東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。

▶前回:港区の1LDKで彼氏と同棲して1年半。30歳女が深夜1時に帰宅すると、男が吐き捨てた一言とは




Vol.4 <ジンフィズ> 新田秀司(28)の場合


モニターを見つめる目の奥が、ズンと重い。

まだ20時だが、人がまばらになった夜のオフィスでキーボードを叩く秀司の体は、蓄積した疲労で悲鳴をあげていた。

― はぁ…。これ、今夜帰れるのか?

一橋大を卒業し、証券会社に入って6年。新卒からずっと投資銀行部門で働いている秀司だが、4月にあった異動で部署が変わり、まだ業務に慣れることができないでいる。

早く業務に慣れるため、朝は6時には出社し、夜は日付が変わるまでデスクに向かっているものの、成果はどこか空回りだ。

同棲している彼女・瑠美についての悩みが解決した分、仕事に集中できるかと思っていたけれど、どうやら考えが甘かったのかもしれない。

手がけているM&Aの案件が佳境を迎えており、もはや今の秀司は、プライベートのことなど1ミリも構っていられないほどに追い詰められている状況なのだった。

― あークソ…、また頭がおかしくなりそうだ…。

睡眠不足の頭は、モヤがかかったようにぼんやりとしていながらも、出所のわからない怒りのような気持ちも渦巻いている。

行き場のない疲労感と苛立ちに駆り立てられ、頭を掻きむしりそうになった、その瞬間──。

殺伐とした夜のオフィスには似合わない、気の抜けたのんきな声が背後から聞こえた。

「にーったくん!おつかれ〜」


目の下にクマを浮かべながら、秀司がゆっくり振り返ると…そこに立っていたのは、今回の異動で秀司の直属の上司になった、橘だ。

シワひとつないブルックス・ブラザーズのスーツに、アラフィフとは思えない若々しい笑顔。

家族からのプレゼントだろうか?動物柄のフェラガモのネクタイが妙にのんきでハズレているところが、実にこの男らしく目に映る。

「あ…橘さん、お疲れさまです。何か?」

「いや、別に用はないんだけどね。新田、なーんかすんごい顔してるからさ」

「すいません」

「いやいや、謝ることは何〜にもないでしょ」

ニコニコと気の抜けた笑顔の橘を前に、秀司は頭の上に疑問符を浮かべる。

― え…なに?忙しいんだから、用事があるなら早く言ってくれよ…。

けれど、そんな秀司の心の中など、橘は全く気づいていないのだろう。次に橘の口から出たのは、今の秀司が一番言ってほしくない言葉なのだった。

「な、新田。久々にちょっと飲みに行くか!」

― ええ…マジでかぁ〜…!




― 仕事が忙しいので、と断われたらいいのに…。

しかし、秀司の勤めるこの日系証券会社では、令和の今も上司からの飲みの誘いは絶対だ。いまどき飲みニュケーションなんて流行らない。それはわかっていても、誰しもが上司とのお酒の場を大切にしている。

付き合いが悪いからといって冷遇を受けるわけではないが、仕事だって、人と人とのコミュニケーションだ。付き合いがいい方が要所要所で得をするに決まっている。

そんなこともわからないような人間は、この業界にはあまり存在しないのだ。

けれど秀司は、今ばかりはどうしても、二つ返事で「行きます」とは言えなかった。

― いやいや橘さん、今じゃないでしょ…。俺の状況わかってますよね…。

という言葉をグッと堪えながら、秀司は張り付いたような笑顔を浮かべる。

それというのも秀司は、この上司が──橘が、どうしても好きになれないのだ。

生き馬の目を抜くような熾烈なこの業界で、いつでもヘラヘラと笑いながら人当たりの良さだけで出世してきた男。

残業もそこまでせずに、家族サービスにばかり時間を割いている冴えない男…。

それが、秀司から見た橘の姿だった。

「あはは、そっすね〜。今から飲み…ですかぁ」

そう言葉を濁すが、鈍感な橘は敬遠されていることにも気づかず、粘り強く声をかけ続ける。

「ほら、息抜きも大事だって。2、3杯だけでもサクッと行こうぜ!」

これ以上ダラダラと濁しても、余計に時間を無駄にするだけ。そう諦めた秀司はついに笑顔を引き攣らせながら、

「あー、じゃあ2杯だけ!お付き合いさせてください!」

と答えざるを得ないのだった。




鼻歌交じりの橘に連れていかれたのは、大手町のオフィスからほど近い日本橋の路地裏に位置するバーだった。

クラシックな佇まいで、カウンターのみのこぢんまりとした店。どうやら橘が長年、常連として通っているバーらしい。

「何にいたしましょう?」

口髭をたくわえた初老のバーテンダーに問いかけられた秀司は、少しでもこの場をサクッと終わらせるため、手っ取り早くビールを注文する。

けれど、その隣で電子タバコをふかす橘は、飄々とした態度でこう言うのだった。

「ジンフィズちょうだい、ジンフィズ!」

「ジンフィズ?」

秀司が思わずそう漏らしたのは、こんな風に思ったからだ。

― これはもしかしたら、時間かかるパターンか…?

