事務所はクビ、コンビも解散「これでダメなら路上生活かと」スギちゃんが17年間の下積みを経て「ワイルドネタ」にたどりつくまで
「ワイルドだろぉ?」の決め台詞で当時38歳でブレイクしたスギちゃん。上京後最初の事務所はクビになり、その後もアルバイトをしながら下積み生活を17年間続けてようやくつかんだチャンスでした。しかし、その数か月後、収録中に大けがし休業を余儀なくされます。紆余曲折の人生でつかんだものとは。(全4回中の2回)
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名古屋から上京し事務所を転々「ピンでダメなら辞めようと」
── もともとはコンビで活動していたそうですね。
スギちゃん:そうですね。最初は「NSC名古屋」に入ったんです。それで何年かやったんですが、やっぱり売れたいなら上京しなくては…となり、浅井企画にお世話になりました。何年か在籍させてもらったんですが、事務所的には当時売れている若手芸人がいなくて、焦り始めたんですよね。それで、尻を叩くつもりでクビ制度導入をしたんです。3組をクビにするということになり、そこに当てはまってしまったという…。
── そうだったんですね。
スギちゃん:「クビになってどうしよう」となったときに、相方は「他の事務所に行こう」と言い出したんです。でも俺のなかでは「クビになるようなコンビがこの先、通用するのかな」と。それなら、申し訳ないけどコンビは解消して、最後にピンでやって、ダメならもうお笑いは辞めよう、と思いました。ピンでダメだったら、辞めるにしても自分の中で納得がいくと思ったんです。
当時はたまたま、若手芸人の掘り出し番組が増えてきていた時期で。俺も『イツザイ』(テレビ東京系)の「インディーズ芸人」っていう地下芸人を紹介するコーナーに出してもらえることになりました。その番組は、沢村一樹さん、よゐこの濱口さん、マリエさんが審査員で、ネタをやったら3人が「お宝」か「ガラクタ」の札を上げるんです。それで3人とも「ガラクタ」だったら終了なんですが、俺のネタでは沢村さんと濱口さんが「ガラクタ」を上げたものの、マリエさんだけどハマりしてくれて。本当は1週だけの出演だったんですけど、何週も連続で出してもらえることになったんです。
── ブレイクのきっかけにマリエさんが一枚かんでいたなんて…。
スギちゃん:あ、いや、これでブレイクは無理で(笑)。「おっぱい先生」っていうキャラだったんですけど、それでちょっと人気が出て、おっぱい先生の曲でメジャーデビューすることになったんです。「事務所に入らないとCDが出せない」ということで、番組の制作会社の系列事務所に入れてもらいました。ただ、気づいたらその番組も終わり、事務所からは「もういらない」と出されることになってしまって(笑)。
ピンでやってもダメだった、さあどうしようか、と。でも俺、前からサンミュージックってやさしい事務所だと聞いてたから「自分に合うんじゃないか」って思っていたんです。だから「サンミュージックに入ってダメだったら、今度こそ辞めよう」と。
それで、「アイドルスギちゃん」というネタを引っさげてサンミュージックに入りました。でも、だんだんそのネタも飽きられ始めて。「このままじゃヤバイ」と考えたのが、ワイルドなアイドルスギちゃん「ワイドルスギちゃん」だったんです。
38歳のおじさんがノースリーブのGジャン姿でブレイク
── ワイルドネタ誕生の瞬間ですね。
スギちゃん:事務所のライブで「アイドルは卒業だ。ワイルドな部分を見せていくぜ」とワイルドエピソードを言ってお客さんに「ワイルドだろぉ?」って聞いたんです。そしたら、めちゃくちゃウケたんですよ。そこで、俺も事務所の人も「あれっ、アリじゃね?」となって。
最初はまだGジャンではなかったんですけど、それまでほとんど落ちていたオーディションにちょこちょこ受かり始めたんです。それで、ノースリーブのGジャンに変えたら、ことごとく受かるようになって。
── いつネタが完成したんですか?
