結婚したら、“夫以外の人”に一生ときめいちゃいけないの?

優しい夫と、何不自由ない暮らしを手に入れて、“良き妻”でいようと心がけてきた。

それなのに・・・。

私は一体いつから、“妻であること“に息苦しさを感じるようになったんだろう。




幸福な妻


「それじゃ、麻由。俺はもう行くね。今日も残業で遅くなるから、先に寝てていいよ」

「わかった。気をつけて、いってらっしゃい」

月曜の朝。

大手町の総合商社・財務部で働く夫、浩平の朝は早い。

私は、29歳の時に5歳上の彼と結婚した。それから3年が経つが、彼は一貫して忙しそうにしている。

今日も朝から会議があるらしく、ピカピカに磨き上げられたオールデンの革靴を履いて、7時前に家を出ていった。

「さて…浩平も出かけたし、お掃除でもしようかな」

私たちは、浩平の父が所有している三鷹にあるマンションに住んでいる。住環境としては申し分ないが、浩平の会社まではやや遠い。

新宿にある大手損害保険会社で働く私は、彼より遅く家を出ても間に合う。だから、彼が出かけた後に、一通りの家事を済ませるのが日課だ。

浩平に出した朝食の食器を下げてキッチンを片付け、洗濯機を回して簡単に部屋を掃除していく。

― ああ、幸せ。

私は、出社前に家を整えるこの時間が、たまらなく好きだ。

自分が「社会人としてしっかりと働きながら、夫をキチンと支えている妻」なのだと思えてくる。そうすると、胸の内がなんともいえない充実感で満たされるのだ。

「そろそろ行かなくちゃ!出社前に“彼”の顔も見たいし…」

時計を見ると、いつのまにか8時を回っていた。

週初めの今日は、1週間の労働生活に向けて心も体もチャージしたい。

だから、出社前にどうしても“彼”に会いたいのだ。

私は、シャネルのローズ色のリップを唇に塗り、急いで家を出た。


麻由が朝からどうしても会いたい“彼”とは?


推しの男


「いらっしゃいませ。あ、麻由さん!いつもありがとうございます!」

「おはよう、圭吾くん。今日も早番なのね」

新宿南口・サザンテラスにあるコーヒーショップ。

この付近のビルで働く私は、ほとんど毎日のようにこのお店に立ち寄り、コーヒーを購入する。出勤の前後やお昼休み、外出の帰りなど…我ながら、かなりのヘビーユーザーだと思う。

私は昔から、コーヒーが好きだ。

集中したいときは深煎りの豆を、逆にリラックスしたいときはすっきりした飲み口のものを。

そんなふうに気分に合わせて選んだコーヒーを体に入れると、自然と気持ちが前向きになる。

「麻由さん、今日の豆は何にされますか?おすすめはこのエチオピアなんですが…」

「うーん、そうね。圭吾くんが言うなら、そうしようかな」

「それから、この抹茶のパウンドケーキもおすすめですよ。お仕事の合間とか、夜のおやつにもぜひ!」

「商売上手ねえ。じゃあ、それもお願いします」

けれど…最近は大好きなコーヒー以上に、“圭吾くん”を目当てに、このお店を訪れているところがある。




長くこのお店に通っているが、アルバイトの圭吾くんを見かけるようになったのは、ここ1年ほどのことだ。彼はもともと近隣の店舗で働いていたが、そこが閉店になったので、移ってきたのだという。

見た目は、男性アイドルグループにいそうな、子犬っぽい、優しい顔だ。夫の浩平は、彫りが深く眉毛も濃いキリッとした俳優顔だから、まさに正反対。

それまで私は、浩平のような見た目の男性がタイプなのだと思っていた。けれど、圭吾くんの顔を見た瞬間、本能的にときめいてしまったのだ。それ以来、彼は私の“推しメン”になっているのだが…。

