28歳女の誕生日を、男女4人でホテルで祝うはずが…。女2人が深く傷ついたワケ
前回:サイコパスな元夫が強制してきた、一人息子の海外留学。28歳女が思わず口にしたコト
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「…あなたのやり方は…違うと思います……タケルくんが本当に何を望んでいるのかを、きちんと聞いてあげてください」
宝ちゃん!?という愛さんの今日一番の大きな声、そして、タケフミさんの強い視線を受けても止まれなかった。
「…タケルくんの気持ちはもちろんですけど、愛さんの気持ちもきちんと聞いてあげて欲しいんです」
元カレにフラれた時でさえ、はっきりと意見をぶつけることができなかった私が、今はどうしても言わなければという衝動に突き動かされている。
この場に雄大さんや大輝くんがいたら、間違いなく愛さんを助けるだろう。不幸にもここにいるのは頼れるあの2人ではなく私だけど、祥吾を論破してくれた大輝くんのように…とまではいかなくても、言葉を失った愛さんの代わりに、今、私が言えることがある気がしたのだ。
「まずは今、タケルくんがどんな表情をしているのか、きちんと見てあげてください。親なら当然じゃないですか?こんな状況、部外者の私が見てもおかしいです」
「……宝ちゃん、もういいから」
「愛さん、いいわけないです。タケルくんも愛さんもそんなに辛そうな顔で…いい、なんてことは絶対ないです」
いつもの愛さんらしくない、なぜ黙っているんですか?という気持ちで私の語尾は強くなった。見つめる私に何かを答えようと愛さんの唇が動きかけたけれど、その言葉はタケフミさんに奪われた。
「お嬢さん、まずはあなたの名前を聞きましょうか」
名乗らなくていいという愛さんの言葉と、佐々木宝です、という私の自己紹介が重なった。えっ?と愛さんの方を見た瞬間、今日初めて声を上げて笑ったタケフミさんが言った。
「宝さん、か。その名前だけで、あなたのご両親がどんな人かわかるね」
同じようなことを、愛さんにも言われた。でも好意に満ちていた愛さんとは違って、今のタケフミさんの言葉が良い意味で使われていないことくらい私にもわかっていたけど。
「自分達のDNAを持って生まれてきた、ただそれだけで、その子を無条件に慈しむことができる平凡で幸せなご両親。世間からなんの使命も与えられず、期待もされていない能天気な中流階級。いや、もしかしたら中流以下かな?」
予想をはるかに超えた侮蔑的な表現に、怒りを覚えるよりも呆気にとられた私の手を、愛さんが、もういい、宝ちゃん行こう、と引っ張り、立ち上がらせようとした。
「愛、いいのか?今出て行けば、さっきの私の提案をお前がのんでくれたものと解釈して動くぞ」
― 提案?あれは提案なんかじゃない。
一方的に決定事項だと言ったくせに、からかうような口調で意地悪な腹立たしい。
「宝ちゃんを下まで送ったら、私はまた戻ってきます。だから…」
「宝さんが望んでこの話し合いに参加したんだから、最後まで責任をもって見届けてもらわないと。違うか?」
私は言い争う両親を前におとなしく座っているタケルくんを見た。うつむき加減ではあるけれど、こちらの様子をうかがっているのが分かって切なくなった。華奢で小さな男の子がうつむいて耐えている姿を見るのはとても苦しい。
「…愛さん、私を心配してくれてるんだったら、私、大丈夫です。座りましょう」
「…宝ちゃん、そういうことじゃないの…」
「私なら本当に大丈夫です」
私のことよりタケルくんをと言った私に、愛さんの困ったような目が、私とタケルくんの間を揺らいだ。
「宝さんがそう言ってくれてるのだから、愛、座りなさい」
愛さんの視線がタケルくんにもう一度動いて、私の手を離し、あきらめたように元の位置に座った。それを満足げに見届けたタケフミさんが、ところで、と言った。
「宝さんは、どこまでうちの事情をご存じなのかな?」
「…事情?」
「ええ。どうして我々が離婚して、どうしてタケルが私と暮らしているのかということですよ」
― 正直に話してはいけない気がする。
そう思ったのに。
「…ああ、その顔はそこそこの事情をご存じなんですね」
宝さんはわかりやすくていいなぁと、タケフミさんが愛さんを見た。
「愛、お前、どこまで喋ったんだ?」
「愛さんからは何も聞いていません」
愛さんの立場が悪くなる気がして、思わず答えてしまった。タケフミさんの、にやり、と言う笑顔にゾクッとする。
「愛さんからはということは。違う誰かから聞いたんですね。予想してみましょうか。私と愛が離婚した時から愛の周辺にいて…今も愛と変わらぬ付き合いがあってあなたが知り合う機会があるような人物」
「…」
「…川上雄大とかいう、不動産業の男」
― 雄大さんが私に話してもまずいことなのだろうか。
ただ離婚のいきさつを口伝に聞くことが悪いことだとは思えず私は困惑した。でもタカフミさんのまるで尋問のような話運び、そして額に手を当てうつむく愛さんを見ていると自分がひどい失態をした気持ちになり、心拍がまた上がり始める。
「あの男がなんと言ったか知りませんが、あの男こそ離婚の原因。愛の不倫相手ですから」
― 愛さんと雄大さんが不倫?
