突然家を出ていった夫。クローゼットを調べると、中からとんでもないモノが…
◆これまでのあらすじ
夫が調停で自身の財産を公開した。しかし、その額は楓が思っている金額よりもはるかに少なかった。それに、財産の中に楓たちが今住んでいるマンションが入っていない。
「ローンは組んでいないはず…」しかし、後日、夫・光朗が「マンションは分与の対象に入らない」と主張していることを知る。
楓と別居を始めたのは4年前だから、3年前のマンション購入時は財産分与の対象にならないという。事実と違う主張に楓は…。
Vol.9 夫の私物は誰のもの?
楓の皿の上のパンケーキはすっかり冷め、生クリームは溶けて広がっていた。
夫が、いま目の前に座っている松島という女性と付き合っていたことは、すでに楓の中で事実として定着している。そして現状、松島の方が夫よりも信用できそうだというおかしな状況も、楓は受け入れようとしていた。
「まだ、ありますよ。私しか知らないことが」
そう言う松島は、何か企んでいるようにも見える。しかし、なぜだろう。楓は松島を信じたいと思った。
「たとえばどんなこと?といっても、私は夫のことを今まで何も知らなかった。だから、どんなことを聞いても、たぶん私は驚いたり、落胆したりするんだよね」
楓が小さくため息をつくと、その様子を見て松島がクスッと笑った。
「大丈夫ですよ。私もそうでした。彼はどんな女性に対しても素を見せない人。というより、本人すらどれが本当の自分なのか、わからないんじゃないかな」
「どれが本当の自分なのか、わからない?」
楓には松島が言わんとしていることがよくわからず、首を傾げた。
「そう。まるで息を吐くように嘘をついているから、どれが嘘でどれが本当なのか、彼自身もわからないし、考えたこともない。きっとね」
彼の言動のすべてが嘘。
「嘘なんて…」
楓はわずかに狼狽えると同時に、胸の奥には沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。
その怒りが、今松島が言ったことに対してなのか、これまでの夫に対してなのかは、曖昧だった。
「じゃあ、私と娘…花奈との生活も嘘だったと?花奈の将来のために、お受験を考えたり、将来のためにマンションを購入したことも?」
楓の語気が強まる。だが、松島は気の毒そうに頷いた。
「残念ながら、そうです。私だって、マンションを借りてくれたり、結婚を仄めかされたりしたんです。だから、彼のためになんでもしてあげたいと一度は思った」
黙りこくる楓に、松島は続けて言った。
「楓さん、あいつには悪意はないんです。それが彼の日常。嘘なんてついているつもりはない。でも実は…」
松島は、続きを打ち明けるべきか、迷っているようにも見えた。
「実は…何?私に遠慮せずに言って」
頭の中は混乱しっぱなしだが、楓は構わず松島にそうせがむ。
すると松島は、楓の目をじっと見て、静かに言った。
「あいつが関係を持っていた女性は…私だけじゃありません」
「えっ?」
楓はさらに訳がわからなくなった。
松島のことを信じようと思うが、彼女の口から出た事実は楓の想像の域を超えていた。
「私のこと、信じられないですか?私の他にもいたんです。付き合っている女が」
「あの…話が想定外すぎて…」
あまりのことに、すぐに言葉が出てこない。
次から次へといろいろなことが起こり、気持ちが追いついていないというのが正直なところだ。
ひとつ言えるのは、良き夫・光朗はもういない。人格が変わったのか、楓と花奈にだけそう振る舞っていたのかは、楓にとってはもはやどうでもいいことだった。
呆然とする楓を気の毒そうにしばらく見つめていた松島は、深くため息をついたあとにつぶやく。
「じゃあ、私の言っていることが本当かどうか、まずはご自宅で確認してみますか?」
◆
その夜。家に帰った楓は、いつもより少し早く花奈をベッドで寝かしつけた。
「よし」
そう口に出して覚悟を決める。そして、松島が教えてくれたことをひとつひとつ確認し始めるのだった。
まず取り掛かったのは、寝室の片隅にあるデスクトップPCの電源を入れることだ。
「Yahoo!ファイナンスを見て、って言ってたよね…」
松島に指示されたサイトを開く。自動ログインされ、光朗がプライベートで使っているメルアドがアカウント名になっていることがわかる。
「ポートフォリオをチェック…と」
