◆気づけば「検索すること」すらAI任せになっていた

 私はコミュニケ―ション能力についてはある程度自信があるけれど、AIを使いこなせているかというと、はなはだ疑問。

 頼るのはごはん支度に迷ったときでしょうか。「長芋と冷凍ホタテがあるんだけど、いつもと違う味付けの料理にしたい」と相談すれば、いくつもアイデアを出してくれます。そんなきわめて牧歌的ともいえる使い方しかできていない私ですが、この連載記事でかなり合点がいったのは「昨今私たちは検索すらしなくなっている」という一文。そう。自分でも「検索しなくなったな」と思うことがあります。

 先日、ロボット掃除機が故障し、メーカー側から新しい機種との交換を提案されました。やってきた新しい掃除機は、以前とはまったく異なる仕様。昔の機種にはなかったような液晶画面がついていて、オートモードやクイックモードなど、いろいろな操作ができるようかなり進化していました。

 機械音痴の私は、この液晶に面食らい、使いこなすことができず固まってしまいました。しかも昨今「説明書」なるものは紙媒体ではついてこないものもあったりするのですよね。

 昔だったら、機種番号を検索して、なんとかネット上で説明書を探して、「なるほど、ここを押すのか」と自分で調べていたはず。

 ところが今回は違いました。ふと思いついた私は、掃除機の画面をスマホで撮って、そのままAIに見せてみました。

 するとAIが、「これはこういう機種で、この表示はこういう意味です」と、一瞬でものすごく丁寧に教えてくれたのです。

 便利。本当に便利。さすが。

 でも、私この掃除機に関してまったくなにも自分から調べようともせず、あっというまに楽々に使ってしまっている……。なーんにも苦労していない。

◆楽なほうへ流れる私たち、人間はこのままで大丈夫?

 インターネットが普及したとき、私は「なんてすごい時代になったんだろう」と思いました。かつて大学生のとき、課題提出の際に調べものでインターネットを使うことも何だか「楽」をしているみたいで、ちょっと気がとがめたこともあったな。それくらい「検索」ができることの利便性に度肝を抜かれたはずなのに。

 ところが今は、「検索すること」さえAIにお願いしている自分がいるのです。もちろん、これは悪いことではありません。便利なものは使えばいい。

 でも、「自分で探す」という行為には、自分で考える行為が少なからず含まれていたはず。