「自分が我慢すればいい」セレブな専業主婦の心の闇とは?
港区、千代田区、中央区、渋谷区、新宿区。
通称「都心5区」。このエリアは、東京でもずば抜けて不動産価値が高い。
日本の高級住宅街を抱えるこのエリアに住めるのはもちろん、“選ばれし者たち”のみ。
そこに選ばれた女たちは、男、仕事、年収、プライベートも“すべて”手に入れたいと思っている。
尽きることのない欲望を持つ女たちは、白鳥のように美しくあろうと足元でもがき続けているのだ。
File12. 唯香、千代田区在住。番町に住む専業主婦が満たされない理由
時計を見ると、朝の5時30分。
唯香は毎日早朝に起床して身支度を整えたあと、朝食とお弁当の準備をする。
もう何年も、ほぼ毎日続いているルーティンだ。
そして7時を回るころ、夫の隆二と娘の芽衣が起床してリビングに入ってくる。
「おはよう〜!」
唯香は明るく2人に声を掛け、いつもの朝と同じように過ごしている。
唯香の両親が購入した皇居近くのこの高級マンションは、周りに高い建物がなく、晴れた日は窓から日の光が一日中入ってくる。
しかし唯香の心は、今にも雨が降り出しそうな黒い雲で覆われているのだった。
その理由は、もうここ数年続いている隆二の“ある行動”。
平日の夜や土日の外出も多く、スーツやシャツに女性の香水の移り香が残っていることも多々ある。
リビングテーブルに置きっぱなしにしていたスマホに、不倫相手と思わしきLINE通知が表示されることもしばしば。
以前の隆二は、スマホを唯香に見られないようにしていたが、今ではそんな気遣いすらない。
さらに、無造作に捨てたレシートや明細書の中には、明らかに女性と行くお店のものばかり。唯香がその気になって証拠を集めようと思えば、すぐ簡単に揃えることができるだろう。
― 隆二はもう、隠そうともしないんだな…。こんな私でも、周りから見たら“完璧で幸せな結婚”をしているように見えるのかな。
そう思うと、唯香の心の内に秘める虚しさは、さらに増すのだった。
夫の明らかな不倫に辟易する唯香。結婚した理由は…
唯香が結婚したのは、今から10年前に遡る。
代々病院を営む裕福な家庭に生まれた唯香は、小学校から聖心女子学院で学んだ。
両親も親戚も、決められた結婚をして家庭を築いている。
厳格な家庭環境で育った唯香は「どれだけ自由に恋愛しても、結婚相手は親が決めるもの」と、子どもの頃から理解していた。
そして、両親が結婚相手として薦めたのが、今の夫である隆二だった。
隆二もまた医者の家系に生まれ、慶應義塾大学医学部を卒業したエリートだ。
しかし、隆二の実家の医院は、長男である隆二の兄が継ぐことになっていた。そのため、次男である隆二とは、将来は唯香の実家の医院を継ぐことが前提での見合いだった。
由緒正しい医者の家系で育った隆二は、唯香の両親にとって安心できる縁談だった。
隆二としても将来の院長という立場を手に入れられるだけではなく、裕福なお嬢様、そして唯香の両親が購入した千代田区三番町のマンションも手に入れることができる。
唯香の結婚は、誰にとってもメリットだらけだった。
ただ1人を除いては…。
◆
ただ1人、この結婚にメリットを見出せない人物。
その人物こそ、他の誰でもなく唯香だった。
大学卒業後、24歳で早々に結婚した唯香は恋愛経験などほぼなく、「人を好きになる」ということがどんなことなのかもわからなかった。
そして、ただ決められたレールを歩くように、親に勧められるまま結婚し専業主婦の道を選んだ。
翌年には娘の芽衣も生まれた。芽衣は、自分と同じように枝光会幼稚園から聖心女子学院に進み、娘もお嬢様の王道のような人生を歩んでいる。
「千代田区番町住まい」「小学校から大学まで聖心」「医師と結婚」「可愛い娘」、これらに恵まれた唯香は、まさに完璧で幸せな女性に見えるだろう。
そして唯香自身、何度もこう思おうとした。
― これでいいんだ。私はきっと、幸せになれる…。
しかし、周りから与えられるものだけで生きている唯香は、自分の人生を生きている実感を持てないでいた。
そして、数年前からは隆二が不倫と思しき行動を積み重ねるようになっていったのだった。
― 私は一体、何のために生きているんだろう…。
いま一つ自分の力で生きていないことへの罪悪感、そして無視しようにも無視できない隆二の不倫…。これらは徐々に、唯香の心をすり減らしていった。
◆
ある日の夕方。唯香は、芽衣のピアノ教室の迎えに来ていた。
「いつもお世話になっております。今日もレッスンありがとうございました」
こう言って芽衣を迎えようとしたとき、唯香は突然息苦しさに襲われ、その場にうずくまってしまう。
その場でうずくまってしまった唯香の身に、一体何が?
