◆これまでのあらすじ

離婚調停が始まった楓の元に、見知らぬ女性から電話がかかってきた。松島さくらと名乗るその女性は、とんでもないことを打ち明ける。なんと、楓の夫・光朗と付き合っていたと言うのだ。そして、「楓の調停に協力したい」と言い出すが、信じきれない楓は…。

▶前回:見知らぬ電話番号からの着信。34歳妻が、夫の元カノを名乗る女から「会って話したい」と言われ…




Vol.8 財産を分けるのはいつ基準?


「先生、調停って本当に時間かかるんですね。こんなにノロノロなペースで進むなんて、びっくり」

弁護士事務所の会議室の窓から外を眺めながら、楓はため息をついた。

すでに9月半ば。秋らしい気配は一切感じられず、まだまだ暑い日が続いている。

「こんなもんですよ。でも、養育費はもうすぐ決まりそうですね」

弁護士の真壁の返事を聞いても、楓は窓の外から目を離すことができなかった。

皇居のお堀の周りの柳の枝が、微動だにせずじっと暑さに耐えているように見える。

いつまでも夏。それと同じように、いつまでも続く調停。

その間、松島さくらと名乗る女性が「助けになりたい」と申し出てきたことも手伝って、楓は、終わりと正解のない迷路に迷い込んだ感覚に陥っていた。

― こんなもん、か…。しょうがないけどね。

振り向くと、真壁が分厚い資料をめくりながら、要所要所に付箋を貼っている。そして、そのうちの一つのファイルを取り出し、あるページを開いて楓に向けた。

「楓さん。ところで、財産分与はいくら請求しましょうか?」

楓は不思議そうな顔でファイルを覗き込む。そこには、夫・光朗が公開した所得と財産の一覧が記されている。

金融資産は、ざっと3,000万ほどあるようだ。

「離婚時に分けてもらう財産って、こっちから指定できるんですか??」

すると、真壁はにっこりと頷いた。

「ふっかけるのは、自由じゃない?その金額になるかは別の話ですしね」


財産分与は、夫婦の財産を足して、夫と妻にそれぞれ半分ずつ分けるのが基本。

でもそれはあくまでも、当事者間で話がまとまらなかった場合…というのが、真壁の考えだった。

「例えば、楓さんが1億の財産分与を希望したとします。ご主人はきっと、『それは多すぎる!』と渋りますよね。

でもその後の話し合いの中で、『じゃあ5千万でいいですよ』とこっちが折れて見せれば、ご主人も『お!そりゃ安いな。じゃあ、5千万で!』って気持ちになるかもしれないじゃないですか」




