「子供は欲しいけど、結婚はできない…」7年付き合った男が放った衝撃の言葉に、絶望した30歳の女
「M T S H 年 月 日」
書類などで、生年月日を記入する欄に書かれている「M T S H」の文字。そしてもうすぐここに、「R」の新しい文字が加わるのだ。
「H」という、31年と少し続いた時代が終わろうとしている今、東京カレンダーでは「H」を象徴するようなエピソードを振り返ります。
あの日あの時、あなたは何をしていましたか?
今回は、42歳の誕生日を独りで迎える千花が主人公。ITベンチャーの最前線で活躍する女を変えてしまった、過去の恋愛とは?
「春爛漫の花咲く季節に生まれたから、千花って名付けたのよ。お花のようにきれいで優しくて、皆に愛される女性になりますようにって」
毎年春になると、母に手を引かれて歩いた散歩道を思い出す。千花は自然と、花が大好きな少女に育った。
…でも“皆に愛される女性”は、期待が大きすぎたんじゃない?
ふいに、一人で少し笑ってしまった。明日42歳の誕生日を迎える。
誕生日前夜、仕事を終え自宅マンションに着くと、時刻はもう23時を過ぎていた。千花がプロジェクトリーダーを務める新しい女性向けアプリの公開日が一週間後に迫っている。長くITベンチャーで働いているので、遅い帰宅は日常茶飯事だ。
ただ、年齢が年齢である。疲れは翌日に持ち越すし、睡眠不足はそのまま肌艶や顔色に出る。お酒も翌日に残りやすくなっているが、気づいたらキッチンへ向かっていた。
スプリングコートもバッグも無造作にソファーに投げ出し、冷蔵庫から取り出したコロナビールの栓を抜く。キンキンに冷えたビールを一口飲みソファーに腰を下ろすと、ようやく仕事から戻った開放感に浸ることができた。
それにしても、せめてカットライムでも絞れば雰囲気の一つも出るが、自分のためだけにその一手間をかける気力は湧かなかった。
放り出した上着。脱いだままのストッキング。直飲みのビール瓶。気休めに手に取ったサプリメントのボトル。これが、あと少しで誕生日を迎える千花の瞳に映る全てだ。
42年前、両親が名前に込めた願いを、叶えることができなかった。
誰にも愛されずに迎える誕生日…。こんな日が来るなんて、全く想像していなかったのである。
順風満帆だった千花を追い詰めた、平成最悪の就職氷河期が到来
穏やかで退屈な女子学生時代
証券会社に勤める父親、専業主婦の母親、5歳年下の弟。千花はそこそこ裕福な家庭で、多少過保護ではあったかもしれないが、たくさんの愛情を受けて育った。
私立の女子中学へ進学し、そのままエスカレーター式に付属の高校、女子大へと進み、女子ばかりの環境で10年もの月日を過ごした。
学生時代は、ただひたすら退屈で平和な毎日。お嬢様学校で道を踏み外す生徒もほとんどいない。
―3組の○○ちゃん、彼氏がいるんだって!
高校までは、たったそれだけの噂話で学年中が大騒ぎになるほどの無菌状態。大学に入ってからも周りの顔ぶれはそう変わらず、皆21時の門限を守るような、当時にしても少々時代錯誤な女子大生だった。
千花が女子大生だった当時、世はアムラー、コギャルの全盛期。女子高校生たちはミニスカート、ルーズソック、ガングロ、細眉で堂々と街を闊歩していたが、千春はちょうど就活中だったためさらに個性を押し殺していた。
しかし就活当初は、希望に満ち溢れていたのだ。
まずは文系学生らしく、マスコミ、大手出版社、広告代理店に狙いを定める。私立お嬢様学校出身という経歴は申し分もないはずなのに、書類選考にかすりもしなかった。メーカーや商社に広げても、状況は変わらない。
気づいたら手当たり次第履歴書を送るはめになり、それでも内定は出ない。これはおかしいと思い周りを見渡すと、就活生全員が同じ状況に青ざめていた。
そう。この頃は歴史上最悪の就職氷河期。
千花は教職や公務員に方向転換するタイミングも逃し、泥沼に足を取られて身動きできないまま、何度も不合格通知を受け取った。
ここまで自分を否定され続けると、さすがに精神的に参って来る。これまでの人生、親に用意されたエスカレーターの上にぼんやりと佇んでいただけなのだと実感した。
◆
そんな就活中のある日、通勤ラッシュを過ぎた時刻の京王線。
千花はつり革に捕まって、ぼーっと外を眺めていた。顔見せのつもりで説明会に参加したところで、どうせ内定はもらえないのだ。それどころか面接にもたどり着けないだろう。
「このまま逃げちゃおうかな」なんてふと頭をよぎるも、千花にそんなことをする勇気はない。
目的地は、東京国際フォーラムだっけ?それとも池袋サンシャイン?新宿住友ビル?