スギちゃん:2011年11月ごろにでき上がりました。レッドカーペットや特番にも出してもらえるようになって、2012年の『R-1ぐらんぷり』では準優勝しました。そのときは、ワイルドネタができ上がってから4~5か月しか経ってなくて。できたてホヤホヤで勝負できたんです。正直、あのとき『R-1ぐらんぷり』でいい結果が出なくて、もう1年やってたら多分ダメでしたね。当時は自分自身もネタに飽きていなかったし、楽しくてしょうがなかったんで。
── スピード感があったんですね。下積みからブレイクまで、17年近くかかっていますよね。その間、どのようなお気持ちだったのでしょうか。
スギちゃん:ブレイクしたのが38歳なんですけど、その時はもうバイトの面接すら通らなくなっていたので、相当な危機感でした。今は30代後半で芸人を目指してアルバイトしている人も当たり前にいますけど、当時は30代後半でアルバイトしている若手芸人って、もうどうしようもないという感じで。
以前は、俺みたいなおじさんがバッと売れるってことはなかったんです。だから、芸人は売れないと30歳で辞めていました。でも、俺が38歳で売れたんで、劇場に出ている芸人たちは「38歳まではいける!」と勢いづいて、下積みの年齢層を引き上げちゃった。その後、錦鯉が50代でブレイクしたので、「40代の間はまだいける!」となりましたよね。
── 劇場芸人の希望の星になったんですね。
スギちゃん:当時は20代で辞める芸人さんが多かった。だから当時は俺も焦ってましたね。「これで売れなかったら路上生活か」くらいに考えてました。ずっとバイト生活を続けてきて、40歳近くなって「芸人辞めます」となっても、俺に何ができるんだろうって。何の資格もないし、もう会社には入れないだろうから、40歳までバイトしながら続けてダメだったら、もう路上生活だ、人生終わりだ…というくらいに切羽詰まってました。
絶好調が一転、ケガで半年動けず「俺の人生何だったんだ」
── ただ、2012年の『R-1ぐらんぷり』準優後、今度は病気やケガで休むことになりました。
スギちゃん:そうですね。下積み生活を17年間やって、2012年3月に『R-1ぐらんぷり』で準優勝して、いきなり仕事がダダダッと入って。8月までは休みなく働いたんですけど、8月後半に骨折して、一気に白紙になりました。マネージャーからは「9月が一番忙しいよ」って言われていたのに、その9月の仕事を全部飛ばして。胸椎を骨折して、全治半年と言われたんです。
骨折した日は病室で泣きましたよね。「俺の人生何だったんだろう。17年間も下積み生活したのに、たった数か月働いて終わる。セミか?」って(笑)。
病室でテレビを見ていると、俺が出るはずだった番組にサンミュージックの芸人が代わりに出てくれているんですよ。それを見たときも「これ、本当は俺が出ていたのにな」って。もう半年もテレビに出られないなんて、俺はもう終わった、って思っていました。
── でも、半年を待たずに復帰しましたよね?
スギちゃん:そうなんです。入院していた病院が自然治癒を勧めているところで。全治半年と言われたんですけれど、別の病院のボルトの名医を紹介してもらって、3週間くらいで復帰しました。番組スタッフさんと病室で打ち合わせしたりしていましたね。復帰早々、コルセット巻いて『田舎に泊まろう』に行ったりして。
── それは大変でしたね…!
スギちゃん:ただ、これがまたおもしろいもので、俺は当時数か月しかテレビに出てなかったのに、田舎の方のおじいちゃん、おばあちゃんが「ケガしたGジャンの子やんか!」と、ウェルカムな感じで受け入れてくれたんです。ケガの功名、じゃないですけど(笑)。
ご高齢の方ってあんまりお笑い見ないじゃないですか。だから、若手芸人が認知されることって難しいんです。でも、あの事故がニュースになったので、「Gジャンを着た子が骨折した」と覚えてくれてたんですね。
── 先日最終回を迎えた『迷宮グルメ』でも、世界のいろいろな方に助けてもらっている姿が印象的でした。その原型が当時築かれたんですね。
スギちゃん:確かにそうですね。骨折を経て、人のありがたみを知ったところはあります。それまでは、他人に毒づくような人間だったんです。『R-1』で準優勝させてもらって、仕事も楽しくて、でもまたどん底に落ちて…っていうのを経て、みんなに感謝できる人間に変わりましたね。人のことを悪く言わないようにはなりました。
PROFILE スギちゃん
1973年、愛知県生まれ。95年にお笑い芸人として活動開始、2012年「ワイルドだろぉ」の決め台詞で『R-1ぐらんぷり』にて準優勝を勝ち取りブレイク。プライベートでは2児の父でもある。
取材・文/市岡ひかり 写真提供/スギちゃん