スクロールしてポートフォリオを見ると、松島が言っていたとおり、日本の法人名やアメリカの法人名が連なり、株価が表示されている。
そこには、教えてもらった金融商品がすべて羅列されていた。「ポートフォリオにあるのは、すべてあいつが運用している金融商品」と松島は教えてくれた。
「言ってた銘柄が全部ある…。彼女の言ってることは本当なんだ」
急に心臓がドキドキと波打ち始める。次は、ウォークインクローゼットだ。
置き場所が変わっていなければ、クローゼットの一番奥の隅に、ゼロハリバートンのアタッシュケースが2つ立てかけてあるはず、と松島は言った。
「そんなの見たことないけどなぁ」
呟きながらクローゼットの扉を開ける。奥には、しばらく行っていない海外旅行のためのリモワのトランクが2つあるだけだ。
「松島さん、ゼロハリバートンじゃなくて、リモアの間違いじゃないかな」
服の間を縫って、楓は一番奥のリモアをゴロゴロと引っ張り出した。軽い。中に何も入っていないことがすぐにわかる。
しかし、トランクがあった位置に視線を戻した楓は、ハッと息を飲んだ。
「ゼロハリが1つだけある…」
恐る恐る手を伸ばし、そっと持ち上げた。
「かなり重いかも」
資産価値のあるものが入っている、と、あの時松島は言った。
数字を合わせてロックするダイヤルがある。思い当たる番号がひとつあり、ダイヤルをまわしてみる。
3-2-6。
カチャ。
いとも簡単にロックは解除され、楓はケースを開けることができた。不安と好奇心が入り交じった心境で、ケースの中身を見ると…。
「あれ?こんなに重いのに何も入ってない…。でもこれ、なんだろう?」
アタッシュケースの中は、12の内装に仕切られ、それぞれに丸い小さなクッションが入っている。
「もしかして、腕時計をしまうための?」
光朗はいつも、父親から譲り受けたというロレックスのオイスターバックペーペチュアルを、肌身離さず愛用していた。
だが、いつだっただろう?仕事から帰ってきた夫の手元がきらきらと光っているのに気づき、目をやると、その日はこれまで目にしたことのないヴァシュロン・コンスタンタンの腕時計をつけていたことを思い出す。
ベゼルはぐるりとダイヤモンドで囲まれ、文字盤にも無数のダイヤが配されていた。
「時計、買ったの?素敵ね」と褒めると、「いいだろう?本物にしか見えないよな」と夫は言った。
あの時、「やだ、偽物なんて気づかなかった」と流したが、それ以降ロレックス以外の時計をつけているのを見たことがなかった。
「あれは、本物だったのかも」
楓の中で、いくつかの辻褄が合い始めた。
楓は、すでに空のアタッシュケースをじっと見入り考える。
留守中に夫がやってきたのは、きっと時計のような資産価値のあるものを取りにきたのだろう。
一旦は納得した楓は、ケースを閉じ、元の場所に戻そうと持ち上げる。
けれど、この相変わらずケースは重い。
すでに高級時計は抜かれて空になっているはずなのに、腑に落ちなかった。
「時計が入ってないわりに、このケース重いよね。こんな重くて役に立つ?」
楓はもう一度ケースを床に下ろし、再度開けてみる。ふと思い立ち、時計を入れるための内装をしきりごと持ち上げてみた。すると…
「うわっ!!!!なにこれ?」
仕切りを持ち上げると、その下にはもう一つ革張りの内装があり、中には薄紙に包まれた何かが詰まっていた。
1つ手に取り、包みを開けてみる。
包まれていたのは、習字の書道墨のような小さなバーだ。書道墨と違うのは、そのバーが、金色に輝いていること。
「なんだろう?これ」
何の用途に使うものなのか後で調べようと、楓はスマホで写真を撮った。
元の場所に収める際に、松島の顔が浮かぶ。今撮った写真をそのまま彼女に送ることもできる。だが、1段目には何も入っていなかった。
彼女は1段目に入っていたであろう物についても何か知っているのだろうか?また、今写真を撮った金色のバーについても。
楓自身、松島を恨む気持ちはまったくなかった。だが、そうは言っても彼女はかつての夫の浮気相手。すべてを包み隠さず言いたくない、という気持ちがにわかに湧いてきた。
『ゼロハリバートンはあったけど、中身は空だった』
楓は松島にLINEを送った。
そして「でも、あなたの言っていることは本当のことなのね」とも付け加えた。
◆
小さな事件のような出来事を乗り越えながら日々は過ぎ、10月になった。
「夫が家を出て行ったのが3月。調停が始まったのが7月。そして、今10月じゃない?