そんなわけない。私がそう思った瞬間、愛さんが言った。
「タケルの前ではやめてくださいと何度もお願いしたはずです」
「事実なのだから仕方がない」
「何度もいいますが、事実ではありません。あなたは自分が有利になるために…」
愛さんの言葉がタケルくんの視線を受けて止まり笑顔を作った。その笑顔は少しぎこちなかったけれど、大丈夫だからね、ごめんね、とタケルくんを安心させようとしている。そして愛さんがその先の言葉を続けることはなかった。なかったのに。
「有利になるために?私が、お前とあの男の関係を捏造したとでもいいたいのか?お前がこの子を置いて…タケルをほったらかしてあの男に会いに行っていたということは事実だろう?」
「タケル、違うよ。ママはあなたをほったらかしになんかしない。本当よ。そんなことは絶対ないからね。あなたより大事なものはないって、ママいつも言ってるよね」
愛さんの言葉にタケルくんがうつむいた。それを見た愛さんが眉間にシワを寄せ、唇をかみしめた。
10歳の子どもが、不倫という言葉の意味を理解しているかどうかはわからない。でもなんという父親だろうか。どんな神経をしていれば、母親が他の男に会いに行ったなどの表現を、母を慕う子の前で平然とできるのだろう。
愛さんは不倫アレルギーだし、雄大さんは、不倫なんて、一番効率の悪い行為で不毛だと一笑していた。そんな2人の間で不倫関係が成り立つわけがない。
タケルくん、あなたのお母さんは絶対に不倫なんかしていない。あなたをほったらかして誰かに会いに行くような人じゃない。その気持ちを込めて、タケルくんを見つめたけれど、うつむいたその顔は上がらないままだ。
― そもそも、不倫も離婚の原因もこの人のはずなのに…!
こんなにも平然とウソを真実のように話せる人がいることに驚く。愛さんがタケフミさんの不実を責めないのはきっと、タケルくんの前だからだろう。どんな人でもタケルくんにとってはたった一人の父親だから。
その愛さんの気遣いを無遠慮に踏みにじる最低な男。そんな男が宝さん、と私を呼んだ。
「タケルは背負う者の務めと共に生まれてきた。先ほどあなたは、親なら当然とかおっしゃっていましたが、私は親だからこそ、この子のために動いている。子に一番適した教育を施すことが親の務めです。それを…」
タケフミさんが愛さんを見る。
「無暗に甘やかす存在は、うちには必要無いんですよ、母と名乗り続けたいのならば、最低限のルールを守るべきだったのに、今回、愛がルール違反をしたわけです」
「…」
「携帯を買い与えて、その上進路に口出しをしてくるのならば、もう終わりだ」
「…申し訳ありませんでした。…口を出すつもりはなかったんです…」
「もう遅い」
― 愛さん!?なんで謝るんですか…!?
