「マイ・キューティー」

13歳上の夫は、美しい妻のことを、そう呼んでいた。

タワマン最上階の自宅、使い放題のブラックカードに際限のないプレゼント…。

溺愛され、何不自由ない生活を保障されたセレブ妻ライフ。

だが、夫の“裏切り”で人生は一変。

妻は、再起をかけて立ち上がるが…?

◆これまでのあらすじ

夫・英治からの寵愛を受けて、優雅な生活を送っていた里香のもとに、英治の浮気相手がやってきた。夫を問い詰めると…。

▶前回:「噂通り、頭が悪いんですね」突然家に来た夫の浮気相手に挑発された妻は…




「こんな家、出て行ってやる!」

里香は、クローゼットから引っ張り出してきたセリーヌのラゲージ ファントムに無我夢中で荷物を詰め込んでいた。

最低限の下着や洋服、化粧水やメイク道具をとにかく投げ入れる。

クローゼットやベッド周辺は、空き巣にでも入られたような荒れ具合だが、そんなことはどうでも良い。

最後にタンスの奥底から自分名義の通帳と印鑑を取り出した里香は、パンパンになったラゲージ ファントムとともに玄関に向かう。

玄関には、真っ赤なピンヒールと、ジムに履いていったばかりのビーチサンダルが出ていた。

どちらも家出向きではない。フラットシューズを探すため、シューズクローゼットを漁っていると、背後から英治の声が聞こえた。

「出て行くなんて、そんな無謀なことはやめなさい。さっきは言い過ぎて悪かった。僕のもとに戻っておいで、マイキューティー」

背後から近づいてきた英治は、ギュッと里香の肩を抱いた。

まるで獲物を捕らえる動物のような強さで、「絶対に逃がさない」と言っているようだ。

「やめて!」

嫌悪感が身体中を駆け巡る。里香は、力一杯英治をはねのけた。

「あんたみたいな最低な男、だいっきらい!それじゃあ、お元気で!」

一秒でも早く出ようと、咄嗟にピンヒールに足を突っ込んだ里香は、ドアを乱暴に閉めて走り出した。


英治の浮気発覚後、家出を決めた里香。2人の間に一体何が…?


開き直る夫


遡ること1時間前。

「安心して、離婚はしないよ」

英治の優しい声が、静まり返った部屋に響いた。

浮気がバレた男とは思えない落ち着きように、里香は呆気にとられる。だが、この期に及んで謝罪するわけでもなく上から目線の発言を繰り広げる夫に、怒りがフツフツと沸いてきた。

「なに開き直ってるのよ。離婚したくないのは、あなたのほうでしょう?」

里香が嫌悪感全開に言い返すと、英治は「そうだ。僕は君を愛している」と、ゆっくりうなずいた。

「じゃあなんで、あんな若いだけが取り柄の安っぽい女と浮気したのよ?」

「ほんとだね。僕もどうかしていた。里香を傷つけるなんて、最低だよな」

英治は異常なまでに落ち着いていて、里香は、なかなか会話の主導権を握れない。

そんな里香を見透かしたように、彼は話し続ける。

「キューティー、悪かった。僕の気持ちは、いつだって君にしかないんだよ。

どうしたら許してくれるかな。君には少し早いと思っていたけれど、ヒマラヤバーキンなんかどうだろう?」

― ヒマラヤバーキン!?

