これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:プロポーズで貰ったカルティエのリングが偽物だった…。婚約者の男は、一体何を考えていたのか?




ケース8:結婚を焦る女・新川亜里沙(30歳)


「金曜日は予定があるんだ」

表参道にあるデザイナーズマンションの一室で、私を抱き寄せながら、拓馬が目を伏せる。

「そっか…。今週も会食なんだね」

「うん、ごめんね。大切な会だから外せなくて」

付き合って半年になる拓馬は、赤坂にある商社勤務の35歳。同世代の中でも稼いでいるほうで、圧倒的に“結婚向き”の独身男性だ。

でも彼には週に1度、会えない日がある。それは決まって毎週金曜日。

「金曜日の女がいるのかも」

大学時代からの友人・夏希に相談すると、そんなことを言われてしまった。

平日の夜は映画や食事、土日のデートも欠かさない。多忙な合間を縫って、マメに連絡をくれる拓馬。彼に限って、浮気なんてありえないと思っていた。

しかし、私は見つけてしまったのだ。彼の部屋にあった“女の影”を…。

静かに寝息を立てる拓馬の横で、夏希にLINEを送る。

亜里沙:やばい、見つけちゃったかも。洗面台の下に、女子っぽい掃除道具とボタニカルシャンプーのお泊りセット発見…。

半泣きでメッセージを送信すると、子どものようにスヤスヤ眠っている拓馬を見つめる。

― 先週「同棲しようね」って話してたばかりだったのに。

夏希:ねぇ。今週の金曜日、拓馬くん尾行してみない?

友人からの提案に心が揺れる。今年30を迎える私は、結婚前提の付き合いをしているつもりだった。でも、もし他に女がいたら…。知りたくないけど、知らなければいけない。

亜里沙:うん、わかった。

こうして私は、決戦の金曜日を迎えた。


金曜の夜、拓馬が会っていたのは…?


「なんなの、そのサングラス!?探偵みたいね」

金曜18時。拓馬が勤める会社近くのカフェに、大きなサングラスをかけた夏希が現れた。

「今日は尾行取材だからさ」

「夏希、今回のことは記事にしないでよ」

「大丈夫!匿名にするから」

夏希は女性誌で恋愛コラムを書くライターで、WEBメディアに連載も持っている。どうせ私と拓馬のことも「ネタになるかも…」と、面白半分で来ているに違いない。

「あっ、拓馬くん出てきた…!タクシー乗るよ!」

夏希の視線の先に、タクシーへ乗り込むスーツ姿の拓馬が見える。私たちも急いでタクシーをつかまえると、前の車を追いかけてほしいと運転手に告げた。

タクシーは表参道方面へと向かっていく。青山通りから表参道へ右折すると、シャンパンゴールドに染まったケヤキ並木がフロントガラスの向こうに広がっていた。

「あ、止めてください!」

拓馬を乗せたタクシーが停まったのは『ザ・ストリングス 表参道』の前だった。降車した彼は時計を気にしながら、誰かを待っている様子だ。

「会食じゃ、なさそうだね…」

サングラスを押し上げる夏希の横で、私は表参道を颯爽と歩いていた12年前の自分を思い出していた。

◆




「ちょっとすみません…。モデル事務所のものですが」

表参道で芸能事務所のマネージャーにスカウトされたのは、18歳のとき。

徳島から上京して青学に通っていた私は、大学1年の夏にティーン向けファッション誌の“現役女子大生読者モデル”になった。

最初は、20人いる読者モデルの中の1人に過ぎなかった私。でもいつしか単独特集が組まれるようになり、大学3年にあがると同時に専属モデルになった。

友人たちが次々に大企業から内定をもらっていく中で、私はモデルとして生きていくことを決めた。

しかし現実は甘くなかった。大学生の肩書きがなくなった途端に、仕事が激減したのだ。

「もしかしてあの読モの…?まだモデルしてたんだ」

新アパレルブランドのオーディションで審査員にそう言われたとき、私は時間だけが残酷に過ぎていたことを自覚した。

そのオーディション会場からの帰り道、偶然にも声をかけてきたのが拓馬だったのだ。

「もしかして、亜里沙ちゃん?久しぶり」

拓馬と会ったのは某ブランドのローンチパーティー以来で2年ぶり。当時、彼のことは全く眼中になかった。

けれどこの日だけは、シャンパンゴールドのケヤキ並木を背にした拓馬が、白馬の王子様のように見えたのだった。

「そっか…。新しいスタートを切るんだね。これからどうするの?」

『アニヴェルセル カフェ』で彼がかけてくれた言葉に、カップを持つ手が震えた。

「わからないの…」

誰にも言えなかった心の声が漏れ、涙が溢れた。私には何もない。これからどうやって生きていけばいいのか、本気でわからなかったのだ。

「俺でよければ、いつでも相談に乗るから」

肩を抱いてくれた拓馬にもたれかかるようにして、店を出る。そして朝まで慰めてくれた彼に、私は抱かれた。

あれから半年。モデルの仕事のほかに週3の派遣会社に登録し、なんとかマンションの家賃8万5,000円を払い続けてきたけれど…。これまでとは違う地味な業務に嫌気が差していた。