調停は1ヶ月に一度だけだからたいして進展してないけど、私の状況は大きく変わったよね」
楓が怒涛のような愚痴を吐いている相手は、幼稚園のママ友の晴子だ。
今日は秋らしく天気の良い土曜日。楓は晴子親子と、公園にやってきている。
「晴子さん、調停が一生終わらなかったらどうしよう?」
「いつかは終わるから大丈夫よ」
晴子に慰められ、楓はため息をつく。
別居したのは今年からなのか?それとも4年前なのか?
調停の間、その“基準日”が話し合いの焦点になっている。
つい先日の調停では、別居したのは3年前じゃなくて今年に入ってからだという反論をしたばかり。その際は、家族仲良く自宅で食事したり、楓の両親も連れ、旅行に行った写真なども証拠として提出した。
光朗側も楓も、主張は一歩も譲らない。財産分与の基準日が今年なのか、それとも3年前なのかは、まったく決まらなかった。
「こんなにプライベートを晒すことになるなんて」
いまや調停の愚痴を吐ける相手は、晴子ぐらいしかいない。子どもたちが遊具で遊んでいるのを見守りながら、2人はベンチに腰を下ろした。
松島さくらの話では、「2年半くらい前から資産が飛躍的に伸びた」らしいから、光朗としては財産分与の金額を下げるためにも、別居は3年前であることを強調したいのだろう。
「パパっと決まる人は早いんだってね。でも養育費の方は割と早く決まるらしいよ」
「そうなんだってね。うちも養育費は決まったよ」
実は、養育費の決定の連絡が、昨日真壁から届いたばかりなのだ。
額面で24万。
夫の公開した年収が額面で約2,000万円だから、養育費は養育費算定表に基づいて計算された金額になる。これについて楓は、異論を唱えることはしなかった。
「本当はもうちょっと増える可能性もあったみたい。でも財産分与で主張するために、養育費は言い値でいいかなって」
「いいーーなぁーーーー」
楓の話を聞いて、晴子は心底羨ましがっているように見える。
「ま、別に養育費なくてもなんとかなってるからいいんだけど。で、夫の嘘ってLINEに書いてあったけど、何が嘘だったの?」
先日の一件については、晴子にはすでにLINEで伝えてあった。
「夫の浮気相手はどうだったの?」
「それが、夫より浮気相手が言ってたことの方が、信用性が高いという…」
楓はため息交じりに、先日の経緯を話す。
「それでね、ゼロハリバートンのアタッシュケースの中身は空だったんだけど、ケースは二重底になってたの。上の内装を外すと、中にこんなのがたくさん入ってて…。
ね、これ何か知ってる?ゲームの駒かなにか?」
楓は先日撮った写メを探し、晴子に見せる。
画面を見るや、晴子は目を見開いた。
「こ、これは…インゴット!え?実際に持ってる人初めてみた!」
訳がわからず楓は聞き返した。
「インゴットってなに?」
「やだ、楓さんってば。インゴットっていうのは、いわゆる…金の延べ棒」
晴子は吹き出し、笑った。
「えっ…これが?」
金の延べ棒なんて、楓にとっては物語にしか出てこないフィクションのアイテムだ。
「ほら、ここにGOLDって刻印されてるじゃない。今だったら金って1g=12,000はするんじゃない?」
「金の延べ棒っていうくらいだから、もっと大きなものだと思ってた…。でも金ってそんなにするんだ」
楓はスマホの画面を改めてまじまじと見た。
「ってことは、これも財産ってことなのかな?あと、Yahoo!ファイナンスのポートフォリオで持ってる銘柄は特定できたから、松島さんから証券会社を聞けば、有価証券がいくらあるのか特定できるかも!」
楓の表情がパッと明るくなる。
「よかったね!応援してるから頑張って!
でもさ、楓さんのご主人、すごいね。インゴットに高級時計に、有価証券って…」
「うん、私も思った。金の亡者みたい…。一緒に住んでいる時は、そんなそぶりまったく見せなかったのに」
娘との今後の生活のために、少しでも多くの財産が欲しい。
だが、欲の塊のような光朗という人と、終わりなく対峙しつづけなくてはならないことへの恐怖は、ますます大きくなっていた。
そして恐怖と同時に増幅していく、精神的なダメージ。
― あぁ、なんでだろう。どうしようもなく、誰かに寄りかかって泣きたい…。
時々見え隠れする弱く脆い自分をどうすればいいのか…。
どれだけ考えても──楓にはわからなかった。
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