里香の頭に、美しい白とベージュのグラデーションが思い浮かぶ。まるで芸術作品のような、最高峰バーキン。

…だが、ヒマラヤバーキンはすぐに消え去り、脳内は男女2人がシーツにくるまっている画像に切り替わった。

先ほど頭のおかしい女に見せられた、英治と女のベッド写真。思い出すと、吐き気と怒りがこみ上げてくる。

「そうね、許してあげても…

ってそんなわけないでしょ!?浮気の償いをバーキンにさせるなんて、バーキンに失礼だわ!」

里香は、テーブルに置いてあったアイスコーヒーを一気に流し込む。買ってから時間が経ったコーヒーは、氷が溶けてほぼ水。生温くて美味しくない。

それでも何か喉に入れないとやっていられなかった。

「里香は、怒った顔もかわいいんだね」

一方の英治は、自分のペースを全く崩さない。この状況を楽しんでいるかのようだ。里香は、何とか彼にダメージを与えてやろうと躍起になる。

「あなたとのベッド写真、あの女が嬉しそうに見せてきたわよ。ああ、汚らわしい」

嫌味たっぷりに吐き捨ててやるが、英治は微笑みながら泰然としていている。

「春奈のやつ、悪趣味だな。おじさんの半裸の写真なんて、誰も見たくないよなあ」

暖簾に腕押しとは、このことだろうか。彼はうまい具合に話を逸らし続ける。

― もう限界。

悪びれる風もなく、のらりくらりとかわす英治の態度に耐えきれなくなった里香は、怒りに任せて禁句を口にした。

「私、あなたと離婚したい。今すぐ出て行きます」




「里香、何を言い出したの?」

英治は眉をピクリと動かせ、瞬きひとつせず里香をじっと見つめる。落ち着いた声に変わりないが、声のトーンは明らかに下がった。

― よし、今だ。

ダメージを与えることに成功した里香は反撃に出ようとするが、英治がそれを遮った。

「君みたいに、学歴もキャリアも経済力もない女に何ができるって言うんだ。僕と別れたら、人生終わりだろ?自分から惨めになろうとするなよ」


態度を豹変させた英治。彼の本性が明らかに…!


夫の本性


「今、何て…!?」

里香は、怒りで震えた。

そもそも、この喧嘩の原因は英治の浮気だというのに、反省することもなく、ついには逆ギレ、暴言を吐く始末だ。

安易に離婚を口走った里香も悪いが、だからといってあんなひどいことを言われる筋合いはない。

「言った通りだよ。さっき君は、春奈のことを若いだけが取り柄の女と言ったが、里香、君は顔だけが取り柄だろ。

他に何があるって言うんだ?僕と別れたら何もないくせに」

彼の口から次から次へと発せられる暴言に、里香は憤りと同じくらい悲しみがこみ上げてきた。

きっとこれが、英治の本心なのだろう。

結婚して3年。いつも優しいと思っていた夫が、心の奥底では自分をこんなふうに蔑んでいたのだ。

傷つけられた里香は言い返すのをやめて、代わりに、あることを口にした。

「…出て行きます」

さっきは感情に任せて口走ったが、今回は覚悟の上だ。

「またくだらないことを言って。君は、僕の言うことを聞いていれば良いのに」

大きくため息をついた英治の脇を通り過ぎて、里香はクローゼットに駆け込んだ。




「いたたたた…」

溜池山王駅に到着した里香は、駅構内のドラッグストアに駆け込んだ。

自宅から数百メートル走っただけなのに、カカトの皮がめくれてしまったのだ。

「私、本当にバカだな…」

なぜあの時、咄嗟にピンヒールを履いてしまったのだろうか。

絆創膏を二重に貼ってガードし、パンパンのバッグとともに銀座線のホームに向かって歩き出した。

行く当てなど全くない。とりあえず電車に乗ってみるだけだ。

待つこと2分。

里香は、目の前に到着した電車に乗り込んだ。

乗って初めて、車内の表示から、渋谷行きの電車であることに気づいた。

― 渋谷なんて、何年ぶりだろう。

ぼんやりと考えながら、ふと車窓に映る自分を目にした里香は、ギョッとした。

春奈の奇襲攻撃、英治との大喧嘩ですっかり忘れていたが、ジム帰りだった。ほぼノーメイク。かろうじて描いてあった眉毛も汗で流れ落ちている。

ジムの往復と割り切って着たブルーのキャミワンピースは、申し訳程度の細い紐がついているだけ。

まるで若いギャルがナイトアウトするような服装だ。30歳の女が外をうろつく格好ではない。カーディガンひとつ持ってこなかったことを後悔する。

それでいて足元は、高級ブランドの真っ赤なピンヒール。

― ああ、恥ずかしい…。

里香は、現実から目を逸らしたくてうつむいた。



「だめだ、全然分からない…」

渋谷駅に降り立った里香は、その変貌ぶりに愕然とした。

自分がどこにいるのか、全く分からない。完全に迷ってしまった。そもそも目的地もないから、迷うも何もないのだが。

痛い足に鞭打って歩き続けていた里香は、いつの間にか渋谷川沿いの商業ビルの中に入り込んでいた。

ふと陽気な雰囲気の店の前で足を止める。

気づけば昼食もまだだ。美味しそうなパエリアが運ばれていくのを見た瞬間、お腹が鳴った。

『チリンギート エスクリバ』に入った里香は、パエリアをつつきながら、この後どうするか、考え始めた。

― っていうか、私、貯金いくらあるんだっけ…?

家出してきた以上、英治から渡されている生活費やブラックカードを使うつもりはない。

里香は、バッグに入れてきた通帳を見つめた。

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通帳を見て絶句する里香。家出したものの、窮地に陥った彼女がSOSを出したのは…?