「妊娠5か月で妻のがん発覚」息子を抱き、お母さんになった喜びを噛み締めながら旅立つまで「最期まで妻らしかった」
「子どもは諦めて、すぐ治療を…」。妊娠5か月目にして妻・睦さんに発覚したステージ3の直腸がん。出産と治療の選択肢が迫られるなかでくだした清水浩司さん夫婦の決断と、「最期まで彼女らしかった」という妻と過ごした493日間のお話を伺いました。
【写真】旅立つ2か月前、友人たちが用意してくれた手作りの結婚式で涙する睦さん (全11枚)
妊娠5か月で妻のがんが発覚した
── 17年来の友人だった睦さんと37歳で結婚した清水浩司さん。入籍から半年後、妊娠5か月だった睦さんに直腸がんが見つかります。夫婦としての生活が始まり、子どもの誕生を心待ちにしていた矢先のことでした。突然の告知を、当時はどう受け止めたのでしょう。
清水さん:結婚して新生活が始まり、すぐに妊娠がわかりました。おめでたい知らせが続いたことで、僕たちも周囲も浮き足立ち、お祭り騒ぎのような状態でした。
そんななか、腸に腫瘍があると診断されていた睦さんから、仕事中に突然電話があり「腫瘍、がんだった」と告げられたんです。急いで帰宅しましたが、ふたりとも頭が追いつかず、現実を受け止められなくて。翌週、大きな病院で再検査を受けると、リンパ節転移を伴うステージ3だと告げられ、「これは本当に自分たちの身に起きていることなんだ」と事の重大さをようやく実感しました。
── 妊娠中のがん発覚。医師からは、どんな選択肢を示されたのでしょうか。
清水さん:お腹の子どもを諦めてすぐに治療に入るか、出産できる時期まで治療を待つか、という2つの選択肢でした。あと10日ほど待てば、帝王切開で子どもを取り出せる週数に届く状況だったんです。睦さんの親友からは、彼女の体を心配して「子どもは諦めて、すぐ治療を始めて!」と言われましたが、僕たちは10日待って産むほうを選びました。何より、彼女自身の「産みたい」という意志が強かった。最終的には2人で決めました。
── その後、妊娠28週、1481グラムでお子さんを出産されました。初めて対面したときは、どんな思いでしたか。
清水さん:息子はすぐNICUの保育器に入りました。本当に小さくて全身に細い管がたくさんついていました。それでもカンガルーケア(生まれたばかりの赤ちゃんと母親、または父親が直接素肌で触れ合うように胸に抱くケア方法)で抱かせてもらい、直接触れられたことはすごく嬉しかったですね。そのあとも入院中の睦さんと事あるごとに窓越しに息子を見に行って、「かわいいねぇ~」なんて言いながら(笑)。ふたりで息子の姿を見ることができたのは、大きな喜びでした。
── 出産直前には、夫婦名義のブログ『がんフーフー日記』も始めています。書くことは、清水さんにとってどんな意味を持っていたのでしょうか。
清水さん:最初は、共通の友人たちに状況を知らせる連絡板のようなつもりでした。見舞いに行って睦さんと話したあと、感じたことや考えたことを文章にすることで、頭の中が整理できたんです。睦さんも読むので、すべてをそのまま書けるわけではありませんが、面と向かっては言えない思いを伝える場所にもなっていました。
誰かが自分たちの状況を知っていてくれることや、友人たちの励ましにも救われました。理不尽な出来事も、あえてユーモアを交えて書くことで、少し距離を置いて見られるところもありました。「自分がいま人生でとても大切な状況に立たされている」と感じていて、闘病の経過だけでなく、そのとき自分たちが何を感じ、周囲の人たちと何を交わしたのか。それを言葉にして残しておきたかったんです。
「私の余命はどれくらいですか?」
── 出産後、抗がん剤治療を続けながら、ようやく家族3人の生活が始まります。しかし、穏やかな時間は長くは続きませんでした。
清水さん:睦さんは30代で体力もあるし、子どもの存在が生きる力になるはずだと信じていました。ところが12月中旬、主治医から突然「ひとりで病院に来てほしい」と電話があったんです。翌日病院へ行くと、肺と腹部への転移が進んでいて、余命についても「あと数か月」という話が出て…。「これはもう助からない」と直感し、目の前が真っ暗になりました。
当時は放射線や抗がん剤による治療に加え、腫瘍が腸を圧迫して腸閉塞も起こしていました。お腹に便や水、ガスがたまり、腹部の張りや嘔吐感、食欲不振、だるさ、強い痛みによる不眠にも苦しんでいたんです。僕はその苦しさをそばで見ています。あれだけきつい治療に耐えてきたのにがんは治まるどころか進行している。できるすべての治療をやっているのに、がんの増殖するスピードが速すぎる…完全に心が折れました。
しかも先生からは、「そのことを奥さんに伝えるかどうかは、あなたが決めてください」と言われたんです。
── あまりに重い選択です…。睦さんにはどう伝えたのでしょうか。
