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今週のおひつじ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のおひつじ座は、効率や習慣よりもデリケートな感覚を優先していくような星回り。
「蛍狩夕餉つめたきもの食べて」(大石悦子)という句の意味としては、蛍狩りに行く際の夕餉(ゆうげ)は、温かいものではなく冷たいものを食べて、といったところ。蛍というのは、その年に亡くなった人の数と同じだけの数が発生すると昔から伝えられていて、夏のひと時だけ会うことができるのが蛍狩りなのだということに思い至ると、繊細なところに触れていることが分かるはずです。
水辺の闇を明滅しながら飛び交う青白い蛍の光に、亡き人の思いを託すのなら、自分たちのからだも死者たちにならって少しでも冷たくしておきたい。それがいかに非合理なものであったとしても、亡き人が近しい相手であればあるほど、そう思いたいくなるのが人情であり、人間的な営みと言えるのではないでしょうか。
あなたもまた、心から大切にしていきたいものには、できる限りの丁寧さで接していきたいところです。
今週のおうし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のおうし座は、継続的で進化していく仕事に気が付いてたら身を投じているような星回り。
宗教学者で無神論者のジェイムズ・カーズによれば、ゲームには明確なルールと定義された終わりがあり、勝つことを目的にプレイする「有限ゲーム」と、プレイし続けるのが目的であり、ルールに難があればゲーム遂行のために変えられなければならない「無限ゲーム」の少なくとも2種類があるのだと言います。
ゲーム・クリエイターのイアン・チェンは、さらに「われわれにとって人生は、締め切り、取引、ランキング、日程、選挙、スポーツ、大学、戦争、ポーカー、宝くじといった有限ゲームに満ちている。有限ゲームで勝っても、ベース・リアリティ(実感の基礎)に立ち戻ることができず、その接点に介在する無限ゲームのフィールドの中で目覚める。われわれが無限ゲームに生きるのは、それが肉体的、精神的な健康とは無関係なベース・リアリティに意味をもたらすからだ」と述べています。
あなたもまた、このように世界をある種のゲームとして捉えた上で、いかに有限ゲームの世界から脱け出していけるかということが一つのテーマとなってくるはず。
今週のふたご座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のふたご座は、精神の原郷へと遡行していくような星回り。
「沙河(さが)」とは中国河南省を流れる長江・黄河に次ぐ第三の大河である淮河の一支流のこと。「沙河にゆきたし六月私は小馬」(阿部完市)では、六月の初夏の体感として、自分は小馬であり、中国の水流豊かな沙河にゆきたいのだと言う。沙河、六月、小馬という一言一言の言葉の連なりそのものが、詩となり透明感のある作品と成り得ている一句です。
ここでは、「沙河」とは具体的な地名や特定の場所というよりも、どこか遠くにある精神の原郷であり、幼年時代のなつかしき世界への遡行を思わせますが、それでいて「ゆきたし」という作者の明確な意志を引き出すものでもあります。
おそらく、これは甘い感傷をさそう現実逃避行をうたったものでも、単に過去を思い出している訳でもなく、かつて現在であった試しのない純粋過去という形式を介して、今この瞬間の現在にはじめて出会おうとしているのでは。あなたもまた、そんなパラドキシカルな回路を通して、生きている実感を感じ直していくことができるかも知れません。
今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のかに座は、ありえない意味によって、内なる欲求が暗示されていくような星回り。
特に難しい言葉が使われている訳ではなくても、言葉の組み合わせとして不自然だったり、一読してよく意味が分からないということがあります。島尾敏雄の「夢の中の日常」の一節には、次のように記されています。
「私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命にに引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。」
ここに書かれているようなことは、実際にはありえないし、また、いつかあり得るものでもないために、読んだ側も最初は不明晰な印象を受けます。ただ、次第にこうした事実としてありえない意味が、それを逃れたいという欲求の暗喩になっていることが分かってくるはず。あなたもまた、なんらかの感覚の自己表出に裏打ちされたリアリティを新たに獲得していくことがテーマとなっていくでしょう。
今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のしし座は、これでよし、と心から思える道をいくこと。
「鮎くれてよらで過行夜半の門」(与謝蕪村)という句で詠まれているのは、夏の夜遅く、門をたたいて友が訪ねてきて、たくさん釣ったからと言って鮎を分けてくれるという情景。しばらく寄っていけばと誘ったが、そのまま過ぎ行くままに帰っていった。
