外食が思うようにできなかった、2021年。

外で自由に食事ができる素晴らしさを、改めてかみ締める機会が多かったのではないだろうか。

レストランを予約してその予定を書き込むとき、私たちの心は一気に華やぐ。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:大企業勤めじゃないと、結婚もできない…。就活に失敗した27歳・上智卒男の劣等感




Vol.14 澪(31歳)天井知らずの街で生きてきた自分へのご褒美ランチ


空は、透き通るような五月晴れ。

杉田澪は、長年暮らした阿佐ヶ谷を離れ、故郷の富山県に戻るために大都会の玄関口・東京駅へ降り立った。北陸新幹線に乗る前に、一旦八重洲北口改札を出る。

大丸東京のパウダールームで、5年前に購入したドルチェ&ガッパーナのドレスに着替えて向かったのは、東京駅に隣接するビルの28階。

シャングリ・ラ ホテル 東京のイタリアン『ピャチェーレ』だ。

東京での思い出がいっぱい詰まったスーツケースをレストランのフロントに預け、案内されるがまま、澪は窓際の席に腰を下ろす。

時間は11時半。

どうやら、彼との待ち合わせ時間より早く着いてしまったようだ。




― 東京での最後の食事に相応しい場所ね…。

しばらく、この華やかな雰囲気を楽しむことにする。

吹き抜けの高い天井にはヴェネツィアングラスのシャンデリアが下げられ、広々とした窓の向こうは皇居の絶景が広がっている。

差し込む光はラグジュアリーな場を開放的に演出していた。

― せっかくだから、奮発してシャンパンでも頼もうかな。

女優を目指し、18歳で東京に出てきて13年目。

大学の演劇学科で演技を学び、小さい芸能事務所に所属。名前のある役で連続ドラマに出演したこともある。

でも、もう限界だった。

努力で結果が得られる世界ではない。オーディションで精神的にも体力的にも消耗する日々。気づけば同級生はみな結婚していたり、仕事を持ち、余裕のある社会生活を営んでいた。

ちょうど富山の実家が経営する造り酒屋が事業を拡大し、人手を必要としているということもあり、夢を諦めて地元に帰ることが賢明な選択だと判断したのだ。


夢破れた澪が東京での最後の食事に選んだ相手とは…


― 結局、どんなに頑張っても何者にもなれなかった…。

澪は窓の外を眺め、街ゆく人々を見下ろしながらため息をついた。

スポットライトを浴びたこともあったが、所詮、自分も眼下に小さく見えている人々のなかの1人にすぎないことを思い知る。

さらに澪は店内を見回した。

ブランチをひとり楽しむ高齢の男性、未就学児を連れた家族連れ、テーブルの上に書類を広げてランチミーティングをしているクリエイター風の人々…。

休日のランチタイムということもあり、くつろいだ様子のお客さんも多い。

一方、自分はクロゼットの中で一番高額なドレスを着てかしこまっている。逆に場違いだと感じてしまうのは気のせいだろうか。

「お待たせ」

待ち合わせの時間から少し遅れて寺崎和巳がやって来た。彼は、20代前半に交際していた元恋人だ。

洗いざらしの白いシャツにラインの入ったテーパードスラックス。BALENCIAGAのショルダーバッグを横がけした彼は一見カジュアルだが、見る人が見れば全身ハイブランドだとわかるファッションだ。