頭を下げた愛さんに驚いた。愛さんは悪くない。携帯を渡したことは契約違反だったのかもしれないけれど、1ヶ月に1度しか会えないわが子に頼られたなら、親なら誰しも我が子を救える術を探すはずで、その感情をわかろうとしない父親が存在することに憤る。
そして、その“わかろうとしない父親”は言った。
「タケル、お前の母は、もうこの人じゃない」
タケルくんが顔を上げた。その視線が母を、父をさまよう。
「今一緒に住んで、お前の面倒を見てくれている人にきちんと感謝しなさい。愛、お前がこの子に執着するせいで、この子は今の母親に感謝ができないでいる。タケル、お前ももういい加減に自覚しなさい。この人は、これからのお前の人生には必要ない人だ」
愛さんは黙ったままだった。ひどい言葉は加速するのに愛さんの沈黙の時間が続けば続く程、私の怒りは増幅してくような気がした。愛さんはこんなことを言われていい人じゃない。そしてタケルくんも、こんなことを言われて我慢する必要はない。そう思うと、もう耐えられなかった。
「…愛さんに謝ってください。タケルくんにも謝ってください」
愛さんが顔を上げ、タケフミさんが私を見た。
「タケルくんと暮らす未来を夢見て頑張っている愛さんを、母親じゃないって言ったこと、謝って撤回してください」
「…宝ちゃん!」
「…なるほど?……愛はタケルと暮らしたいのか?」
「息子と暮らしたくない母親がいると思いますか?…タケルくんにも謝ってください。タケルくんのお母さんのことを必要ないと言ったことを」
タケルくんが驚いたようにこちらを見たかと思うと、その大きな瞳に涙が浮かびあがり、瞬きと共にこぼれた。慌てたように目をこすってごまかす仕草に、私までもらい泣きしそうになったけれどぐっとこらえる。
「…私が部外者で事情だってよく理解していないのは承知しています。でも、両親のケンカというか…大人の都合をタケルくんに押し付けるのはあまりにひどいし、大人の勝手で見ていられません。普通は…子どもの前でする話ではありません」
「…宝ちゃん、もう黙って」
私を止めた愛さんを一瞥もせず、タケフミさんは言った。
「宝さん、タケルは選ばれた子なんですよ。あなたが言う普通とは違う」
タケフミさんの顔にもう笑顔はなかった。
「タケルは将来、何万人といる従業員の生活や事業を守っていかなければならない。日本や世界を動かす立場になるためには強くならなければならない。これくらいのことが辛いと思う精神ではダメです。実の母親であろうと、必要なければ切る。そうでなければ…」
「切るとか言っちゃダメです。母親を切るとかそんなこと、絶対に…」
― 子どもに聞かせたらだめだ。
私に言葉を遮られたタケフミさんが気分を害した目で睨んでくる。でも怖くはなかった。私はただタケルくんが心配だった。うつむいたままのタケルくんの表情は見えないけれど、胸が痛んでもう一度言った。
「大人はともかく、まずはタケルくんの気持ちを一番大切に…」
「…帰らせてください。宝ちゃん、行くよ」
愛さんが勢いよく立ち上がって、今度は私の言葉が遮られた。愛さんはその勢いのままタケルくんに歩み寄り、目線を合わせてぎゅうっと抱きしめた。
「愛、やめろ」
タケフミさんが止めるのも聞かず、抱擁はしばらく続いた。それは今日唯一というべき、愛さんがタケフミさんに歯向かった瞬間だった。愛さんはタケフミさんからは死角になるタケルくんの耳元で何かをささやいたけれど、その言葉は私にも聞こえなかった。
「愛、話は終わっていない。今帰ることはお前にとっても不利になると思わないか?それに…」
タケフミさんが立ち上がり、タケルくんを愛さんから引きはがした。そして言った。
「私は危険の芽はどんなに小さくても摘むよ。勝負は勝たねば意味がないからね」
愛さんは、またご連絡します、とだけつぶやき私の手を引くと、一度も振り返らないまま外に出た。私が最後に見たのは、いつまでもこちらを見ていた、タケルくんのその表情だった。
マンションを出た瞬間、黒塗りの車の運転手が待っていた。お送りするように言われています、と私たちに寄ってきたが、愛さんはそれを断り、通りに出てタクシーを捕まえた。
「青山グランドホテルまで」
タクシーに乗り込み行き先を告げると、無言のまま携帯を取り出した。大輝くんへのLINEかなと思っていると、その後、勢いよく私を見た。
「私最初に、何を言われてもしゃべらないで、って言ったよね」
声のトーンが、いつもの愛さんと違っていることに、返事を失った。
「宝ちゃんが私を思って、傍にいてくれたのはわかってる。でも宝ちゃん、すごく余計な事を言った。事情を知らずに、踏み込んで、私の邪魔をした。それはわかってる?」