これは思いがけない贈り物に対しての喜びを表しているというより、どこか恬淡とした友情の在り様を強調しているんですね。さっときて、トントントンと戸を叩いて、鮎くれて、闇に消えていく。ちょうど夜中に夢を見るかのように、私たちの人生にも色々な出来事が起きてくるけれども、それもまた闇に消えていく。
ここには交わされた言葉の裏に何の取引も、隠された意図もありません。ただ、自分の釣った鮎を友に分けてあげたいという思いを実現したに過ぎず、そこでお返しを期待している訳ではない。この世のどんな現実や常識にも規定されない、そんな友情こそが何よりの宝物じゃないか、と。あなたも、自分のたなごころの中に既に握られていたものの価値に改めて気付いていくことができるかも知れません。
今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のおとめ座は、時空を超えて何かがオーバーラップしていくような星回り。
民俗学者の折口信夫はエッセイ「山越しの弥陀増の画因」の中で、山越しの阿弥陀仏を描いた数々の来迎図について語りながら、「私の物語なども、謂わば、一つの山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物なのである」と言います。
この「私の物語」とは、折口が生前唯一完成させることのできた小説『死者の書』のことで、中将姫という高貴な少女のはじめての恋と、若くして非業の死を遂げた皇子の生涯最後の恋とが時空をこえて出会い、切なくすれ違っていくラブロマンス。そして、先のエッセイのなかで、この小説を書いたことについて、「そうすることが亦(また)、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養ともなるという様な気がしていたのである。」と述べているのです。
この「古い故人」が誰かは折口は自分の口からは明かしませんでしたが、その後には日本人の積み重ねてきた意識や象徴が重要なのであって、私個人のことではない、「私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない」のだと続けています。あなたもまた、自分の過去や記憶の上を通り越して現れ出てくる何か重要なモチーフや象徴に感応していくことがあるかも知れません。
今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のてんびん座は、生産的ではないが大切な時間を過ごしていくような星回り。
「ががんぼや忘れ物めく父の杖」(屋内修一)は、誰も住む人のいなくなった実家に、ポツンと「父の杖」が残されているのを見て、思わず詠んだ一句。作者が故郷の松山で父母と暮らしたのは18歳までだったのだと言います。父は公務員と定年退職後、老後の楽しみとして俳句をたしなみ、母もそれを真似て句を作ったのだとか。
長男であるにも関わらず、離れて暮らしたせめてもの償いにと、二人の句帳を整理して、遺句集も編んだりもしたものの、まだ引っかかるものがあったのでしょう。「ががんぼ」の脚はすぐ折れる。父もまた、脚を残してどこか遠くに飛んでいったのか、唐突に足をもがれるように死へと引き込まれたのか。
残された者として、あれやこれやと考える時間は生産的かと言われれば、まったくそうではないけれど、人としての大切なものを貫いていくには、どうしたってそういう時間が必要なのでは。あなたも、不意にこみあげてくるものを流すことなく大切にしていきたいところです。
今週のさそり座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のさそり座は、自分の世界を構築していくために必要なプロセスを踏んでいくような星回り。
鴨長明の歌論書である『無名抄』に「言葉にも艶きはまりぬれば、ただ徳はおのづからそなはる(言葉の艶なるおもむきがきわまると、徳、つまりは力が自然と満ちてくる)」という一節があります。この箇所について、作家の堀田善衛はさらに一つの連想を浮かべていて、それは次のような一幕なのです。
「あるときに画家のドガが詩人マラルメに向かって、詩を一つ書いてみたいのだが、想はあるんだが、どうもうまく書けない、と言ったとき、言下にマラルメが、詩はことばで書くものであって観念で書くものではない、と」
つまり、書かれている内容の具体性ないし直接性が喪失されて初めてそれは詩になるのだ、ということです。フィクションというのは、ただ自分の気持ちのままに言葉を綴っているうちはとても構築できない。喪ってはじめて得られる世界なのだ、と長明は考えていたのではないでしょうか。あなたも、なにか一つを喪って別の何かを得ていくという取引を意図的に行っていくことになるかも知れません。
今週のいて座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のいて座は、「これが私だ」と暗に示していくような星回り。
「鳥辺山ほどに濡れゐるあやめかな」(柿本多映)で詠まれている「鳥辺山」とは歌枕の地であり、京都清水寺の南の丘陵地帯であり、平安時代には火葬場、墓地があったこともあり、“無常”の象徴と言えます。