思考がプツっと切れ、一瞬で身体中にもやが広がるような感覚に陥り、急に何もかもわからなくなった。
「私もうダメかも」
そう思った瞬間、ふと電車の中吊り広告が目に入った。女性向けカルチャー雑誌のタイトルの上に、堂々とこう書かれていた。
ー自分にご褒美特集ー
“頑張っている私のために”“自分のための小さな贅沢”。そんなフレーズが羅列していた。なぜか、悔し涙がこみ上げて来る。
―自分にご褒美ってなに?そんな惨めなことしてどうするの?
人に評価されないと社会人にさえなれないのに。他人から褒められること、評価されること、人間の価値ってそれで決まる。受験だって就活だって、その集大成だ。
そしていずれは誰かから愛されて、幸せな結婚をするのだ。自分で自分を褒めてどうするのだろうか?そんなのただの自己満足で、思い上がりだ。ジャッジをするのは他人。自分ではないのに、褒めるなんて、どうして?
そう。あの夏、「自分で、自分をほめたい」42.195kmを駆け抜けた彼女が放ったあの言葉を、千花は苦々しく思っていたのだった。
過酷な就活を乗り越え、何とか社会人になるものの…。千花の身に起きた刺激的過ぎる恋の代償。
過酷な就活は、千花を変えた。
もちろん強くたくましくなったし、また自分を見つめ直す機会になった。しかし自己評価はとことん落ち、自分はどこで道を間違えたのか、そんなことまで考えるようになった。
本当は付属の大学へは進学せずに、ブライダルの専門学校に行きたかった。高校生になっても花が好きという気持ちは強く、花嫁のブーケや、結婚式場を飾るフラワーアレンジメントを作る仕事に就くのが夢だった。
でもそれを言葉にすることすらせず、心の奥に封じ込めた。付属大学に行きさえすれば、将来はなんとかなると、高校生なりに安定を選んだつもりだったのだ。
しかし、その妥協案は見事に打ち砕かれる。
無名IT企業での刺激的な日々
就活で惨敗した千花が、なんとか内定をもらえたのは無名のIT企業だった。安定とは程遠い零細ベンチャー企業だったが、当時はIT 企業の黎明期。夜明け前の高揚感がそこにはあった。
それまでコンピューターとは無縁の生活をしていた千花にとってまるで未知の世界だった。主にアシスタント業務だったが、「褒められたい」一心で必死に働いていた。
「ありがとう。千花は本当に気がきくな。この会社は千花の頑張りがなかったら回らないよ」
下の名前を呼び捨てにすること、大げさなほど褒めること、帰国子女でアメリカ暮らしが長い社長にとっては当然のことが、千花にとっては大きなよろこびであり、生まれて初めてのときめきだった。
漠然とした「褒められたい」という思いは、いつのまにか「あなたに褒められたい」に変わっていた。
「千花、今度会議で意見言ってくれる? ターゲットの若い女性の生の声、参考にしたいんだ」
「え? いいんですか?」
「もちろん。それに、千花はセンスが良いから」
「そんな…褒め過ぎです」
「本心だよ」
そう言って、社長は千花の肩に手を置いた。視線が意味深に絡み合い、なるほどこういうことなんだと、何かがわかった気になって小さくうなずいた。
社長はまだ30歳になったばかり。千花は大学を卒業したての22歳。こうしてはじまった二人の関係は、結局7年も続いた。
二十代の半ばまで、恋に仕事にすべてが順調だった。千花が企画したフラワーアレンジメントの注文サイトが“バズり”、新事業のチーフマネージャーを務めるまでになった。
仕事は忙しかったがその分年俸も増え、恋人である社長とともに、最高級の贅沢をしつくした。
仕事も遊びもある程度満足した頃、そろそろ手をとって次のステージにエスコートしてもらおう。千花は左手の薬指を眺める。もうすぐここにダイヤの指輪が輝くはずだ。
「千花、そろそろ俺、子供が欲しいな」
「私もそう思ってた。もうすぐ30歳だし」
「ただ俺、結婚するつもりはないんだ」
「…え?」
「でも、俺の子供は、千花に産んでほしい。もちろん認知はするし、生活費は生涯全部面倒見るよ。タワーマンションでも、一戸建てでも、千花と子供が住みたい家も買い与える。ただ、結婚という制度に縛られるのはナンセンスだと思うんだ。千花ならわかってくれるよね?」
その言葉を聞いた千花は、血の気が引いて、言葉を失った。独身主義と言葉にするのは簡単だ。そういう人が世の中にいることは知っているし、金銭的に余裕がある彼ならではの発想だ。
―でも…。私が思い描く目的地は、こんな場所じゃなかった。
千花はただ、自分と同じように花に囲まれた温かい家庭で、たくさんの愛情を込めた子育てがしたかった。そして親が乗せてくれたエスカレーターは、きっと出発地点と同じ場所にたどり着くのだと思っていたのだ。
しかし千花は刺激を求めて、いつの間にかその平穏に進むエスカレーターを下りてしまっていたようだ。
一体、なんていうところに来てしまったのだろう。
「私、目的地を間違えたみたい」
あっけなく恋人関係を解消し、会社も去ることを決めた。社長には君から仕事まで奪うつもりはないと引き留められたけれど、決意は変わらなかった。けじめとはそういうことだ。
社長はきっと、罪悪感を感じたくないだけー。
30歳で、少しだけ物事がわかってきた気がしていた。
そして迎える42歳の誕生日。千花に待ち受けるサプライズとは…?!
