「え、ここって?」深夜の六本木。終電を逃した25歳女が男に連れて行かれた意外な場所
レストランに一歩足を踏み入れたとき、多くの人は高揚感を感じることだろう。
なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。
これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。
▶前回:いつも“片耳イヤホン”の29歳彼氏。彼女が「やめて」と指摘したら険悪な雰囲気になり…
「朝になれば、私は」恵里菜(25歳)/ 六本木『香妃園』
六本木を「眠らない街」と最初に呼んだのは、いったい誰なんだろう。
土曜日の夜の六本木通りはその呼び名のとおり、派手な看板や電飾に照らされて、そこかしこが明るい。
― ここは本当に、いつ来ても賑わってるよなぁ。
広い店内はいつものように満席で、こんなふうに時々外を見なければ、すぐに今が深夜23時半であることを忘れてしまいそうになる。
楽しそうなグループ客。酔い潰れかけた男性2人客。食事会の二次会と思しき男女の客。
様々なお客さんがいるなかで、女の身でひとりぼっちなのは私だけだ。
― 先に、いつもの頼んでおこうかな。
手持ち無沙汰になり、私は赤いメニュー表をもてあそび始めた…その時。視線の先の扉が開き、1人の男性が飛び込んできた。
「恵里菜ちゃん」
キョロキョロと店内を見回していたその人は、私を見つけるなり、ニコッと微笑みを浮かべる。
そのいつもと変わらない微笑みに、私は…私の胸は、どうしようもないほどの切なさにぎゅっと締め付けられるのだった。
「ごめん恵里菜ちゃん、思ったよりも遅くなっちゃった」
そう言ってニコニコしながら向かいの席に腰を下ろすのは、山本くん。
私の、彼氏だ。
のっそりと高い身長。ダルっとしたノームコアファッション。無造作なダウンパーマの前髪の下には、八の字に垂れ下がった眉と、子犬みたいな丸い目。
お世辞にも「イケメン」とは言い難いかもしれないけれど、私にとっては世界一かっこいい彼氏。
「どれくらい待った?」
「全然だよ、20分くらい」
「ほんとごめん。何か食べててもよかったのに」
「そんな急がなくても、ここ朝までやってるし」
「それはそう」
こんなどうでもいい会話ですら、その一言一言が愛おしい。
― あーあ。ほんと、いつからこんなに好きになっちゃったんだろう。
手早くいつものメニューを店員さんに注文する山本くんを見ながら、私はしみじみとそう思う。
そして、大切にしまっていたアルバムを取り出すように、山本くんと付き合いだした去年の今頃のことを思い起こすのだった。
1年前の私
「もうっ、最悪!いい加減にしてください!」
夜の六本木の交差点でそう叫ぶ1年前の私は、どこからどう見ても不幸の塊みたいな女の子だったと思う。
それもそのはず。
当時の私の男運は最低最悪で、何度も別れ話をしてる元カレとの関係はズルズル切れないまま。
アプリで出会う人は、イメージと違ったりワンナイト目的の人もいたりして…。
この日も大外れの食事会でヘトヘトになったうえに、元カレが裏で親友を口説いていた事実が発覚。
挙げ句、食事会から逃げてきた六本木の路上で、酔っ払いの男2人組にしつこく絡まれていたのだった。
「なんだよ〜、いいじゃん。俺たちと飲み直そうよぉ」
「やめてくださいっ」
何度断っても絡んでくる酔っ払いに辟易した私は、肩にかけられた手を反射的に汚物のようにはね除ける。
それに腹を立てた酔っ払いたちが、さらに近づいてきそうになったその時。颯爽と現れて彼らを追い払ってくれたのが、山本くんだったのだ。
「あ、ありがとうございました」
「いや、全然いいよー。仕事帰りにたまたま通りかかってよかった。っていうか、恵里菜ちゃんだよね?」
「え…?はい、そうですけど…」
「あー、俺のこと覚えてないよね。早稲田のゼミで一緒だった山本だけど」
「やまもと…くん?えっ、あっ、山本くん!」
助けてくれたお礼に、と入ったバーで、さらに学生時代の話をしたけれど、正直に言って山本くんのことはほとんど覚えていなかった。
よく見ると確かにいた気もするけれど、メディア系の華やかなゼミの中では、当時の山本くんの存在はあまりにも地味だったのだ。
「恵里菜ちゃんは、当時から可愛くて高嶺の花って感じだったもんね」
「ええー、そんなことないよぉ」
そう言いながらも、それも確かに事実だった。
当時私はいわゆる目立つグループにいて、一方の山本くんは、地味ながらも実力のあるグループで活動していたイメージだ。
いつも試験前にノートを見せてくれた、おとなしくて地味めな女子だった裕子ちゃんとかと一緒に。
「俺は今でも裕子ちゃんとかとは会うよ」
「そうなんだ、裕子ちゃんめっちゃイイ子だった覚えある〜」
予想どおりの話の内容に、私はケラケラと笑い声を上げる。
そして、ふと思ったのだ。
男の人と一緒にいるのにこんなに安心できてるなんて、どれだけ久しぶりのことだろう…と。
― なんか、山本くん。ちょっといいかも。
当時は眼中になかった山本くんだけれど、今はキー局に就職して制作部門で働いているらしい。どう考えても好物件だ。
― こういう人を選ぶと幸せになれそう。山本くん…全然アリかも!