ジンフィズは、ジンとレモンジュース、シロップをシェイクして、ソーダで割ったカクテルだ。

どこのバーにでもある定番の一杯で、氷の入ったロングカクテルであるため、長い時間をかけて味わうことができる。そう、できてしまうのだ。

けれどいくらなんでも、長丁場になるかもしれないことを嘆くなんて失礼にも程がある、と感じた秀司は慌てて付け加える。

「橘さん、ジンフィズお好きなんですか?」

本音を悟られまいとする秀司に、橘はカラカラと笑いながら答えた。

「いや、本当は居酒屋でレモンサワーの気分だったんだけどさ。バーじゃレモンサワーは出せないから、ジンフィズってわけよ」

「はあ、確かに、レモン味の炭酸ですもんね…」


「んじゃ、乾杯!」

生ビールとレモンサワー…ではなく、ジンフィズと乾杯したあとは、しばらく橘の取るにたらない話が続いた。

橘が、何よりも家族を大切にしていること。

今こそつまらない家庭人だが、かつては激しい恋をした経験もあること。

さらには秀司に恋人の有無を聞いてくるという、今のコンプラ的にはギリギリアウトかもしれない会話まで発展する始末だ。

早く仕事に戻りたい。そう思って急ぎ頼んだ秀司の2杯目のビールも、あっという間に残りわずかになっていた。

しかし…。

「あっ。彼女がいるのかなんて、こんなこと今は聞いちゃいけないんだっけ?」

と、のんきに尋ねられた秀司は、ビールのほろ酔いも手伝ってか、ふと思いがけず久しぶりに瑠美の顔を思い浮かべる。

そして、いつのまにか橘に気を許し、ポツリポツリと瑠美のことを話し始めるのだった。

「いや、同棲してる彼女がいますよ。俺よりちょっと年上なんですけど、根っから明るい女性で…いずれは結婚したいとは思ってるんですけど…」

しばらく話した時だった。秀司はふと、橘の表情が変化していることに気づく。

ヘラヘラとした笑顔は、どこか優しさを帯びて…例えるならまるで、父親のような慈愛に満ちた表情に変化していたのだ。




「うん、新田。やっと気分切り替えられたみたいだな」

「え?」

「いや、なんでもない。スマン、ちょっとトイレ」

表情が変わったと思うやいなや、橘はそう言って席をはずす。

突然カウンターでひとりになった秀司は、空になりかけたビールグラスを手の中で揺らしながら、橘の今の表情について考えるのだった。

― なんだ?なんか橘さん、いつもの感じと違うような…。

その時だった。

カウンターの中からバーテンダーが、静かな微笑みを浮かべながら秀司に声をかける。

「新田さん…ですよね?」

「え?はい、新田です」

「お会いできて光栄です。いつも橘さんが話されてるんですよ。伸びそうな部下が来てくれた…って」

「俺が…ですか?いや、俺なんて全然…」

どうやら橘は、ここに通う度に自分のことについて話していたらしい。

思いがけない言葉に、秀司はじっと黙り込む。照れくささはもちろん、心の中で橘を見下していたことについて、罪悪感を抱いた。

そんな秀司に構わず、バーテンダーは話を続ける。

「橘さんって、きっと会社ではつかみどころがない方ですよね。でも…橘さんがいつも必ずジンフィズを頼む理由って、ご存じですか?」

「理由?」

「はい。橘さんがジンフィズを頼む理由は、レモンサワーに似てるからなんかじゃありません。

初心を忘れない丁寧な仕事をするために、お飲みになってるんですよ」




ジンフィズは、一見シンプルに見えて、最も作るのが難しいカクテルなのだという。

ステア。ビルド。シェイク。バーテンダーの持つ技能のすべてが必要とされ、材料もシンプルなため誤魔化しが利かない。

常に初心を忘れずに、飲む人のことを想いながら精進しなければ、美味しいジンフィズは作れない──。バーテンダーはそう語った。

「橘さん曰く、お仕事もジンフィズも同じなんだとか…すみません。ちょっと話しすぎましたかね」

「へえ、橘さんが…」

思いがけない話を聞いて半ば放心していると、のそのそとした足取りで橘がお手洗いから戻ってくる。

橘がずいぶん長い時間席を立っていたように感じたが、席に戻った彼の言葉で、秀司はすべてを理解した。

「おーし。トイレついでにな、今電話でファイナンス部とIB企画部に話通しておいたぞ。戻ったらすぐメール入れとけ」

「…え?」

「新田の作ってた資料な、後ろからちょっと見ただけだけど、煮詰まってたのそこだろ。あと、進め方もちょっとよろしくないな。あの場合は…」

驚くべきことに、今秀司が取り掛かっている案件の難点に対して、次から次へと的を射た助言をしてくれる。そのあまりの的確さに秀司は、感動と、橘に対する恥ずかしさを感じるのだった。

「橘さん、あの…今日俺を飲みに誘ってくれたのって…」

「ん?俺が飲みたかっただけだけど?」

「いやいや、そんなわけ…」

「まあ、新田に彼女がいるかどうかは知りたかったな!こんな激務、大切な人のためって思えなきゃ、やってられないだろ〜」

そう言ってヘラヘラと笑う橘の姿から受ける印象は、さっきまでとはまるで違っている。

― 橘さんって…。

よく考えれば、こんな生き馬の目を抜く業界で、人当たりの良さだけで出世できるわけはない。

残業せずに家族サービスに時間を割くことがどれだけ難しいか、想像もつかない。

いつのまにかすっかり姿勢を正した秀司に、橘はまたしても柔らかい笑顔を向ける。

けれど秀司は、すっかりクマの引いた顔を、橘に───。

いや、心から尊敬する上司に向けながら言うのだった。

「いえ、あと一杯だけお付き合いさせてください。

マスター…僕にも、ジンフィズをお願いします」

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実はできる上司だった橘。彼が胸に秘めた、大恋愛の思い出とは

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東カレWEB編集部