「…私が…邪魔を…?」
「宝ちゃんのチープな正義感も、宝ちゃんが育った田舎のあったかい家庭での理論も、ここでは…私と彼の間には通用しない。……私が今までどれだけ、あの子と暮らすために……」
一気にまくし立てた愛さんが言葉に詰まり、私から目を逸らして窓の外を見た。その横顔と耳が、興奮のせいか赤くなっている。私は愛さんを怒らせてしまったことに激しく動揺し、思わず、ごめんなさい、と言った。
「…何に対して?宝ちゃん、今、何に対して謝ったの?わかってないよね?」
「…あ…」
雄大さんに指摘された、無意識の謝りグセ。それがまた出てしまったのかと慌てて血の気が引いた。のどが渇いて上手く言葉が出ない。
一度も私をみないまま、タクシーが止まった。
「…降りて。スイートルームに、大輝がいる。もう少ししたら雄大もくるはずだから。降りたら大輝に連絡して」
私だけが降ろされ、タクシーは愛さんを乗せたまま発進した。
携帯が着信し愛さんからかと慌てて取り出すと、それは、着いたみたいだね。オレももう部屋にいます、という大輝くんからのLINEだった。
今日は宝ちゃんをお祝いする気にならない、ごめんね、と言った愛さんの悲しそうな声が、いつまでも耳に残り、私はタクシーが去った方向を見つめたまま、しばらく動けなかった。
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もう着いてるはずなのにいつまでも上がってこないから…と下まで迎えに来てくれた大輝くんに連れられて入った最上階のスイートルームは、ハッピーバースデーというバルーンと、いくつかの花束で飾られていた。
「愛さん、怒って帰っちゃったのかぁ」
今日の出来事、タクシーでの愛さんの様子を説明した私に大輝くんはそう言った。それから、でも愛さん、もうすぐホテルに着くから宝ちゃんをよろしく、ってちゃんとLINEしてくれたんだよ、と教えてくれた。
あんなに怒らせたのにそれでも私を気遣ってくれる愛さんに、じわっと目の裏があつくなる。涙をなんとかこらえていると、大輝くんが、乾杯しようよ、とシャンパーニュを開けてくれた。
私が生まれた年のシャンパーニュ。これ愛さんが選んでくれたやつだから、愛さんも一緒にお祝いしてるってことで、と大輝くんが笑う。
28歳おめでとうと言われてひとくち口に含んだものの、それ以上は飲む気にならずグラスを置いた。大輝くんが、雄大さんが来たら愛さんが何に怒っちゃったのか、もう少し事情が分かると思うよ、と言ってくれた。
「喋らないでって言ったよね」
愛さんはそう言った。邪魔をしたとも言われた。ということは私のあの場での発言に問題があったということだ。どの言葉が?思考を巡らせていると雄大さんが到着した。
いつにもまして、苦い顔で部屋に入ってきた雄大さんは、愛さんから電話で事情を聞いたと前置きしてから言った。
「愛には、タケルくんが15歳になったら一緒に住むっていう目標があったんだけど、その目標が、今日で危うくなったかもしれない。だからナーバスになってるって感じかな」
そんな、まさか。
「…それが…私のせいですか?」
私のせいで、愛さんの一番の願いが壊れるなんて、絶対にあってはならないのに。雄大さんは、まあ細かいことはもう少しちゃんと聞かないと何とも言えないけど、と言ってから続けた。
「そもそも何でついて行ったの?宝ちゃんが、あの2人の話し合いに自分が必要というか、役に立つと判断したんならそれが信じられないんだけど。自分の無力さを自覚しないと、他人も自分も傷つけるってこと学んだ方がいいよ。まあ、連れて行っちゃった愛もアホなんだけどさ」
雄大さん口が悪すぎる、そんな言い方はないでしょ、と咎めた大輝くんが、宝ちゃん大丈夫?と心配そうに私を見ている。何か答えなければ、と思いながらも。
― 無力さを自覚しないと。
雄大さんのその言葉が脳内で繰り返され、記憶の奥底にしまい込んでいたはずの痛みが浮かびあがってきてしまった。それは、アオハルと呼ばれた時代のトラウマ。そのトラウマと、宝ちゃんが私の邪魔をした、と言った愛さんの悲しそうな顔が混じり合う。
「なんか…宝ちゃんが傷ついた顔してるけど、傷ついてるのは愛だからね」
雄大さんの言葉に私は我に返った。そうだ、今は遠い記憶の感傷に浸っている場合ではない。ごめんなさいと頭を下げて、私はさらに詳しい事情の説明を雄大さんにお願いした。
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