清水さん:彼女の性格を考えると、転移のことをそのまま伝えたらショックで生きる気力を失ってしまうかもしれない。でも何も知らないまま病状が進めば、やりたいことをする時間さえ失ってしまう。本当に悩みました。その結果、家族や友人とも相談して、転移という事実は伝えず、「薬の効きがあまりよくないから、やりたいことがあるなら早いうちにやろう。故郷の福島に帰ることも考えよう」とボカした状態で告知することにしました。医師にもその方向で話をしてもらうよう調整しました。
ところが、その告知の際、睦さんが突然、「先生、私の余命はどれくらいなんですか?」と聞いたんです。その瞬間、その場にいた全員の顔が引きつりました。先生も苦しそうに顔を歪め、ひと呼吸置いて、「一般的には2~3年と言われますが…」と答えました。彼女はそれ以上、質問を続けませんでした。
── その後も、抗がん剤を続けるか、残された時間を穏やかに過ごすか。睦さんの気持ちは揺れ続けたそうですね。
清水さん:僕たち周囲は、完治を目指すより、残された時間をできるだけ穏やかに過ごしてほしいと考えるようになっていました。でも本人にとって、治療をやめることは「治るかもしれない」「死なずにすむかもしれない」という希望を手放すことでもあるんですよね。
一度は「抗がん剤をやめて1か月しか生きられなくても、元気な体で息子と1か月過ごすほうがいいのかな」と決心しても、数日後には「もう1回治療したい」と気持ちが変わりました。「新しい薬が出た」と聞けば、それが劇的に効くかもしれないと希望を持ち「試してみたい」と言いました。人は生きることを簡単には諦められないんだと実感しました。「あのとき彼女に何と言えばよかったのか」「もっと違う接し方ができたんじゃないか」、今でも考えることがあります。
生き様と死に様は、どこかでつながっている
── 闘病は患者本人だけでなく、一番近くで支える家族の心身もすり減らしていきます。当時、清水さん自身はどんな状態だったのでしょうか。
清水さん:仕事に没頭している間だけは現実から逃れられましたし、ブログを書くことも自分を保つ支えになっていました。でも実際には、五感を常に張りつめて、感情を湯水のように使っている状態でした。自分にとって出産もがん闘病も初めての経験で、さらに睦さんのご両親は高齢、すべてが自分の肩にかかっているという感覚がありました。
睦さんが死への恐怖をあらわにすることもありました。そんなとき、何か言葉をかけようとしても、何を言っても嘘になるような気がしてしまう。肩を撫でたり、手を握ったり、一緒に黙っていたり、本当にそばにいることしかできませんでした。その一方で、息子の世話も始まり、仕事をし、ブログも書く。彼女の病状がどう転ぶかわからないなかで、目の前で起きることに一つひとつ必死に対応していく日々でした。
自分の限界値を超えている自覚はありましたが「今は立ち止まれない」と思っていました。後でガタが来ても仕方がないというか、エネルギーと感情の前借りをしている状態というか。今振り返ると、異様なテンションで生きていましたね。
── そんな張り詰めた日々のなか、友人たちがサプライズでイベントを開いてくれたそうですね。
清水さん:睦さんが亡くなる2か月前のゴールデンウィーク、福島へ一時帰郷したときのことです。友人たちが「ヨメハゲ(=ヨメを励ます)フェス」と題したイベントを企画してくれて、実家近くの海沿いの公園に40~50人ほどが集まってくれました。
公園で結婚式まで用意されていて。僕たちは式を挙げていなかったので、ドレスとティアラを身につけた睦さんは本当に嬉しそうでしたね。息子をみんなに見せながら「お母さんになったよ」と話していました。彼女がどれだけ周囲に愛されていたのかを実感しました。
「若くして亡くなってかわいそうだ」と言われますが、あんなふうに友人たちの愛情を一身に受け取る時間があったことは、ある意味で幸せだったんじゃないかなのかもしれないと思うんです。僕自身、「自分が死ぬときに、どれだけの人が集まってくれるだろうか」と少し羨ましくもありました。
── その後、治療と生活の拠点を、睦さんの実家がある福島県いわき市へ移します。別れのときは、どのように訪れたのでしょうか。
清水さん:フェスのときは嘘みたいに元気で、まさか2か月後に亡くなるとは思っていませんでした。僕自身、あと1、2年は一緒にいられるんじゃないかと思っていたんです。ところが、そこから一気に病状が悪化しました。
睦さんと息子が先にいわきへ移り、僕は会社の退職手続きなどのため川崎に残っていました。その最中、「睦の容態が急変した」と連絡があり、急いで向かいましたが、高速バスの中で「亡くなった」という連絡を受けたんです。最期には立ち会えませんでした。
ただ、立ち会えなかったことをそこまで悔やんではいないんです。睦さんは旅立つ前夜も「今は調子がいいから大丈夫。みんな帰って休んでね」と周囲に言っていたそうです。人に気をつかわせることを申し訳なく思う人でしたから、みんなを帰したあとにそっと旅立ったのも「彼女らしいな」と。生き様と死に様は、どこかでつながっているような気がします。
取材・文:西尾英子 写真:清水浩司
