オペラ最高傑作として長らく愛され続けているジャコモ・プッチーニ作曲の「ラ・ボエーム」の設定を「1830年代のパリ」から「現代のニューヨーク」に置き換え、メインキャラクターにアジア人を据えるなど大胆にアレンジし、新しいミュージカル映画として生まれ変わった『ラ・ボエーム ニューヨーク愛の歌』が10月6日に公開されます。

同作について、『名曲の裏側:クラシック音楽家のヤバすぎる人生』(ポプラ新書)などの著書がある、音楽プロデューサーの渋谷ゆう子さんに綴(つづ)っていただきました。

舞台はコロナ禍のニューヨーク

「オペラ歌手とポップスやミュージカルの歌手とどう違うの?」「歌が上手いってどういうこと?」そんな疑問を持っている方も多いのではないでしょうか。かといっていきなりオペラ鑑賞に行くのはハードルが高いでしょう。そんな方にぜひおすすめしたいオペラが原作の映画が公開されます。『ラ・ボエーム ニューヨーク愛の歌』(レイン・レトマー監督)です。

『ラ・ボエーム』はイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが1895年に作った、今でも絶大な人気のあるオペラです。1830年代のパリを舞台に、貧しく若い芸術家たちの夢と挫折、恋と別れを中心に描いた作品です。

今回新たに映画化された『ラ・ボエーム ニューヨーク愛の歌』は映画ではありますが、現役のオペラ歌手によってプッチーニの『ラ・ボエーム』の楽曲で紡がれたミュージカル映画です。

物語の舞台を1830年代のパリから現代のニューヨークに置き換え、さらに街中では登場人物がみなマスク姿で現れるというコロナ禍という設定で、ヒロインのミミをビジョー・チャン、その恋人で詩人を目指すロドルフォをシャン・ズウェンという中国人オペラシンガーたちが見事に演じています。

ロドルフォの友人で画家のマルチェッロはメキシコ系アメリカ人、マルチェッロの恋人ムゼッタはプエルトリコ人、音楽家ショナールはアフリカ系アメリカ人、哲学者コッリーネは日本人と、またドラァグクイーンなどマイノリティの登場もふくめ多国籍で構成されます。さらには劇中ではイタリア語で歌うという、まさに多様化が可視化された状況です。パンデミック中には世界でアジア人差別が起こっていたことは記憶に新しいでしょう。こうした経験の中で一層社会的弱者が生きづらい現実をしっかりと捉えた作品に仕上がっています。

現代のニューヨークが舞台といえど、それはいわゆる煌(きら)びやかなアッパー層の暮らす場所ではなく、貧困層が肩を寄せ合って生活している場所。若者たちの住まいには暖房器具も照明器具も十分でなく、年末の雪の中、部屋の中でさえコートを着込んで寒さに耐えながら生活をしています。全編をとおして映像はあくまでも暗く、現実をまざまざとリアルに表現されています。

一方、特に第三幕の終盤で描かれるニューヨークの川辺から見える青い空と雪の地面の構図は秀逸で、広がる世界があってもどこへも行くことのできない閉塞感が対比し、胸に迫ります。

物語の最後では主人公ミミの体調がどんどん悪くなり、死期が迫っている様子が描かれるのですが、咳が止まらない、熱があるという状況で周囲がマスクをつけていく様は、パンデミックの際のリアルがそのまま表現されているという見るものに現実を突きつける演出となっています。

オペラの魅力をしっかり伝える作品

音楽は全編をとおしてピアノの独奏で奏でられ、しっかりと歌声を支えています。また、歌の録音が明瞭かつ繊細で非常に音圧も高く、しっかりと歌を鑑賞することができます。オペラを見慣れた人であれば、演奏会形式のリサイタルを聴いているような気分になれるでしょう。ポップスの歌手やミュージカル俳優でも、歌唱力に定評があるアーティストも多いですが、オペラ歌手は発声法がそもそも違っていることに、オペラ観劇の経験がなくとも、この映画を見ると気が付くことでしょう。

物語の大筋は元のプッチーニのオペラそのままですから、その魅力を十分に残したまま、舞台を現在にしたことでより身近にオペラを感じ、オペラがなんであるか、どんな魅力がこの芸術にあるかを知る手掛かりの第一歩となるに違いありません。

「なぜ西洋の音楽をアジア人が上演するのか」という問い

本作製作の「モアザンミュージカル」は、香港を拠点としたオペラカンパニーです。「オペラを現代に通じる新しい形で上演する」ことをコンセプトとしているというのですから、この映画の演出には納得が行きます。プロデュースを担当したのは、モアザンミュージカルのファウンダーである長谷川留美子さん。米大手証券会社ゴールドマンサックスに19年間勤務して日本人女性初の共同経営者となったビジネスの世界でトップにいた方ですが、その後オペラ香港の理事を経て、オペラカンパニーを創設という異色の経歴を持った人物です。

オペラに限らず、クラシック音楽は常に「なぜ西洋の音楽をアジア人が上演するのか」という根本的なことを問われがちです。筆者もクラシック音楽のプロデュースをし、本場欧州での現場に入ることも多いのですが、この問いを常に突きつけられています。またクラシック音楽、オペラやバレエは芸術であって商業化、ビジネスとは結びつけにくいなどという評価をされることも多いものです。こうした状況の中で、ビジネスのプロが芸術の可能性とアジア人としてオペラという二つの難題に取り組んでいるモアザンミュージカルの制作に未来を感じます。

本作は上映時間が96分とコンパクトにまとめられていて、有名曲をダイジェストで見ることができる構成になっていますので、気楽に楽しめる入門編としては最適です。一方でオペラであれば4幕2時間超となる物語です。それを短縮したため、登場人物たちの心情表現や変化があっさりしてしまい、感情移入が難しいという側面はあるでしょう。しかしながら、本作を見ることによって、オペラは昔のもので自分とは関係ないという感覚は払拭されるに違いありません。

不朽の名作と言われるものは、時代や社会の状況が変わったとしても、その根底に流れる人間の営み、心、愛といった普遍的なものをしっかりと伝えられるのだと改めて教えられます。

クラシック音楽、オペラが何十年何百年経っても、人種や国籍を問わず人々を魅了している芸術であることは疑いようもありません。長い年月の中で、どれほど多くの人がこのプッチーニのオペラに笑い、一時の楽しみを得て、物語に涙し、生きる勇気をもらえたでしょう。こうした芸術作品があることをまずは経験の一つとして知ってもらえたらと、業界の端くれにいる一人として願ってやみません。

■映画情報

『ラ・ボエーム ニューヨーク愛の歌』

コピーライト:(C)2022 More Than Musical.All Rights Reserved.
公開日:10月6日(金)よりTOHOシネマズシャンテほか全国公開
配給:フラニー&Co. シネメディア リュミエール