どことなく楽しそうな真壁の話し方に、楓もつられて笑う。そして、真壁から渡されたファイルをざっと流し見た。

「あれ?真壁先生。向こうから提示された財産リストに、今私たちが住んでいるマンションが載ってないみたいですが…」

「それ、私もさっき気づいて、向こうの弁護士に問い合わせたところです」

数年前に購入したマンションが光朗名義で、ローンは返済済みであることは、すでに調べがついている。

「彼のことですから、分与の金額を少しでも減らすために、しれっと抜いたのかもしれないです。

それと、預金もだいぶ少ない感じがします。3,000万ってことはないんじゃないかなぁ。これの半分だと、分与される額はたったの1,500万になっちゃう」

「そうですね…。財産を正しく公表しないのは、よくあることですからね。ま、ちゃんと問い合わせしたので、回答が来るでしょう」

楓の心配を察してか、真壁はなんでもないことのように気軽な口ぶりで答える。

けれど、後日、夫の光朗側の弁護士から戻ってきた回答には、思わぬ事実が記されていたのだった。



3日後。

幼稚園に娘を送った楓が、家に戻ってほっと一息ついた時のことだ。

慌てた様子で真壁が電話をかけてきた。

「楓さん!お伝えしなくちゃいけない事実が発覚したんです。今、お電話大丈夫?」

真壁の口から飛び出してきた“事実”というワードが、楓をドキっとさせた。

「ええ、もちろん。どうなさったんですか?」

すると、真壁は声のトーンを落とし、「先日の財産分与のリストについてのことだ」と言った。

「財産分与のリストに、今お住まいのマンションが載っていない件について、ご主人の弁護士に問い合わせたんです。

そしたら、“あのマンションは分与の対象に入らない”と」

真壁の言っている意味が分からず、楓は思わず「えっ?」と聞き返す。

「ご主人は、4年近く前から別居をしているから、3年前マンションを購入した時点では夫婦関係は破綻しており、マンションは分与の対象ではない、と言っています。

だから、公開した預金も当時の金額らしいんです」

「ええっ?」

真壁の説明を聞いた楓は、今度は大きな驚きの声を上げた。顔がみるみる青ざめていくのが自分でも分かる。




「でも、先生。夫が出ていったのは、今年に入ってからです。それまでは、家にちゃんと帰って来ていました。4年も経ってません!」

大きな声で反論する楓に対し、真壁は淡々と説明を続けた。

「よく聞いてね、楓さん。ご主人側は、賃貸契約書を資料として提出してきました。その契約書によると、確かにマンションを借りているのは4年前なんです」

真壁が読み上げた賃貸契約書に掲載されているという住所は、確かに、光朗の会社からほど近い、聞いていた通りの別宅だ。

とうやら、今年に入ってから部屋を借りたと言っていたのは、大嘘らしい。

光朗は4年も前から、楓に内緒で部屋を借りていた。

苛立ちと不安が楓を襲う。そしてそれ以上に、悲しみも大きかった。

光朗は、こんなことになるずっと前──マンションを購入して幸せだった頃の生活を、楓との結婚生活そのものを、否定しているのだ。

電話を持ったまま呆然と立ち尽くす楓に、真壁は言う。

「離婚前に別居した場合、財産分与の基準は別居日が基準日となります。

なので、別居を始めたのが4年前となると、財産分与の基準日も4年前。マンションは財産分与の対象にはならないということになるんです…」

夫婦の主張が食い違っているのはよくあることだが、調停では財産分与の基準日についても検討していくことになるだろう、と真壁は付け加えた。

真壁の口から告げられる厳しい状況に、楓は全身の力が抜けていくような無力感に苛まれた。

しかし、すぐに気持ちが引き締まる。次の瞬間、真壁の口から飛び出た言葉に、さらなる衝撃を受けたからだ。

「こういうこと言うのもなんですが、もしかしたら女性と暮らすために借りていたものかもしれません。でも、それも証拠がないしね…」

女性。

その一言に、楓は激しい苛立ちを募らせる。と同時に、以前楓に連絡をしてきた、松島さくらの顔が思い浮かんだ。

あの時、松島は「楓の力になりたい」と言った。

それが本心かどうかはわからないし、何か企みがあるのなら、楓はそれに巻き込まれたくなかった。だから、あれ以来彼女とは連絡をとっていない。

けれどあの時、松島はこう言っていた。

『私、あんなヤツ、調停で痛い目に遭えばいいと思ってるんです。なので私の知っていることは、聞かれればなんでも答えます。

その代わり、私に慰謝料の請求とかはしないで欲しいんです。できれば、あいつとの調停で、私の名前を出さないでいただけますか?』

自分のことを一切口外しなければ、楓に対しどんな協力も惜しまない。

そう楓に突きつける松島の表情は、真剣だった。

何かあった時のために、松島との会話の内容は録音してある。しかしながらその録音も、松島に会ったという事実も、今の今まで真壁にも誰にも話すことなく心の中にしまっていた。

こんな事態になってしまった以上、言わないわけにはいかないだろう。

そう感じた楓は意を決して、松島の一件を真壁に打ち明ける。

「先生。実は少し前に…夫と付き合っていたという女性に呼び出されたんです」


「要するに、浮気相手と直接会って話したってこと?」

真壁はたいして驚く様子もなく、楓の話を淡々と聞いていた。

「すみません。お話ししてなくて。女性に口止めされていたので…」

自分は馬鹿正直すぎた。「口外しないで欲しい」という松島からの頼みを、鵜呑みにする必要はなかったのかもしれない。楓は今更ながら後悔した。

だが、楓の気持ちに反し、真壁の声は嬉しそうだ。

「それが本当なら、追加で慰謝料も取れそうね。ね、他に何か聞いたことは?」

「いえ…。信用できなかったので、私の方からは何か聞いたりはしなかったんですよね。でも、私の力になりたいと言っていました。夫のことを相当恨んでいるようで、終始“あいつ”と言っていました」

