前回:「恋がどういうものか、教えます」出張先の公園で、彼女の手を握り…



京子の腰に回された大輝の腕には、そう力は入っておらず、京子が逃げることのできる程には緩めている。

衝動にかられて抱きしめたもののすぐに大輝の中で遠慮が生まれ、少しでも京子の抵抗を感じればやめるつもりだったが、しばらくして唇が離れてもなお、京子は大輝の腕の中にいた。

「耳、冷たくなっちゃってますね」

京子の顔を手のひらで包み、指先で耳に触れた大輝がそう言うと、京子がハッと初めて事態に気がついたような顔になって、大輝の腕から逃れた。

その慌てた態度に、京子はキスを受け入れていたわけではなく、状況を飲み込むまでに時間がかかっていたのだと大輝は苦笑いで理解した。

「どうでした?」

京子が深刻になるのを避けたくて、大輝はわざと軽口をたたく。どうでしたって言われても…と口ごもった京子の手を取ると、しっかりと握り歩きだした。

「オレは正直今、超ハッピーです。でも京子さんがイヤだったなら…ごめんなさい、もうしません。生理的に無理でしたとか言われたら、さすがにへこみますけど」

手を振り払われないことを幸いに、大輝はふざけながら京子の返事を待つ。弘前公園を出たばかりの時、ホテルまで車なら10分、歩けば約30分とグーグルマップに表示されていた。もう少し歩きましょうと歩いてきた今は、ホテルまで徒歩15分程と出ている。

実は大輝は、行きのタクシーの運転手に連絡先をもらっていた。帰りのタクシーが捕まらない場合、連絡をくれたら迎えに行くよと言われていたのだが、もう少し2人で歩きたくて、京子が忘れている様子なのをいいことに、その話を切り出さずにここまできていた。

2人が歩いているのは国道沿いで、ガードレールつきの歩道はあるものの、ほとんど車が通らない田舎道。音といえば、歩道の脇の草むらから時折ガサゴソと動物らしきものが動く程度。

自分達の足音が響く静けさと、街灯の少ない暗闇がまるで2人きりの世界になったかのように心地よいのはきっと、大輝は好きな人と歩いているからだ。

京子はどうなのだろう。大輝がそう思った時、京子が大輝を見上げた。

「イヤはなかった…かな」

大輝が質問してから時間差での京子の答えに、一瞬何を言われたのかわからなくなった大輝が問い直すと、もう一度京子が言った。

「さっきの…イヤではなかったと思う」


イヤだったと言われることを覚悟していた大輝は、その思わぬ反応に理解が追いつかず、へ?という間抜けな反応をしてしまった。すると京子が小さく笑った。

「自分が女性にイヤがられる存在だなんて思ってもいないくせに」
「…そんなことは…」

そう答えたものの大輝はその先の言葉に迷った。確かに自分が女性にモテることは自覚している。言い寄られることの方がほとんどではあるが、好意を伝えて断られたことは一度もない。

ただし、本当に欲しいものが手に入るかは別問題であるのだけれど。うっかり自分のコンプレックスを思い浮かべそうになった大輝は、それをかき消すかのように、慌てて京子に答えた。

「確かに、ちょっとは自信があるのかも」

ちょっとの自信じゃないでしょうと京子は笑って続けた。

「あなたはきっと、女性が自分を受け入れるタイミングを読み取ることができるんじゃないかな」

それって…と大輝は思った。京子のその言い方はまるで。

「京子さんも今、オレを受け入れてくれたってことですか」
「驚いたけれど…まあそう、かな。だから困って…今すごく不思議な気持ちで戸惑ってる」




京子は大輝から目線を逸らして、私ね、と続けた。

「あなたの家から朝帰りした時、罪悪感で焦ってしまったの。カドくん…夫に知られたらなんて言い訳しようって。彼にバレたくないって思った。でも今はね、罪悪感じゃなくて…なんか発見した気持ちというか。

変かもしれないけど、自分がカドくん以外の人とキスしても平気なんだなぁって。私そういうことってカドくんとしかしたことなかったから。カドくんに言いたいくらいだもん。私も他の人とキスしたから、もうあんまり自分を責めなくてもいいよって」

― 言ってることが…めちゃくちゃだ。

京子は自分で思っているよりも、心が壊れているのだろうと大輝は切なくなった。裏切った相手をただ憎んで責めればよいのにそれができず、至極真面目に自分の感情を分析しようとしてバランスを崩している。それでも相手を気遣うことをやめられないなんて。

恋を教えてと言われたことは大輝にとっては都合のいい事だ。めちゃくちゃに甘やかして自分に依存させることができたら、どんなにいいだろう。そんな誘惑と京子を楽にしたいという気持ちが入り乱れながら大輝は言った。

「つまりオレとのキス、別に大したことなかったってことですよね?」

今度は京子が、え?と間抜けな反応をした。

「確かにキスってそんなに重く考えることじゃないのかも。お互い気持ちいいし、ただ楽しめばいい」
「…」
「…もう一回、試してみます?」

立ち止まった大輝につられるように京子の歩みも止まり、見つめ合った。今度は強引に引き寄せることはせず、大輝は京子の反応を待つ。


「オレ、本気になった恋っていつもうまくいかないんです。だから京子さんへの思いもきっと実らない。でもただ…今、あなたの恋の練習台に、疑似恋愛の相手になれるならそれだけでいい。そう思ってます」

京子の瞳がもう一度揺れた。そしてその手がおずおずと、大輝のトレンチコートの袖をつかんだ。それを合図に大輝の唇が、京子の髪、額、頬、を辿った。そして唇が重なる。

そして、そのキスは終わらなかった。1度歩きだしてもまた唇を寄せ合い、何度も繰り返しながら歩く。ホテルに着いた頃にはもう、離れるという選択肢など存在しないかのように、2人は自然に大輝の部屋に入った。