「そういえば、麻由さん。飯山教授、麻由さんたち先輩に会いたがってましたよ。今年度も、OB・OG会を企画しますね」

他のお客さんが並んでいないのをいいことに、圭吾くんが声を落としてプライベートな話をしてくる。私は、少しだけドキドキしながら、「そうなのね」とだけ返事をした。




3ヶ月ほど前、母校である慶應大学、法学部政治学科のゼミのOB・OG会が開催された。

以前は年に1度必ずあったその会も、コロナ禍になりしばらく開催されていなかったので、私も久しぶりの参加となった。

だから、会場の受付を担当していた現役ゼミ生の中に、圭吾くんの姿を見つけたときは、すごく驚いた。

そして圭吾くんも、私と目が合った瞬間、目を丸くする。

「あれ…毎日お店に来てくださる方ですよね?」

「そうです。こんなところでお会いするなんて、びっくりですね」

こんな偶然、あるのだろうか。どぎまぎしながら、なんとか言葉を返して受付を済ませる。

しかし彼のほうは、大して動揺していないように見えた。淡々とした様子で受付リストを確認して、私の名前が記された名札を取り出している。

― そりゃ、そうよね。私は彼のことを勝手に推しているけど、彼からすれば、ただの常連客の1人でしかないよね…。

何かを期待していたわけではないのに、勝手に落ち込んでしまう。そんな自分に気づくと、「夫がいるのに、私ってば何考えてるの?」と、今度は自責の念が芽生える。

そうして悶々としていると、圭吾くんが爽やかな笑顔で私に名札を手渡してきた。

「麻由さん、お店の外でもお会いできて嬉しいです。改めて、よろしくお願いします!」

その時……。

普段、店員としてコーヒーを手渡してくれる時とは、彼の目が少しだけ違っていた。瞳の奥に、一瞬どこか男っぽい輝きを見たような気がしたのだ。

鋭い目に、捉えられた瞬間……私は、しばらくその場を動けなかった。

「この人のことを、もっと知りたい」と本能的に思ってしまったのだ。


圭吾にときめく麻由だが…


とはいえ、OB・OG会の場で、圭吾くんとそれ以上話すことはなかった。

正直言って、彼のことが気になる気持ちはあった。しかし、たくさんのゼミ関係者がいる中で、10歳も年下の現役大学生にガツガツ近寄っていくのは気が引けた。

何よりも、彼のことがいかに気になろうと、私には浩平という夫がいる。




彼との出会いはお食事会。男性4人・女性4人という構成で、男性は浩平と同じ商社マン、女性は私と同じ損保OLという構成だった。

浩平以外の3人は皆、イケメン・スポーツ万能・コミュニケーション能力抜群の営業マンたち。浩平だけが、東大卒・財務畑の人間らしく寡黙に構えていた。

当時29歳を目前に控えていた私は、結婚相手を真剣に探していた。浩平を見た瞬間「結婚するならこんな感じの人がいい」と、直感的に思う。

彼のほうも、そう思ったのかもしれない。その会に参加していた女の子たちは、読者モデルやミスコン出身者ばかりで華やかな顔ぶれだったが、唯一、特に読モでもミスコン出場歴もない私に連絡してきた。

そうして付き合い始め、一緒に時間を過ごすうちに、年齢も年齢なので自然と結婚する流れになった。とんとん拍子にプロポーズされ、出会ってから1年ほどで入籍を果たす。

役所に婚姻届を提出した瞬間、湧き上がってきたのは、喜びや浩平に対する愛情よりも「無事に結婚できた」という安堵だった。

その日以来、私を選んでくれた夫に感謝し、彼にとって常に良き妻であろうと決意したのだ。

確かに、OB・OG会の日、射すくめられるような目で圭吾くんに見つめられた瞬間、大きく心を動かされた。でも、私は浩平の妻だ。夫を支え、彼と共に生活する日常に満足しているし、それを崩す気は毛頭ない。

偶然の出会いについ心乱されてしまったが、圭吾くんとは“カフェの客と店員”という、今まで通りの距離感を保とうと決めた。

そんなことなど知る由もない彼は、今日のように無邪気にプライベートな話を振ってきたりする。

― でも、話しかけられたら、うれしくなっちゃう自分がいるのよね。

圭吾くんに手渡された温かいコーヒーとパウンドケーキを手に、なんともいえない気持ちで店を出た。




小さな違和感


18時。定時に仕事を終えて帰路につく。

「ただいま〜」

浩平は遅くなると言っていたから、家には誰もいない。

彼と一緒に食卓を囲める時は、平日であっても必ずきちんと食卓を整え、最低でも一汁三菜は準備する。

専業主婦家庭で育った浩平は、料理の味に神経質で、化学調味料を好まない。だから味噌汁は出汁から取るし、肉や野菜も家から少し離れたオーガニックスーパーでそろえる。手間はかかるが、1人で食事する時は手を抜くなどして、なんとかやっていっている。

― 今日は1人ゴハンだから、適当にうどんでも作ろうっと。デザートに、圭吾くんに勧められたパウンドケーキ食べようかな。

朝の家事時間は大好きな私だが、仕事で疲れ切った夜は、可能な限り自分を甘やかしたいと思ってしまう。

食事をしながらNetflixでも見て、のんびり過ごそう…と思った瞬間。

「ただいま。あ、麻由帰ってたんだ」

「え、浩平?今日は遅いんじゃなかったの?」

遅くなると言っていた夫が、まだ19時過ぎだというのに帰ってきた。完全に1人ゴハンの気分になっていた私は、夫の帰宅に内心ガッカリしてしまう。

「たまたま、会食の相手方がコロナにかかっちゃったみたいでさ。キャンセルになったんだ」

「あら、大変ね。それは仕方ないわね」

その時には、食事の準備のことで頭がいっぱいになっていたから、上の空で彼の説明を聞き流していた。

― 今日、“会食”って言ってたっけ?

頭の片隅に小さく浮かんだ疑問は、頭の中で組み立てていた夕食の献立にかき消されていったのだった。

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夫に小さな違和感を覚える麻由。一方、圭吾との関係が動き出す…。