ひがみ、ねたみ、そねみなのか、無邪気なのか。アドバイスかクソバイスか……。私たちをモヤっとさせる言葉を収集する「モヤる言葉図鑑」。

作家のアルテイシアさんと一緒に「モヤる言葉」を観察していきます。今回は「普通だよ」です。

「全然、普通に見えるよ」に反省した理由

「私、めっちゃ失敗するので」

そうドヤ顔をキメる我である。私の職業が外科医だとヤバいが、野良作家なので失敗するたびに反省して、コラムに書いたりしている。

たとえば10年以上前、発達障害の診断を受けた知人に対して「〇〇ちゃんは全然普通に見えるよ、大丈夫だよ」と言ってしまったことがある。

当時の私は良かれと思って「普通に見える」と発言した。「発達障害に見えない」と伝えることが、励ましになると勘違いしていた。

一方、言われた相手は「(見えなくても)自分はずっと苦しんできたし、今も苦しんでいるのに」「世間の“普通”に合わせるために、必死でがんばっているのに」と思っただろう。自分の苦しみや努力を無視されたように感じただろう。

日本は「人数が多い方が正しい」「みんな“普通”になれ」という同調圧力の強い社会だ。

私自身もそのプレッシャーに苦しんできたのに、“普通教”を刷り込まれていたのだと思う。

また、当時の私は発達障害についての知識が乏しかった。その後、発達障害の本を読んだり当事者の声を聞いたりして「あの発言は間違っていたな」と反省した。

「じゃあどんな人だったら発達障害に見えるの?」

現在の私には、発達障害の診断済みの友人が何人かいる。そのうちの1人がこう話していた。

「『普通だよ』『全然見えない』とかめっちゃ言われますね。そのたびに『じゃあどんな人だったら発達障害に見えるの?』と聞きたくなります」

「あと『私もADHDみがあって、忘れ物とかよくするし』とか言われるたびに『違う、そうじゃない』と言いたくなります」

彼女は派遣で事務をしていたが、「仕事ができない」という理由で何度もクビになったそうだ。

「私の特性と事務の仕事が壊滅的に合ってなかったんですね。当時はクビになるたび、なぜ普通の人ができることができないんだろう?と自分を責めて、うつ状態になっちゃって。それで精神科に通い始めて、ADHDの診断を受けました」

彼女は診断結果を聞いてほっとしたそうだ。

それまで「自分は努力が足りない怠け者だ」「これは自分の性格の問題だ」と自分を責め続けてきたが「生まれつきの特性である」と診断されて、安心したという。

今でも「都合の悪いことを障害のせいにしてるんじゃ?」と自分を責めてしまうけど「いやいや、ちゃんとプロに診断されたし」と思うことで楽になるという。

「それでも普通に働けない自分に対する劣等感は消えないので、『普通だよ』と言われるとチクっとします」と彼女。

そんな彼女はカレー沢薫先生の『なおりはしないが、ましになる』(小学館)を読んで「膝パーカッションしすぎて膝がぶっ壊れそうになった」と語る。

この漫画は当事者の立場から発達障害について詳しく描いているので、発達障害を理解したい方はぜひ読んでほしい。私も二巻が出るのを全裸待機している。

気のきいたアドバイスとかいらないので

私は毒親家庭出身だが、親の話をした時に「毒親じゃないよ、普通だよ」とか「親ってそんなもんだよ」とか言われると「おまえに何がわかる」と思う。

それでつい「父親に脅されて5千万の借金を背負わされたんだよね、ギョピ☆」と大ネタをぶつけたくなる。

これも相手は良かれと思って言っているのだろう。「あなたの親はそんなに変じゃないよ、大丈夫だよ」とフォローしたいのだと思う。

でも言われた側は苦しみや傷つきを無視されたように感じるし、「やっぱりわかってもらえない」と絶望する。

勇気を出して打ち明けたのに「普通だよ」と否定されて「どうせわかってもらえない、話しても無駄だ」と1人で抱え込んでしまう毒親フレンドも多い。

だから聞く側は相手の言葉を否定せず、「そうなんだ」と耳を傾けてほしい。気のきいたアドバイスとかいらないから、最後まで話を聞いてほしい。

それだけで相手は安心するし、気持ちに寄り添ってくれることに救われるから。そして「大変だったんだね」「話してくれてありがとう」と言ってあげてほしい。

みたいなことを、自分に置き換えるとわかるんだよな〜。

みんなちがって、みんなつらい

立場や属性が違っても、相手の気持ちを想像することはできる。ただ完全に理解することは不可能だし、安易にわかった気にならないことが大切だろう。

たとえば、同性を好きになる人に対して「若い頃にはよくあることだよ、自分も同性に憧れたりしたよ」と言ったり、アセクシャルを自認する人に対して「わかるよ、でもそれは好きになれる人に出会ってないだけ」と決めつけたり、そんなのは言語道断オブザデッドだ。