「オレのせいにして」

大輝は何度も京子にそうささやき、京子の思考を奪っていった。




うっすらと日の光を感じ、大輝はぼんやりと目を開けた。朝に弱く覚醒するまでに時間がかかる大輝は、寝転んだままゆっくりと周囲を見渡す。ああここは青森のホテルの部屋だったと認識していると、おはよう、と言う声がした。

はじかれたように起き上がると、バスルームから出てきたのであろう京子が立っていた。きりっと髪を1つにまとめて、服も着替え、バスローブを手に持っている。

「…おはよう、ございます」
「…今日、8時にはホテルを出ないと間に合わないから。チェックアウトもしてね」

ベッドサイドの時計を見ると、7時を過ぎたところだった。部屋に戻るねとドアに向かった京子を大輝が、待ってくださいと慌てて追いかけ、後ろから抱きしめる。

「京子さん、もうちょっと余韻とか…」
「……服を着て」

京子の反応で、自分がボクサーパンツ一枚なことに気がついた大輝は苦笑しながらも、抱きしめた腕は離さなかった。

「パパっと準備するんで、コーヒー飲みに行きましょうよ」
「……無理です」
「なんで無理?あ、もしかして京子さん照れてます?」

京子は振り返らず返事もない。でもその小さな耳が真っ赤に染まっている。大輝は愛おしさで、もっと意地悪が言いたくなった。

「…今日は髪、おろした方がいいですよ」
「……どうして?」
「首の後ろ。オレがつけた跡が見えちゃうから」

キスマーク、とささやきながら京子の首の後ろ、その赤い跡を、トントンと指で叩くと、耳だけじゃなく顔全体を真っ赤に染めた京子が、勢いよく大輝の腕から逃れた。

慌てて髪を下し、首筋を隠すように整える様子がかわいくて、もう一度抱きしめようとしたけれどすり抜けられてしまう。

「…コーヒーは飲みに行きません。8時にロビーで。遅刻しないように」

いつもより少し早口、講師の口調でそう言うと、京子は振り返らず部屋を出て行った。

― あ、ストール。

京子の桜色のストールがベッドサイドのソファーに置かれたままだった。それを手にとろうと歩みよった時、大輝の携帯が着信した。コートのポケットの中に入れっぱなしになっていたそれを取り出すと、親友・勇太からのLINEだった。


≪明日合コン。19時青山。OK?というか強制参加で≫

無理、と返信するなり既読になり、すぐ次が来た。

≪そこをなんとか。大ちゃんの出欠次第で女子のテンションを激変するから≫
≪絶対無理。しばらくそういうの無しで≫
≪え?あ、オレ察し。そういえば人妻ちゃんと出張って言ってましたね、あなた。もしかして、やっちゃった?≫
≪うるさい。とにかく無理≫

勘の良すぎる親友に苦笑いしながら携帯をベッドに放り投げると、大輝はシャワーを浴びようとバスルームに入った。水滴のないそこには京子が使った形跡はなく、それに少しがっかりした自分が気持ち悪くて笑いがこみ上げる。

― オレ、はしゃいじゃってるな。

これが最初で最後になったとしても。自分に甘えてくれた京子の笑顔とぬくもりの余韻に大輝は幸せを感じていた。




大輝に指摘された首筋の跡がきちんと隠れているかどうか、その日は何度も心配になり、やたらと髪を触ってしまう自分が京子はとても恥ずかしかった。

青森出張2日目の仕事は、地元企業が主催の高校生映画祭の審査員。会場で待ち合わせていた教授に、あれ?門倉くんなんか今日は雰囲気違うね、と言われて焦り、いつもは結んでいる髪を下ろされてるからじゃないですか、と答えた大輝を思わず睨んでしまった。

「心配なら、巻いておいたらどうですか?」

と大輝の部屋に忘れていたらしいストールを渡されて固まってしまい、また大輝に笑われる。

「そうやって、オレのこと沢山意識してくれるのうれしい」

耳元で小さくささやかれて、京子はどうして私は…と昨夜の自分が信じられずにいた。2度目のキスもその後も、引き寄せられブレーキが利かなくなるような感覚は、京子にとって生まれて初めてのものだった。

― これでもう、私にカドくんを責める資格はない。

行動の原動力は崇への当てつけか?対等になりたかった?そのために大輝を利用したのだろうか?まるで他人事のようにどんどん疑問が湧いてくるが、その答えは一向に見つけられず、堂々巡りしている。

「お兄さん、イケメン過ぎてヤバ。美!!語彙力なくなるぅー!」
「彼女いるんですかぁ?そりゃいますよね!!!」
「今度、私たちの映画に出てください!」

きゃぁきゃぁという歓声に目をやると、会場の撤収作業の手伝いをしていた大輝が、映画祭に参加していた女子高生たちにものすごい勢いで取り囲まれている。

「友坂大輝という男はどこにいっても騒ぎになるな。誰にでも優しいのがまたいかん」

女子高生たちに一緒に写真をと頼まれ、イヤな顔一つをせず応え続ける大輝に、アシスタントの人選を間違えたかもしれん、と香川教授がため息をついた。そんな教授を笑いながら京子はふと思った。もし大輝がこの青森に同行していなければ。

― 彼と関係を持つことがあっただろうか。

そして。

この時の京子は、まだ知る由もなかった。

「あの日、青森に行かなければ…って、今は少しだけ後悔してるよ」

そんな大輝の言葉に、自分が涙する日が来ることを。

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▶1話目はこちら:24歳の美男子が溺れた、34歳の人妻。ベッドで腕の中に彼女を入れるだけで幸せで…

次回は、4月20日 土曜更新予定!