「うーん…」

電話口から、真壁の唸る声が聞こえる。

「先生?どうかしました?」

「どうもしないですが、ご主人は私たちが思っていた以上に、裏のある方みたいね」

それは、楓も思っていたことだった。

今感じている以上に、夫には裏がある。

松島に会ってからは、特にそう感じざるを得ない。

「私、なぜ何も聞かずに帰ってきちゃったんだろう…」

松島との密会で、なんの機転もきかなかった自分を恨む。けれど、真壁はこともなげに言うのだった。

「あら、今から連絡して聞いてきたらどうでしょう?まずその女性に、会社に近くに借りたマンションのことを聞いてみては?」

「わかりました…」

会いたくないけれど、背に腹はかえられない。楓は渋々、真壁の提案を了承したのだった。



それからすぐに松島さくらに連絡をしてみたものの、意外と忙しく過ごしているらしい。

会う約束を取り付けることができたのは、2週間後の平日の昼間だった。

待ち合わせは、表参道のパンケーキ店に11時。

楓が店に到着すると、松島はすでにテーブルについていて、楽しそうにメニューを眺めていた。

「私、ここのパンケーキを一度食べてみたくて」

楓が席に着くなり、松島は無邪気に話しかけてくる。その様子に、楓はちょっと気を許しそうになってしまった。

「あの、早速ですけど、あなたにいろいろ聞きたくて…」

楓は切り出すが、松島は「まずオーダーしましょ」とメニューを開いて楓に差し出した。

「じゃあ、メープルシロップ with パンケーキをブルーベリーソースで。飲み物はコーヒーを」

楓は仕方なく、目についたものを注文する。その様子を見て、今度は松島の方から切り出した。

「楓さんは、あいつと付き合っていた時のこと聞きたいんですよね?」

「じゃなかったら、ここにはいないです」

楓は少しムッとして答えた。松島は、運ばれてきた水を一口飲むと、自らのスマホをたぐり始める。

「えっと、4年くらい前ですね。たぶん。虎ノ門にあるホテルのバーで、友達を待っている時に知り合って。私、年上好きなんです。あいつ、話も面白いし、オシャレだし…。でも、食事に誘われてすぐOKしたのが間違いでした」

松島がそこまで話した時、焼きたてのパンケーキが運ばれてきた。

「わー!おいしそう」

感嘆の声をあげる松島に対し、楓のテンションは低めだ。




顔では一応笑みを浮かべつつ、カトラリーを手に取る。

「うーん!美味しい。ね?楓さん、美味しくないですか?」

「ええ、美味しい。ところで、話の続きを聞きたいんだけど」

楓が軌道修正すると、松島もハッとして、手にしていたカトラリーを置いた。

「結婚してるなんて、聞いてませんでした。それもお子さんも生まれたばかりなんて」

当時、松島は税理士事務所で働いていて、光朗との仲が深まるにつれ、次第に会社の経理面の相談に乗るようになったそうだ。

松島の年齢は、楓の1つ下の33歳。両親の影響で、20代の頃から給与の一部を投資に回すようにしていたため、同世代よりはお金への関心が強かったらしい。

「あいつの預金の運用について、アドバイスしていたのは私です。それなのに、ある程度まとまった金額に増えた時、彼が言ったんです。『マンションを買う』って。

私、てっきり結婚できるのかと思って…」

ところが、松島の方から「今度、両親に会わせたい」と言ったところ、「それは、まだ早いな」とやんわりと逃げられたという。

「で、そのうちLINEの返事が返ってこなくなって、電話にも出なくなり…ある時、急に『別れたい』と言われたんです。彼が私のために借りてくれたマンションも、出ていってほしいって」




松島は話し合いたいと言ったが、光朗は聞く耳を持たず、「出ていってほしい」の一点張り。

結局松島は、荷物をまとめマンションを出ていったそうだ。

「それが1年前ってことは…。あなたが出ていった後、私に“会社の近くに部屋を借りた”と言い、移り住んだのね」

時間軸の辻褄が合い、楓はなるほどと頷いた。

「出ていく時に、彼が使っていたPCの履歴から、今お住まいのマンションを知りました」

松島は光朗と別れた直後、少しの未練を胸に、北参道までマンションを見に行ったらしい。

そして…妻子と共にエントランスから出てくる光朗を、目撃した。

「ショックでした。彼には幸せな家庭があって、私は資産を運用するためだけに利用されていたんだと知りました」

そんな男と知らず幸せに結婚生活を送っていたという事実が、改めて悔やまれた。

そして、松島が憤る気持ちは、楓にも痛いほどわかった。

「さくらさん、私、あなたを信用する。だから、あなたの恨みを晴らすためにも、他にも知ってることがあったら教えてほしいの」

すると、松島は目を輝かせ、テーブルの上の楓の手を握る。

「まだ、ありますよ。私しか知らないことが」

そう言って、松島は楽しそうに笑った。




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