その後、何度かの転職と、何度かの恋愛をした。転職のたびにキャリアアップしたけど、恋愛においての経験値は邪魔なだけだと悟った。
年齢を重ね、結婚出産という思い描いていた未来と現実が離れていくにつれ、自ら恋愛を突き放すようになっていた。あのときもう一生分、傷ついたのだ。
いつの間にか役職もつき、37歳で自分名義のマンションを購入した。決断力と経済力を賞賛されて少しの間良い気になったけれど、子供を持つことを諦めたお一人様の人生。褒められたくてがむしゃらにやってきたのに、気づけば独りぼっちだった。
少し酔ったかな、とぼんやりと窓の外を眺める。
いつものように高層マンションの部屋から、高速道路を流れる光を目で追いながらビールを飲む。あと数分で42歳。
「もう、42…」
その数字からふと連想したのはマラソンだった。42.195kmを年齢となぞらえれば、もうここはゴール時点だ。私の人生はどんなレースだったかなと思いを巡らす。
人生序盤は流れに乗って先頭集団を走っていた。折り返し地点の21kmは就活に悩む女子大生。息が上がり、苦しく目の前が真っ暗だった。長い長い上り坂を、歯を食いしばって駆け抜けた。スパートをかけて後続をひきはなしたのは、恋人と別れ転職を経てキャリアアップした30歳のとき。
マラソンと聞いて思い出すのはあの夏のオリンピックだ。彼女が集団を抜け出したのも30km地点だった。3位で走り終えた後、「自分で自分を褒めたい」と語った泣き笑いの顔は、さわやかだった。
女子大生のとき大嫌いだったあのセリフが、今ならわかるのだった。
そして今の会社に入って3年、千花にはずっと続けて来たことがあった。
それは、会社のエントランスの受付に自作のフラワーアレンジメントを飾ること。二週間に一度、新しい花を準備し、毎日世話をした。
誰かに褒められるために始めたわけではない。夢を叶えてあげることができなかった少女時代の自分に、少しだけ寄り添いたかった。
私は今でも花が好き。
このエントランスを通るたった一人だけでも、季節を感じて一瞬の幸せを感じてくれたら良いなと、心から思う。
42歳を迎えた朝に起きた出来事
迎えた誕生日の朝、千花は会社に電話をして休暇を取ると告げた。本当に、ただのきまぐれで、サボると決めたのだ。電話越しの後輩の女子社員が楽しそうな笑い声を上げた。
「千花さん、仮病下手ですよ。今日お誕生日ですよね? もしかして、デートですか?」
まさか、と言いながらも後輩が誕生日を覚えていてくれたことが、素直に嬉しかった。そして、思いがけないことを告げられる。
「あの、千花さんにお願いしようと思っていたことがあるんです。会社でフラワーアレンジメントサークル始めませんか? エントランスのお花が毎回素敵だって女子たちの間で噂になってたんです。みんな、千花さんに教えてもらいたいって」
その思いがけない言葉に、すぐに反応できない。楽しそうに話す後輩に相槌を打ちながら「もちろん、いいわよ」と返事をしたところで、千花はようやく気付いた。
―自分が褒めたい自分でいること。そうすればきっと輝く自分でいられるのかもしれない。
千花は、マンションを出ると春の朝陽を浴びながら花屋に向かう。足取りは、スパートをかけたときの彼女のように軽い。
千花は自分のために月桂樹の花冠を作ろうと、花屋へ走る。42.195キロを走り抜いた女神にふさわしいその象徴を。
そう。自分で自分を思い切り褒めるために。
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