瞬時にテンションが上がったものの、そのテンションは次の瞬間、どん底へと突き落とされた。
2杯目のハイボールを飲み終わる頃。山本くんは、時計をチラチラと見ながら言ったのだ。
「あれ、恵里菜ちゃん。もう終電なくない…?」
ワンナイト目的の男たちの口から飽きるほどに聞いたセリフに、私の心は凍りつく。
― あー、はいはい。やっぱ山本くんも、結局はそういう感じね…。
― せっかく、一瞬イイと思ったのになぁ。なんかもう、どうでも良くなっちゃった…。
私にはもはや抗う気力もなく、言われるがままに山本くんのあとをついていく。
「じゃあ、行こっか」
連れて行かれる先は、山本くんが一人暮らししているという東麻布のマンションなのだろう。
― あーあ。結局私みたいな女には、こういう不誠実な男しかいないんだよね。
けれど、そうやさぐれながら連れて行かれた先は、東麻布のマンションではなかった。
薄暗い路地の奥の、仰々しい螺旋階段の上にある、摩訶不思議な高級中華料理店『香妃園』。
「え…?ここ、なに…?」
そう戸惑う私に、山本くんは子どもみたいなとぼけた笑顔で、この店の名物だという特製とり煮込そばを注文してくれたのだ。
「ほら、あったかいもの食べて元気だして。なにがあったか知らないけど、きっとイイことあるよ。
ここ、朝まで営業してるから、時間はたっぷりあるよ。始発が動いたら駅まで送るから、それまで美味いもの食べ続けよう」
◆
山本くんと再会した1年前のことに思いを馳せていると、いつのまにか、土鍋の中でぐつぐつと煮立っているとりそばが運ばれてきていた。
「そうだ。あの時から山本くんのこと本当に好きになっちゃったんだ」
小さく呟く私に、山本くんが尋ねる。
「ん?恵里菜ちゃん、なんか言った?」
「ううん、なんでもない。とりそば来たね。食べよっ」
熱々でやわらかなとりそばをすすりながら、私はさらに1人思い出に浸る。
優しくて誠実な山本くんに安心したのか、もっと一緒にいたいと思ってしまったこと。
その場で「今度デートしてください」と伝えたけど、本気にしてもらえなかったこと。
その後も、私から山本くんを誘ったこと。
「俺に恵里菜ちゃんはもったいないよ」と言う山本くんに、積極的にアプローチして彼女にしてもらったこと…。
どれもこれもまるで、昨日のことみたいにハッキリと思い出せる。
「あ〜、うま〜。やっぱ深夜に食べる香妃園のとりそばが、世界で一番美味いよな〜」
今夜も彼は、美味しそうにとりそばを食べる。あの日、初めて一緒にここに来たあの日と変わらない、優しい表情で。
そう、山本くんは何も変わらない。変わったのは、私の方だ。
1年前よりも山本くんのことを、ずっとずっと好きになった。
だから、1年前には気づけなかったことにも、ちゃんと気づけるようになった。
六本木でのデートの時も、東麻布の部屋のベッドの中でも…山本くんが私ではない他の誰かのことを考えていることに。
― 結局私みたいな女には、不誠実な男しかいないんだよね。
1年前。終電を逃した時の山本くんに対するそんな勘違いが、ある意味では当たっていたことには苦笑いするしかない。
度を過ぎた誠実さは、不誠実さと同じだから。
付き合っていれば、そのうち本気で私のこと好きになってくれるだろう、と考えていたけれど、そんなに簡単にはいかなかった。
本当は、他の誰か──学生時代から想っているあの子に会いたいけれど、私に遠慮して我慢してくれている。そのことを、今の私は知っている。
もう一方通行の夜には耐えられないから、東麻布のマンションには行きたくなくなってしまった。
「終電ないね」と言われたあの日よりも、ずっと。
賑わう店内を見ていると忘れてしまいそうになるけれど、時刻はすでに24時を回っていた。
六本木駅の終電は、とうに終わっている。
「ねえ、山本くん」
「ん?」
「もう終電ないね」
「なに、急に?」
今日もいつもみたいに、朝まで山本くんと一緒に過ごすつもりだ。だけど、東麻布のマンションじゃない。この店で、あの最初の夜みたい過ごしたかった。
「ねえ山本くん。ここ、朝まで営業してるから、時間はたっぷりあるよね?」
「そうだけど…。恵里菜ちゃん、ほんとどうしたの?」
「ううん、それなら安心だ」
朝まで時間があれば、どれだけ山本くんのことを好きだったか、きっと伝えられるだろう。
鳥そばと思い出話であったまったら、山本くんを自由にしてあげよう。世の中には、こんなに素敵な男の人がいるとわかった今、絶望する理由はひとつもない。
山本くんのことが大好きだから、今度は、山本くんにも幸せになってほしかった。
大丈夫。朝になったら私は、1人で始発に乗って帰れるはず。
その時の私はきっと、どこからどう見ても、幸せな女の子に見えると思う。
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