「久しぶり。今日、本当に富山に帰るの?」

「ふふ。じゃなきゃ、呼び出さないって」

SNSでは時折やり取りをしていたが、実際に会うのは6年ぶりだ。彼は大手キー局勤務を経て、今はフリーで演出家をしている。




和巳との出会いは大学の映画サークルだった。

バイタリティーがあり、在学中からテレビ局や制作会社に出入りしていた彼は、同級生の中でも世間に名を響かせるのが早かった。

「でもさ、辞めるなんて勿体ないなぁ」

「そう言うなら私のこと、使ってくれればよかったのに」

「密かに企んでいたさ。合う役がなかっただけで」

他の理由もあるだろうが、馴れ合いでキャスティングをしない作品への真摯な姿勢は、澪がかつて彼に尊敬にも似た恋心を抱いていた理由である。

和巳は気さくにスタッフを呼び、勧められるがままコースにマッチしたワインのボトルを注文した。

その何気ない様子にびっくりし尋ねると、どうやらここには時折訪れているのだという。

「仕事でカンヅメになるときは、シャングリ・ラを常宿にしているんだ」

彼のふるまいは家のリビングにいるかのような余裕があった。

― なるほど、そうか…。

澪は改めて、東京を発つことは正しい判断だと確信した。

自分が思い切って訪れたこの場所が、日常の一部になっている人もいる。

東京は天井知らず。見上げても見上げても、まだその先がある。先に進めば進むほど自分の凡庸さが浮き彫りになってしまう。

「江古田の安い台湾料理屋で餃子を分けあっていた頃を思うと不思議だな。こうやってワインをカチンとしているなんて」

メインに選んだ子羊のローストを豪快に口に運び、その美味しさに顔をほころばせる彼の笑みはあの頃と同じだった。

「あの店、まだあるよ。半年前、舞台の打ち上げで行ったけど」

「本当!?今度行こうか…って、無理か。帰るんだもんな」

大学卒業後、若手ながらヒット作を次々と世に送り出し、3年前に独立した和巳。その仕事ぶりは業界でも有名だ。

彼がどんどんキャリアの階段を上っていく中で、心がすれ違うようになったのは自然な流れだった。

最後は澪の浮気が引き金となり、2人は別れることになった。

澪は、この業界のことを全く知らない、アルバイト先の先輩の胸の中に逃げたのだ。


東京に別れを告げる澪に、和巳が送った言葉とは…


浮気相手とはすぐに破局した。

和巳とは同じ業界にいることもあり、連絡をやり取りする程度だが今も友人関係だ。

「なあ、今日天気いいし、富士山見えるかな」

コースの終盤、エスプレッソで一息をついていると、和巳は窓の景色を眺めながらつぶやく。

「遠いし、見えないよ」

「方向的にぎりぎりじゃない?ビルの裏に隠れているのかな」

目をキラキラさせて窓の奥の景色に首を伸ばす和巳。

ずいぶん遠くを見つめていた彼の視線を見て、澪は自分との差を思い知った。

― 自分は、下ばかり見ていて、遠くなんて見ようともしなかったな…。

「意識高い系」と揶揄されようと、挑戦し続けていた彼。それに比べて、澪は自分と同等かそれ以下の仲間と傷をなめあっていた。差が開くのは当たり前だ。

「お、富士山発見」

和巳は澪にその位置を教えてくれる。ビルの隙間のぼんやりとした小さな富士山だった。よく見つけたなと感心した。




「…今日は、来てくれてありがとうね」

ポロリとお礼の言葉が出る。それは紛れもない本心だった。

そして和巳に、あの時浮気をした本当の理由を話し、謝罪した。

「いつも前向きな和巳の存在が苦しかったの。完全に言い訳だけど」

今日、和巳を呼び出したのは、当時の懺悔がずっとできていないという心残りからだった。

自分の苦しみを吐き出して許しを得たいという自己満足な理由だとわかっている。和巳は神妙な面持ちで唇を噛んでいた。

「そっか…」

「何者にもなれなかった浮気女の都落ちを笑ってよ。きっとバチが当たったのね」

澪は精一杯の明るさで自虐する。だが、和巳はまっすぐに彼女を見つめた。

「都落ち?名前のある役でドラマに出られたのは相当成功した部類だよ。いい演技していたと思うよ」

「え…?」

「それで『何者でもない』と言えるのは目標を高く持っている証拠なのに」

彼が東京で成功を掴んでいる理由を改めて実感した。

「相変わらずだね、和巳の前向きさ」

「自分は、新しい景色を見に行きたいだけ。とりあえず手を伸ばしてみたら、たとえ届かなかったとしても、その分だけ近づけそうじゃない?」

「…」

昔は息苦しかったが、なぜか、今は彼の言葉が心に響いていた。

― もしかして、自分は、手を伸ばそうとさえしなかったかも。

澪は、高い空を見上げるのが怖かった。

東京での夢を諦めた日の最後の食事。空の高さを楽しんでいる和巳の姿を目の当たりにして、不思議と澪の心は前向きになっていた。

東京を一望する最高級のレストランで美食を堪能したこともその理由だろう。気分まで高みに上ることができた。

自分に相応でなくても、手を伸ばすことの尊さ。

東京を発つ日に、澪はそのことに気がついたのだ。




これからタクシーで六本木に向かうという和巳とは、東京駅の入り口前で別れた。現在手がけている作品の打ち合わせがあるのだという。

「サヨナラ、東京…」

澪は彼の背中に別れを告げる。

そしてドレスを着たままスーツケースをひき、駅のチケットカウンターへ向かう。北陸新幹線のグランクラスにチケットを変更した。

新幹線の中。ゆったりと包み込むようなシートに身を委ねながら、極上の気分で窓の外を見る。

故郷の立山連峰が見えてきた。

富士山とはいかなくとも、次の場所ではあの山の天辺を目指してみよう。澪はそう心に誓ったのだった。

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