「そろそろ、一緒に住もうか」

そんな矢先にもらった、同棲の提案。新たな人生への“希望の光”が差し込んだかと思ったタイミングで、今回の浮気疑惑が浮上したのだ。

「おーい。亜里沙、大丈夫?」

夏希が不審な表情を浮かべて、こちらを覗き込んでいる。

「…夏希、もう帰ろう」

「えっ、なんで?」

「私、拓馬が浮気していたとしても、別れない。もう、私には後がないんだから…!」

そのとき。1人の女が拓馬のほうに向かって、手を振りながら歩いていくのが見えたのだ。彼女が拓馬に寄り添う姿を捉えた瞬間、私は走りだしていた。

「ねえ拓馬!この女、誰なの?」


突然詰め寄ってきた亜里沙に、拓馬が放った衝撃の一言


「どなた…?」

彼女は私と拓馬の顔を交互に見ている。すると拓馬が頭をかきながら、私の肩に手を置いた。

「今、お付き合いしている新川亜里沙さんだよ。亜里沙、これは俺のママ…じゃなくて母親」

「はっ、初めまして!」

思いがけない展開に、言葉が出てこない。

一方で戸惑っているような表情を浮かべていた拓馬の母は、ニッコリ微笑むと「よかったら一緒に食事しませんか?」と提案してきたのだ。

こうして私たちは、3人で食事することになってしまった。

「亜里沙さんの事はよく聞いてますよ。昔、モデルのお仕事をされていたんでしょう?」

「はい。もう昔のことですが」

拓馬の父は、不動産会社の経営者。専業主婦だという彼の母は、上品な物腰の女性だった。花柄のシックなロングワンピースに身を包み、耳元には真珠のイヤリングが光っている。

「そう、よかったわ。女の幸せは仕事じゃない。家庭を持つことだもの」

彼女は、自身が27歳まで大手出版社の編集者として、働き詰めの生活を送っていたことを語り始めた。

「小さい頃から小説が好きで、編集者になったんだけどね。あるとき担当していた小説が発売差し止めになっちゃって。それで張り詰めてた糸がプツンと切れたの。

だから会社を辞めてパパと結婚して、拓馬が生まれたのよ」

彼女は堰を切ったように、在籍していた出版社や作家の悪口をまくしたてたあと、こう言い放った。

「夢を持つ女は幸せになれないの。結婚して、子どもを作ることが一番よ。本当にあのとき、仕事をやめてよかったって思うわ。

…拓馬は私の生きがいなの。亜里沙さん、拓馬をよろしくね」

そうして彼女が拓馬に目配せすると、彼はバツが悪そうな様子で、1枚の紙を取り出した。

「また改めて、亜里沙と来ようとは思っていたんだけどさ…」

私は目を疑った。それは、ウェディングプランのパンフレットだったのだ。

― 私に相談もなく、母親と2人でブライダルプランを立てていたってこと?嘘でしょ…。

その後、私が拓馬の部屋で見つけたお泊りセットは、毎週金曜日に横浜から泊まりに来る母親のものだと判明したのだった。

35歳の息子に、干渉しすぎな母親。その姿に嫌悪感を覚え始めた私は、お酒の力もあって、こんなことを言ってしまった。

「…今の時代、結婚して子どもを作ることだけが幸せじゃないと思います」

その瞬間、場の空気が一変した。

「あなた、私の人生を否定しているの?」

「いえ、そんなことはありません。ただ、結婚して子どもを作ることだけが幸せだとは、言えないんじゃないかと思うんです」

彼女は小さく肩を震わせ「なんて失礼な子なの!」と声を荒らげた。

「亜里沙、ちょっと飲みすぎなんじゃない?…ねぇママ、怒らないでよ」

彼が母親の肩を持つのを見た、そのとき。私の中の何かが、弾けるような音がした。

― この人たちみたいに、なりたくない。

「すみません、失礼します」




私はお店を出ると、肩を寄せ合いながら幸せそうに歩くカップルたちの間を縫って、ケヤキ並木を走った。一度だけ振り返ってみたが、拓馬は追いかけてこない。

ショーウィンドウに映った自分の姿を見つめる。12年前、希望に満ち溢れていた18歳の自分はもういない。でも、あれから様々な経験をした30歳の自分が、ここにいる。

― もう少しだけ、頑張ってみようかな。

何を頑張るのかは決まっていない。でも私は、自分が納得できる生き方を選んでいきたい。

数週間後、夏希のWEB連載が更新されていた。私の話だ。記事の最後はこんな言葉で締めくくられていた。

人生の落ち目に現れる男性に抱かれてはいけない。

夏希らしい毒舌にクスっと笑いながら、私はアパレル会社の採用面接に向かった。

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次回・品川編。婚約後に初恋の相手が現れたら…。