恋に落ちると、理性や常識を失ってしまう。

盲目状態になると、人はときに信じられない行動に出てしまうものなのだ。

だからあなたもどうか、引っ掛かることのないように…。

恋に狂った彼らのトラップに。

▶前回:ダサい女友達を“引き立て役”として見下していたら…。ある食事会で女が受けた、自業自得すぎる仕打ち




「なあ、弥生。今からバーに行かないか」

そう言いながら今にも雨が降り出しそうな灰色の空を、タクシーの窓から見上げる。僕は妻の弥生を誘って、西麻布交差点近くのバーへと向かった。

「西麻布に行くなんて久々かも」

「ああ、久しぶりだ。…僕は、ね」

含みのある言葉がつい、口をついてしまう。

タクシーを降りて路地裏に入ると、僕は住宅地にひっそり佇む白い建物の前で立ち止まった。

「ここだよ」

僕の指さした建物を見て、彼女は一瞬動揺したような表情を見せる。そして「雑誌で見たことあるわ。一度来てみたかったの」と作り笑いを浮かべた。

― よくもそんな、涼しい顔して嘘つけるもんだな。

ここは、弥生が不倫相手と密会していたバーなのだ。結婚5年記念日の今夜。僕は妻に不倫の事実を問いただすつもりでいた。

「いらっしゃいませ」

入店すると、渋い顔のバーテンダーがグラスを拭きながら、ゆっくりと顔を上げた。客は僕たちだけのようだ。僕は平静を装い、弥生の好きなマティーニを2つオーダーする。

「マティーニ、好きだったよな」

「…ねぇあの子、ちゃんといい子にしてるかしら」

僕の言葉を無視し、実家に預けてきた5歳になる娘のことを心配しながら、妻はスマホを見ている。おそらく母と連絡を取っているのだろう。

そのとき30代後半くらいかと思われる、スーツ姿の男が入店してきた。男をチラッと見た弥生は店内を見回し「素敵な店ね」とつぶやく。

― なんだよ、何度も男と来てるくせに。白々しいな。

僕の我慢は、限界に達していた。

「…なぁ弥生。ここ、男と来たことあるだろ?」

そう尋ねると、彼女はうつむいたまま何も喋らなくなった。


夫に不倫を問いただされ、妻が語ったこととは…?