その意味で、「鳥辺山ほどに濡れてゐる」というのは、なんとも壮絶で、底知れないほどの生き様を抱えて咲いている「あやめ」である、ということになります。
「あやめ」は「あやまち」という言葉ともかかりますから、これは自分自身の過去のあやまちを振り返りつつ、それを「濡れあやめ」に見立てているのだとも言えますが、これ以上の解釈を加えることはもはや野暮というものでしょう。あなたもまた、これまで生きてきた証しを何らかの仕方でかたちにしていくべく、みずから動いていくことになるかも知れません。
今週のやぎ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のやぎ座は、みずからの存在の“尊さ”を直感していくような星回り。
「人間が出来て、何千何万になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。」
志賀直哉が晩年につづった短文には二種類の自己認識が語られていて、ひとつは自分は数えきれない人間の生き死にによって生じる「悠々流れる大河の一滴」に過ぎない、というもの。もうひとつは、しかしその一滴は「後にも前にもこの私だけ」だという一回限りの唯一無二だという自己認識です。
少なくとも、恩師である漱石の訃報に触れて書かれたともされるこの文章を書いたとき、志賀の頭にはそういう「一滴」は決してむなしいものではなく、それ自体意味のあるものという確信があったのではないでしょうか。あなたもまた、自身の死生観をまざまざと浮き彫りにさせていく機運が高まっていくことになるでしょう。
今週のみずがめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のみずがめ座は、ふだんの日常生活からは隠れてしまっているリアリティをこそ感じていこうとするような星回り。
「五月雨や蒼海をつく濁り水」(与謝蕪村)は、三つの領域から成り立っています。まず「雨」、次に「濁り水」、そして「海」。そしてこの背後には、それら三つの領域を循環させる森林があります。この循環を通して、人間を含むあらゆる生命が育まれ、つながって生きている。ただ、現実においては汚れや塵を含んだ酸性雨が降っていて、汚れが森林から川へ、川から海へと流れ、生命のつないできた循環システムは壊れかかっています。
なぜこうなってしまったのか。掲句はそのヒントを投げかけてくれているように思います。「蒼海を“つく”」と言っても、これは突き刺したり攻撃することではありません。衝突や意気衝天といった言葉があるように、そこでいったん何かが「尽きる」ということであり、鐘を「衝く」ように「濁り水」を衝くことで、何かが鳴り響いているということ。
おそらく、この場合の「濁り水」とは「既知なるもの」として人生や、その穢れのことであり、蒼海のもとで鳴り響いているのは「未知なるもの」なのではないでしょうか。あなたも、たとえすぐにはそうした響きを聴くことができなかったとしても、少なくともそれを待つことの大切さを痛感していくべし。
今週のうお座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今週のうお座は、ふと自分を立ち止まらせるための歴史を紡いでいこうとするような星回り。
SNS時代の始まりとも言える2010年代を経て、今やますます歴史的な構築が嫌われる傾向が強くなっているように感じます。例えばTwitterは、従来なら直接アクセスするための相当な手間や努力を経なければ出会えなかったような、思いがけない相手や話題との横断的なつながりを容易くしましたが、一方で、アーカイブ機能がないために、あらゆるものが瞬時に忘却されては、あらたな話題や人物が登場して、というサイクルを繰り返していきます。
そして、そこで自身のツイートのいいねやRTの数に一喜一憂したり、タイムラインを埋める話題のランダム性によってその時の気分が振り回されていき、結果的に、ますます快楽報酬の輪をまわすスピードをあげていくことになる。
そうした脳を消費や快楽へと駆り立てる輪の回転をとめ、自身のリアリティを等身大の身体性へと繋ぎとめていくためには、立ち止まるための歴史が必要なのではないでしょうか。あなたもまた、何かを主張したり、関係したり、対話をしたりしていくための「場」を少しでも深く、広げていくための時間をつくっていきたいところです。
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今週のおひつじ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
自分をケアするということ
今週のおひつじ座は、効率や習慣よりもデリケートな感覚を優先していくような星回り。
「蛍狩夕餉つめたきもの食べて」(大石悦子)という句の意味としては、蛍狩りに行く際の夕餉(ゆうげ)は、温かいものではなく冷たいものを食べて、といったところ。蛍というのは、その年に亡くなった人の数と同じだけの数が発生すると昔から伝えられていて、夏のひと時だけ会うことができるのが蛍狩りなのだということに思い至ると、繊細なところに触れていることが分かるはずです。
