらいまで、初期費用は抑えたくて。あ、審査も通りやすいところで…。あと、1日でも早く住みたいんですけど」

とりあえず条件を五月雨式に伝えると、男性は少し顔を歪めたが、すぐににこやかな表情に戻った。

「中で詳しくお話をお伺いしますよ。紹介可能な物件もございますし」

男性に促されるまま店内に入った里香だが、男性が持ってきた物件に絶句した。

― なに、このうさぎ小屋みたいな部屋!?

かなり年季の入った部屋は、極狭でオートロックもない。おまけに1階だ。

六本木のタワーマンション最上階から急降下、文字通り地に落ちた。

「あの、もう少しマシな物件はないんですか?」

ぽろりと本音を漏らすと、男性が苦々しく笑った。

「三軒茶屋は人気ですのでね、そうですねえ、世田谷線沿い、山下駅はいかがですか?こちらの物件はオートロックもございます」

男性が持ってきたのは、築30年、18平米の古いマンション。キッチンのコンロは蚊取り線香のようなグルグル巻きで、初めて見るものだった。

だが、敷金礼金もゼロだし、審査は厳しくなく、準備が整えば即日入居できるらしい。

「分かりました、ここにします」

これ以上探しても同じような物件しかない。そう判断した里香は、内覧もせずに申込をすることにした。

そして、5日後。

新たなマイホームに到着した里香は、愕然としたのだった。

▶前回:「僕と別れたら、人生終わりだろ?」妻を裏切った夫が、離婚話の最中に見せた冷酷な本性

▶1話目はこちら:「噂通り、頭が悪いんですね」突然家に来た夫の浮気相手に挑発された妻は…

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住まいが決まり、就職活動を始めた里香。絶望に打ちひしがれていると、英治から連絡が入り…?