唯香が意識を取り戻した時は、すでに救急車の中だった。
そのまま緊急病院に運ばれた唯香は、一体自分の身に何が起きたのかまったく状況が読み込めないでいた。
― 私、なぜこんなところに…。あっ、芽衣はどこ?
そのとき、小さい声が聞こえた。
「お母さん、大丈夫?」
「あ、芽衣…。お母さん大丈夫よ、ごめんね…」
「ううん、私は大丈夫だから。お母さん、ちゃんと休んで」
芽衣のしっかりとした受け答えに、唯香は涙が出てきた。するとすぐに、唯香の母が病棟に現れた。
「唯香、大丈夫?倒れて救急車で運ばれたって、ピアノ教室の方からご連絡があって…」
「お母さんごめんね。大丈夫、少し気分が悪くなっただけだから」
― 芽衣にもお母さんにも迷惑かけて、私は何やっているのかしら…。
唯香が救急病棟に運ばれてから4時間が経った、午後10時過ぎ。
夫の隆二からようやく1本の電話がかかってきた。
「ごめん、仕事が忙しくて。体、大丈夫か?お母様が病院にいるんだろ?俺、行った方がいいか?」
「……」
― 「行った方がいいか?」って、私のこと心配じゃないの…?
隆二の言葉に、唯香は返事ができなかった。
きっと今日も、不倫相手とデートだったのだろう。病院からの電話に気がつかなかったのか、あえて対応しなかったのか、真相はわからない。
― どうして、すぐ病院に来てくれないの?なぜ、電話やLINEもすぐにできなかったの?
唯香は夫に怒り叫びたくなる気持ちを、必死になって抑えた。
今回の件で、唯香は確信する。
「隆二にとって、私はもう大切な存在ではないんだな」と――。
◆
翌日。唯香は1日だけ入院し、そのまま帰宅した。
しかし、どこかで直視しないようにしていた「隆二の愛情のなさ」を目の当たりにしてしまい、以前のように夫にうまく振る舞えなくなっていた。
マンションに泊まって芽衣の面倒を見てくれていた母親は、唯香にこう問いただした。
「唯香、一体どうしたの?どうして、過呼吸なんかに?何かストレスに感じることがあるの?」
唯香は何も言えなかった。
― 両親が選んだ隆二が不倫しているなんて言えない。そんなことを言っても何の解決にもならない。私が見ないフリをすればいいんだ。
「自分が我慢すればいい」こう思って、唯香は毎日ただひたすら淡々とした時間を過ごした。
◆
唯香が倒れた日から、1ヶ月がたった。
「お母さん」
いつも通り夕食を終えたあと、唯香は芽衣に声を掛けられた
「どうしたの?芽衣」
いつも通り返した唯香は、思いがけない言葉を芽衣から聞く。
「お母さん、我慢しなくていいんだよ」
「えっ…?我慢って、何が…?」
唯香が顔を上げると、芽衣の目には涙が浮かんでいた。
「お母さん、我慢しているよね…?そんなお母さん、私もう見たくないよ…」
家庭の不穏な雰囲気、自分の母親が何に思い悩み、なぜ倒れたか…。芽衣は、幼いなりに理解していたのだ。
娘からの言葉に、堰を切ったように涙が溢れる唯香。
「芽衣、ごめんね…。嫌な思いさせて…」
愛する娘にそんな思いをさせてしまっていたこと、そして「我慢しなくていいんだよ」と言わせてしまったことを、唯香は悔いた。
唯香はずっと、周りから与えられるもので生きてきた。そのことに対する不安がありながらも、心の中で「これでいいのだ」と無視してきた。
そのツケが、今やっと来たのかもしれない。そしてそれは、いずれ来るべきものだったのかもしれない。
― もう芽衣を悲しませるようなことはしたくない。私の人生に起きることを、誰かのせいにはできない。私は私の人生を生きて、芽衣を幸せにしなければ…。
唯香はこう誓うのだった。
◆
「都心5区」日本の高級住宅街に住む“選ばれし女”たち。
彼女たちは、男、仕事、年収、プライベートもすべて手に入れたように見える。
しかし、すべてに満足する女などいない。皆が心のどこかで不足感を抱えながら生きている。
その不足感に向き合うことこそ、パーフェクトな自分を実現するために必要なのかもしれない。
Fin.
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