あなたもまた、心から大切にしていきたいものには、できる限りの丁寧さで接していきたいところです。
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今週のおうし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
終わりなきゲームを楽しむために
今週のおうし座は、継続的で進化していく仕事に気が付いてたら身を投じているような星回り。
宗教学者で無神論者のジェイムズ・カーズによれば、ゲームには明確なルールと定義された終わりがあり、勝つことを目的にプレイする「有限ゲーム」と、プレイし続けるのが目的であり、ルールに難があればゲーム遂行のために変えられなければならない「無限ゲーム」の少なくとも2種類があるのだと言います。
ゲーム・クリエイターのイアン・チェンは、さらに「われわれにとって人生は、締め切り、取引、ランキング、日程、選挙、スポーツ、大学、戦争、ポーカー、宝くじといった有限ゲームに満ちている。有限ゲームで勝っても、ベース・リアリティ(実感の基礎)に立ち戻ることができず、その接点に介在する無限ゲームのフィールドの中で目覚める。われわれが無限ゲームに生きるのは、それが肉体的、精神的な健康とは無関係なベース・リアリティに意味をもたらすからだ」と述べています。
あなたもまた、このように世界をある種のゲームとして捉えた上で、いかに有限ゲームの世界から脱け出していけるかということが一つのテーマとなってくるはず。
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今週のふたご座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
過去を通して今と出会う
今週のふたご座は、精神の原郷へと遡行していくような星回り。
「沙河(さが)」とは中国河南省を流れる長江・黄河に次ぐ第三の大河である淮河の一支流のこと。「沙河にゆきたし六月私は小馬」(阿部完市)では、六月の初夏の体感として、自分は小馬であり、中国の水流豊かな沙河にゆきたいのだと言う。沙河、六月、小馬という一言一言の言葉の連なりそのものが、詩となり透明感のある作品と成り得ている一句です。
ここでは、「沙河」とは具体的な地名や特定の場所というよりも、どこか遠くにある精神の原郷であり、幼年時代のなつかしき世界への遡行を思わせますが、それでいて「ゆきたし」という作者の明確な意志を引き出すものでもあります。
おそらく、これは甘い感傷をさそう現実逃避行をうたったものでも、単に過去を思い出している訳でもなく、かつて現在であった試しのない純粋過去という形式を介して、今この瞬間の現在にはじめて出会おうとしているのでは。あなたもまた、そんなパラドキシカルな回路を通して、生きている実感を感じ直していくことができるかも知れません。
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今週のかに座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
建て前を本音が裏切る
今週のかに座は、ありえない意味によって、内なる欲求が暗示されていくような星回り。
特に難しい言葉が使われている訳ではなくても、言葉の組み合わせとして不自然だったり、一読してよく意味が分からないということがあります。島尾敏雄の「夢の中の日常」の一節には、次のように記されています。
「私は胃の底に核のようなものが頑強に密着しているのを右手に感じた。それでそれを一所懸命にに引っぱった。すると何とした事だ。その核を頂点にして、私の肉体がずるずると引上げられて来たのだ。私はもう、やけくそで引っぱり続けた。そしてその揚句に私は足袋を裏返しにするように、私自身の身体が裏返しになってしまったことを感じた。頭のかゆさも腹痛もなくなっていた。ただ私の外観はいかのようにのっぺり、透き徹って見えた。」
ここに書かれているようなことは、実際にはありえないし、また、いつかあり得るものでもないために、読んだ側も最初は不明晰な印象を受けます。ただ、次第にこうした事実としてありえない意味が、それを逃れたいという欲求の暗喩になっていることが分かってくるはず。あなたもまた、なんらかの感覚の自己表出に裏打ちされたリアリティを新たに獲得していくことがテーマとなっていくでしょう。
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今週のしし座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
真夜中に道はひらける
今週のしし座は、これでよし、と心から思える道をいくこと。
「鮎くれてよらで過行夜半の門」(与謝蕪村)という句で詠まれているのは、夏の夜遅く、門をたたいて友が訪ねてきて、たくさん釣ったからと言って鮎を分けてくれるという情景。しばらく寄っていけばと誘ったが、そのまま過ぎ行くままに帰っていった。
これは思いがけない贈り物に対しての喜びを表しているというより、どこか恬淡とした友情の在り様を強調しているんですね。さっときて、トントントンと戸を叩いて、鮎くれて、闇に消えていく。ちょうど夜中に夢を見るかのように、私たちの人生にも色々な出来事が起きてくるけれども、それもまた闇に消えていく。