いつか異性を好きになれる、“普通”になれるから大丈夫、と押しつけることが性的マイノリティに対する偏見なのだと気づくべきだ。

私自身も「安易にわかった気になるべからず」と、べからず帖に刻んでいる。

たとえば私にはトランスジェンダーやXジェンダーの友人がいるが、幼い頃から感じてきた性別違和の苦しみは私にはわからない。

私も「この社会で女として生きるのがつらい」「女らしさの押しつけが苦しい」と感じてきたが、それとこれとは別物である。そうやって違いを理解することが大切なのだと思う。

人はみんなちがって、みんなつらい。その他人のつらさを「感覚」としてわからなくても想像することはできるし、寄り添うことはできる。
当事者の苦しみを知るために、話を聞いたり本を読んだりして学ぶこともできる。

なにより無意識に人を傷つけないために、注意することはできる。

STOP!マイクロアグレッション

私も過去の間違いを反省して「STOP!マイクロアグレッション」とべからず帖に刻んでいる。

マイクロアグレッションとは、主にマイノリティが受ける「小さな攻撃」を意味する。

発言者に相手を傷つける意図はなく、むしろ「良かれと思って」「褒めるつもりで」言うことが多いため、わかりにくいのが特徴だ。

たとえば、私にはカナダ人の男友達がいる。彼は30年前に日本に移住して日本の大学院を卒業して翻訳の仕事をしていて、私よりよっぽど語彙力が高い。「獅子奮迅の活躍だね!」とかさらっと言う。

にもかかわらず、「日本語上手ですね」と日常的に言われまくってうんざりしている。

この「日本語上手ですね」には「外国人は日本語が下手なはず」というアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)が潜んでいる。

「悪意はないんだしべつにいいじゃん、そんなに気にすること?」とおっしゃる方もいるかもしれない。

けれども、気にせずにいられることが特権なのだ。そして人は自分のもつ特権には気づきにくい。

マイクロアグレッションを「蚊に刺されること」に喩えた動画がある。

アメリカ在住の翻訳者、イチカワユウさん(@yu_ichikawa)が動画に日本語訳をつけてSNSでシェアしたところ、ネットで話題になった。とてもわかりやすいので、こちらの記事をぜひ見てほしい。

日常的に蚊に刺されまくるのは、とてもつらい。そのつらさを(蚊にあまり刺されない人には)理解してもらえないのもつらい。

動画には次のようなセリフがある。

『一日に何度も刺されることは、マジでウザい。蚊に本気で怒って焼き尽くしたくなる』

『もちろんウザいってだけじゃなくて、蚊は人生を何年間もめちゃくちゃにする恐ろしい病気の媒介をするときも』

『あなたを殺してしまうようなタイプの蚊もいる』

『だから、次に誰かが過剰反応してるように感じたら思い出して。彼らは蚊にいっつも刺されてるってことを』

「自分は偏見がない」と思っている人ほど偏見や差別に鈍感

私は子どもの頃、おじいさんの墓参りに行った時に20か所ぐらい蚊に刺されて、死ぬかと思った。でも40代になって行った時は全然刺されなくて、もう死んでるのかな自分?と思った。

蚊にまつわる思い出はどうでもよくて、私もうっかり人を刺さないために努力したい。 

日本のように同質性の高い社会だと、マジョリティは自分がマジョリティだと思わずに生きているため、自分のもつ特権に気づきにくい。

また「自分は偏見がない」と思っている人ほど偏見や差別に鈍感で、無意識にやらかしがちだ。「偏見の全くない人間はいない」と肝に銘じて、注意することが大切だろう。

そんなのいちいち気にしてられない、面倒くさい、とおっしゃる方もいるだろう。そういう人は蚊としゃべってたらいいんじゃないかな、プーンとか。

私はうっかり刺さないための努力のひとつとして、子どもに向かって「パパとママどっちに似てるの?」と聞くのをやめた。

世の中には多様な家族の形があって、両親が生物学上の親とは限らないし、パパとママがいるとも限らないから。

シングルマザーの友人は「今日はパパはお留守番かな?とか、娘にパパがいる前提で話してくる人がいてチクっとする」と話していた。

無意識のテンプレ発言を控えることで、誰かを傷つけずにすむ。それがみんなが暮らしやすい社会につながるんじゃないか。

かくいう我もアップデートの途中である。過去にさんざんやらかした反省があるからこそ、アップデートを怠るべからず、とべからず帖に刻んでいる。

べからず帖の文言が増えるにつれて、他人の発言にモヤる機会も増える。でもモヤれること、違和感を抱けることは、自分がアップデートできている証拠なのだ。

だからモヤれる自分でありたいし、できれば蚊を食らうジョロウグモになりたいと思う。

(イラスト:飯田華子)