弥生と結婚したのは、5年前のこと。

大手保険会社に勤務し、富裕層向けの資産運用に携わっていた僕は、ある食事会で競合大手の受付嬢をしていた弥生と出会った。

同業で、家柄もステータスも申し分ない“結婚向き”の弥生とは意気投合したのだが…。当時、僕は明日香という女性と付き合っていた。

でも僕は、彼女と結婚することをずっと躊躇していたのだ。

「弥生さん、僕と結婚を前提に付き合ってくれませんか?」

そこで僕は明日香に別れを告げぬまま、弥生と付き合い始めた。そして1年後、元カノに黙ったまま結婚。すぐに娘を授かり、代々木上原にマイホームを構えた。

明日香には、弥生が出産した日にすべてを話した。泣き崩れる彼女に帰りのタクシー代を渡し、連絡先もブロックして、完全に消息を絶ったのである。




僕たちは誰もが羨む、理想の夫婦だったはずだ。だから良妻賢母の弥生が不倫をするなんて、考えたこともなかった。

でもあるとき、ソファの下にバーの名刺が落ちているのを発見してしまったのだ。

「…なんだこれ」

検索してみると、西麻布にある大人の男女が集う隠れ家バーのようだった。

いつも自宅に帰ってくるのが0時を過ぎる僕は、休日以外ほとんど家にいない。だから専業主婦の弥生が平日に何をしているのか、ちっともわからなかった。

― でもそういえば最近、娘を弥生の実家に預けていることが多い気がする。

そこで僕はこっそり、彼女のバッグにGPSタグを忍ばせたのだ。

すると毎週木曜の夜、弥生は例の隠れ家バーへ通っていることがわかった。それだけではない。どうやら新宿のハローワークにも通っているようなのだ。

僕は覚悟を決めて、妻を尾行することにした。

こうして、ある木曜の夜。西麻布交差点近くにあるバーへ、見知らぬ男と入っていく弥生の姿を目撃してしまったのだった。





「ここ、男と来たことあるだろ?」

弥生はしばらく黙り込んだのち、「ええ」と小さく頷いた。

「…不倫してたのか」

「いいえ、してないわ」

「毎週木曜の夜、男と来てただろ!?不倫してないなんて、信じられるわけないんだよ…!」

大きな声が出そうになったが、隣から視線を感じて思わず声をひそめる。

「…いいですねえ、情熱的で。羨ましいです」

それは、先ほど店に入ってきたスーツ姿の男だった。

「あっ、すみません…。お見苦しいところを、失礼しました」

「行こうか」と言って会計を済ませようとする僕を、男が引き止める。

「いえいえ、お気になさらず。客は僕たちだけですし。…僕は5年前に妻と別れたものですから、夫婦喧嘩が羨ましいなあと思ってしまいましてね」

男は余市のロックを飲み干し「もう一杯。この方にもマティーニを」とバーテンダーに声をかける。どうやら酔っているようだ。

「奥さんとは、なぜ…?」

すると弥生が、男に問いかける。

「おい、弥生!そんなこと聞くのは失礼だろ」

「いいんです。むしろ誰かに喋ったほうがラクになりますから。そのマティーニは僕の話を聞いてもらうお礼ということで…」

そう言って男は、ゆっくりと語り始めた。


男の口から飛び出した話は、まさかの内容で…


「妻の不倫が発覚したのは5年前です。彼女の帰宅時間が、0時を過ぎる日がいきなり増えて。

仕事とはいえ毎晩遅いのはおかしいなと思い、妻に尋ねると『好きな人がいるので離婚してほしい』と切り出されたんですよ」

「それは、ツラかったでしょう」

どこかで聞いたような話だ。どの夫婦も、似たような問題を抱えているのだろう。

「『相手は?』と聞いても彼女は口を割らず、僕は自分を責めました。そのとき会社を立ち上げたばかりの僕は、事業を軌道に乗せようと必死で、妻の変化に気づけなかったから」

空気を察してか、バーテンダーが奥の部屋へと消えていく。男は話を続けた。

「不倫相手の男は、妻に『君が離婚したら一緒になろう』と言っていたそうです。その言葉を信じた妻は、僕と離婚した」

「その後は…?」

弥生の言葉に、男は絞り出すようにこう言った。

「妻はその後、精神を病みました。相手から一方的にフラれたんです。彼は二股をしていて、いつの間にか他の女性と結婚していた。気づかないうちに、子どもまで作っていたんですよ?」

「最低だわ」

弥生が吐き捨てるように言ったのと同時に、僕の心臓はバクバクと音を立て始める。

「でも、先日いいことがありました。不倫男の奥様を見つけたのです。奥様は、仕事ばかりで家庭を顧みない夫との生活に絶望していた。

そして僕は奥様と一緒に、そいつを懲らしめようと誓いました。…このバーで」




僕は、血の気がサーッと引いていくのを感じた。

― まさか。弥生が密会していた男は、こいつだったのか?

妻が僕の目をジッと見つめてくる。その目には哀れみと悲しみ、そして怒りが込められているようにも見えた。

「あのさ。言ってなかったけど、私マティーニ嫌いなの。誰と勘違いしてるの?」

僕を蔑むような目で見ている弥生の横で、男がこんなことを囁いてきた。

「…僕の妻の名前は、明日香です。彼女は、マティーニが好きでした」

そう言っておもむろに、1枚の写真を差し出してくる。それは僕が明日香の肩を引き寄せ、マティーニを飲んでいる写真だった。

「どういうつもりだ?こんな昔のことを引っ張り出して。…おい弥生、帰るぞ!」

強引に妻の手を取ったが、その手を彼女は強く振り払ってきた。その拍子に落ちたマティーニのグラスが粉々に砕け散る。

「弥生、どうしたんだよ!?」

その様子を、男が楽しそうに見つめている。

「まだ気づかないのですか?弥生さんも娘さんも、彼女のお母様も。あなたにはとっくに愛想を尽かしていますよ。…ああ、グラスはお気になさらずに。ここは僕の経営するバーですから」




「離婚しましょう」

弥生が冷たく言い放つ。男は床に落ちたオリーブを拾うと、僕を嬉しそうな目で見つめてこう言った。

「もう一杯いかがですか?明日香が好きだった、特製のマティーニがあるんです」

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