ここには交わされた言葉の裏に何の取引も、隠された意図もありません。ただ、自分の釣った鮎を友に分けてあげたいという思いを実現したに過ぎず、そこでお返しを期待している訳ではない。この世のどんな現実や常識にも規定されない、そんな友情こそが何よりの宝物じゃないか、と。あなたも、自分のたなごころの中に既に握られていたものの価値に改めて気付いていくことができるかも知れません。
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今週のおとめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
今まで生きてきた中で一番丁寧な一歩を踏み出してみる
今週のおとめ座は、時空を超えて何かがオーバーラップしていくような星回り。
民俗学者の折口信夫はエッセイ「山越しの弥陀増の画因」の中で、山越しの阿弥陀仏を描いた数々の来迎図について語りながら、「私の物語なども、謂わば、一つの山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物なのである」と言います。
この「私の物語」とは、折口が生前唯一完成させることのできた小説『死者の書』のことで、中将姫という高貴な少女のはじめての恋と、若くして非業の死を遂げた皇子の生涯最後の恋とが時空をこえて出会い、切なくすれ違っていくラブロマンス。そして、先のエッセイのなかで、この小説を書いたことについて、「そうすることが亦(また)、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の為の罪障消滅の営みにもあたり、供養ともなるという様な気がしていたのである。」と述べているのです。
この「古い故人」が誰かは折口は自分の口からは明かしませんでしたが、その後には日本人の積み重ねてきた意識や象徴が重要なのであって、私個人のことではない、「私の心の上の重ね写真は、大した問題にするがものはない」のだと続けています。あなたもまた、自分の過去や記憶の上を通り越して現れ出てくる何か重要なモチーフや象徴に感応していくことがあるかも知れません。
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今週のてんびん座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
早くわからない方がいい
今週のてんびん座は、生産的ではないが大切な時間を過ごしていくような星回り。
「ががんぼや忘れ物めく父の杖」(屋内修一)は、誰も住む人のいなくなった実家に、ポツンと「父の杖」が残されているのを見て、思わず詠んだ一句。作者が故郷の松山で父母と暮らしたのは18歳までだったのだと言います。父は公務員と定年退職後、老後の楽しみとして俳句をたしなみ、母もそれを真似て句を作ったのだとか。
長男であるにも関わらず、離れて暮らしたせめてもの償いにと、二人の句帳を整理して、遺句集も編んだりもしたものの、まだ引っかかるものがあったのでしょう。「ががんぼ」の脚はすぐ折れる。父もまた、脚を残してどこか遠くに飛んでいったのか、唐突に足をもがれるように死へと引き込まれたのか。
残された者として、あれやこれやと考える時間は生産的かと言われれば、まったくそうではないけれど、人としての大切なものを貫いていくには、どうしたってそういう時間が必要なのでは。あなたも、不意にこみあげてくるものを流すことなく大切にしていきたいところです。
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今週のさそり座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
ひとつの成熟
今週のさそり座は、自分の世界を構築していくために必要なプロセスを踏んでいくような星回り。
鴨長明の歌論書である『無名抄』に「言葉にも艶きはまりぬれば、ただ徳はおのづからそなはる(言葉の艶なるおもむきがきわまると、徳、つまりは力が自然と満ちてくる)」という一節があります。この箇所について、作家の堀田善衛はさらに一つの連想を浮かべていて、それは次のような一幕なのです。
「あるときに画家のドガが詩人マラルメに向かって、詩を一つ書いてみたいのだが、想はあるんだが、どうもうまく書けない、と言ったとき、言下にマラルメが、詩はことばで書くものであって観念で書くものではない、と」
つまり、書かれている内容の具体性ないし直接性が喪失されて初めてそれは詩になるのだ、ということです。フィクションというのは、ただ自分の気持ちのままに言葉を綴っているうちはとても構築できない。喪ってはじめて得られる世界なのだ、と長明は考えていたのではないでしょうか。あなたも、なにか一つを喪って別の何かを得ていくという取引を意図的に行っていくことになるかも知れません。
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今週のいて座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
本能の軌跡
今週のいて座は、「これが私だ」と暗に示していくような星回り。
「鳥辺山ほどに濡れゐるあやめかな」(柿本多映)で詠まれている「鳥辺山」とは歌枕の地であり、京都清水寺の南の丘陵地帯であり、平安時代には火葬場、墓地があったこともあり、“無常”の象徴と言えます。
その意味で、「鳥辺山ほどに濡れてゐる」というのは、なんとも壮絶で、底知れないほどの生き様を抱えて咲いている「あやめ」である、ということになります。
「あやめ」は「あやまち」という言葉ともかかりますから、これは自分自身の過去のあやまちを振り返りつつ、それを「濡れあやめ」に見立てているのだとも言えますが、これ以上の解釈を加えることはもはや野暮というものでしょう。あなたもまた、これまで生きてきた証しを何らかの仕方でかたちにしていくべく、みずから動いていくことになるかも知れません。
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今週のやぎ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
尊いとはどういうことか
今週のやぎ座は、みずからの存在の“尊さ”を直感していくような星回り。
「人間が出来て、何千何万になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。」
志賀直哉が晩年につづった短文には二種類の自己認識が語られていて、ひとつは自分は数えきれない人間の生き死にによって生じる「悠々流れる大河の一滴」に過ぎない、というもの。もうひとつは、しかしその一滴は「後にも前にもこの私だけ」だという一回限りの唯一無二だという自己認識です。
少なくとも、恩師である漱石の訃報に触れて書かれたともされるこの文章を書いたとき、志賀の頭にはそういう「一滴」は決してむなしいものではなく、それ自体意味のあるものという確信があったのではないでしょうか。あなたもまた、自身の死生観をまざまざと浮き彫りにさせていく機運が高まっていくことになるでしょう。
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今週のみずがめ座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
海をつく
今週のみずがめ座は、ふだんの日常生活からは隠れてしまっているリアリティをこそ感じていこうとするような星回り。
「五月雨や蒼海をつく濁り水」(与謝蕪村)は、三つの領域から成り立っています。まず「雨」、次に「濁り水」、そして「海」。そしてこの背後には、それら三つの領域を循環させる森林があります。この循環を通して、人間を含むあらゆる生命が育まれ、つながって生きている。ただ、現実においては汚れや塵を含んだ酸性雨が降っていて、汚れが森林から川へ、川から海へと流れ、生命のつないできた循環システムは壊れかかっています。
なぜこうなってしまったのか。掲句はそのヒントを投げかけてくれているように思います。「蒼海を“つく”」と言っても、これは突き刺したり攻撃することではありません。衝突や意気衝天といった言葉があるように、そこでいったん何かが「尽きる」ということであり、鐘を「衝く」ように「濁り水」を衝くことで、何かが鳴り響いているということ。
おそらく、この場合の「濁り水」とは「既知なるもの」として人生や、その穢れのことであり、蒼海のもとで鳴り響いているのは「未知なるもの」なのではないでしょうか。あなたも、たとえすぐにはそうした響きを聴くことができなかったとしても、少なくともそれを待つことの大切さを痛感していくべし。
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今週のうお座の運勢
illustration by ニシイズミユカ
歴史をつむぐ
今週のうお座は、ふと自分を立ち止まらせるための歴史を紡いでいこうとするような星回り。
SNS時代の始まりとも言える2010年代を経て、今やますます歴史的な構築が嫌われる傾向が強くなっているように感じます。例えばTwitterは、従来なら直接アクセスするための相当な手間や努力を経なければ出会えなかったような、思いがけない相手や話題との横断的なつながりを容易くしましたが、一方で、アーカイブ機能がないために、あらゆるものが瞬時に忘却されては、あらたな話題や人物が登場して、というサイクルを繰り返していきます。
そして、そこで自身のツイートのいいねやRTの数に一喜一憂したり、タイムラインを埋める話題のランダム性によってその時の気分が振り回されていき、結果的に、ますます快楽報酬の輪をまわすスピードをあげていくことになる。
そうした脳を消費や快楽へと駆り立てる輪の回転をとめ、自身のリアリティを等身大の身体性へと繋ぎとめていくためには、立ち止まるための歴史が必要なのではないでしょうか。あなたもまた、何かを主張したり、関係したり、対話をしたりしていくための「場」を少しでも深く、広げていくための時間をつくっていきたいところです。
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