前回:「涙の理由は知らないけど、泣くなら美学を持たなきゃダメだよ」西麻布のゴッドマザーに相談すると…



「ここは大人たちが青春をやり直すというか…そういう願いが込められた店なんです。今の若い人的にはアオハルってやつですね。アオハルをやり直す場所」

西麻布のBAR、Sneet(スニート)。できて20年近くになるというこのBARの店長は、いつもとは違う声色…ややセリフがかった言い回しでそう言った。愛さんが、その話久しぶりに聞くなあ、と言いながら私の横に座り、私は愛さんと雄大さんに挟まれる形になった。

「うちの店名…SneetがteenSを逆にして名づけられた理由は2つあるみたいなんです。一つ目は10代に逆行する…というか。大人になったらそりゃいろいろある。でもたまには10代の若者的なピュアさで楽しもうよ、というわかりやすいメッセージなんですけどね。で、もう一つは裏テーマみたいなものなんですけど…」

店長さんはそこで言葉を止めて、お待たせしました、と愛さんの前にカクテルを差し出した。コーヒーの香り。それはホワイト・ルシアンというカクテルで、コーヒーリキュールのカルーアとウォッカ、そして生クリームを合わせたものだという。

うん、この甘さが欲しかったと満足げな愛さんに、宝ちゃんも一口どう?と勧められた。見た目はカフェオレで口当たりはスイーツみたい…と味わった瞬間、喉にアルコールがガツンときた。少しむせてしまった私に店長さんが水のグラスを渡してくれた。

甘くておいしいとか見た目がかわいいカクテルって油断大敵だよ、アルコール度数が強めなものも多いからね、と愛さんに教えられる。それはなんだかお酒のことだけではない気がして、今日はなにかと教訓の多い日だと思った。

「ほら、裏テーマの話の続きをしてあげてよ。私その話、好きなんだよね」

愛さんに促された店長さんが、本当はオーナーの口から聞いてもらった方がド迫力で良いんですけど…と言いながら、ごほん、と咳払いをしたあと、グッと私の方に身を乗り出した。

「宝さん。これは西麻布の女帝曰く…つまりうちのオーナー曰く、なんですけどね」
「はい」
「青春の亡霊は人生を狂わせる。とっとと祓って上書きしな」


― 青春の…亡霊。

“青春の亡霊”という言葉の強さに呆気にとられしまい、私は、店長さんが光江さんの口調をまねして言ったのだと気がつくまで少し時間がかった。相変わらず店長のモノマネって光江さんに似てると笑いながら愛さんが続けた。

「店名の裏テーマに青春の亡霊とかが出てくるところが物騒で光江さんらしいけどさ。宝ちゃん、聞いたことない?人は青春時代に手に入らなかったものとか失ったものに、大人になってからも固執してしまいがちって話」
「そういえば、なんとなく…」

SNSとかで見たことがある気がする。私がそう答えると、愛さんが光江さんが言う“青春の亡霊”というのは、それと同じようなことなんだけどさ、と言った。

「光江さん曰く。適度な飢えや欲っていうのは大切。適度なら飢えや欲は正しい原動力になり、人を正しく成長させるって。でもその飢えや欲が過剰になってあらぬ方向へ行くとまずいっていうわけ。

で、その“あらぬ方向”へ進みがちなのが、青春をこじらせちゃった人たちに多いっていうのよ。

例えば、青春時代の…過去の栄光にしがみつく人。あとは青春時代に失ったものを今も追い求めたり、その頃に裏切られた傷を今も引きずっていたり。光江さんはね、この街は、そんな風に青春時代を過去にできていない人達が多い街だっていうの。

自分の中の子どもがずっと泣き続けているというか…その頃満たされなかった承認欲求を、今、金や権力の力で満たそうとしている。

でも光江さんはね、今、金や権力で承認欲求を満たすことを否定はしないけど、それで過去を変えられるわけではないことを理解するべきだと。だから青春の亡霊は成仏させるしかない。キレイに成仏させて、その頃より楽しい大人の青春で上書きしてしまえって。

で。この店で、どんどん大人の青春を作って頂戴!っていうのが、店名の裏テーマらしいの。でも、そんなややこしくて説教じみたこと言われてもって思うじゃん?私も最初はそう思ったんだけどさ…」

光江さんって怖いのよ、と愛さんは、その時の怖さを思い出したかのように体を震わせ自分を抱きしめた。

「光江さんと初めて会った時、私のお金への異常な執着を言い当てられたの。今まで誰にもバレたことなかったし、うまく隠してたつもりだったから焦っちゃって。そんなことないですよって冷静なフリで否定したけど、内心、心臓はバクバク」
「…お金への執着…?愛さんがですか?」

私が知る愛さんはむしろ気前がよくて、金銭への執着など全くない人に見えるのに。

「そう。実は私って、めちゃくちゃ貧乏な家で育ってさ。高校生まで同級生を妬んでばかりだったもん。父親がダメオヤジだったから本当にお金がなくて、家のために働かなきゃいけなかったし大学もあきらめた。自由に遊ぶお金なんて全くなかったしね」
「…」
「お金があればいくらでも幸せになれると思っていたから…宝ちゃんと出会うまでにいろいろあって。結婚相手も正直お金に目がくらんだようなものだからね。それで失敗しちゃったってわけだけど。愚かだったよね、ほんと」

愛さんは笑っていたけれど、タケルくんと距離を置くと決意したばかりのその心中を思うと…私は言葉を探せず、相槌さえも打てなかった。

「で、雄大は?雄大は光江さんに何ていわれたんだっけ?雄大の青春の亡霊ってやつ」

雄大さんは何も答えなかった。愛さんは、何回聞いても絶対教えてくれないんだよねぇと笑って、じゃあ宝ちゃんに聞いちゃおう、と言った。

「宝ちゃんはある?」
「何がですか?」
「宝ちゃんの青春の亡霊。アオハルの頃の…ずっと忘れられない何かってある?」


青春の亡霊。私の亡霊が何なのか…その日は結局愛さんに答えられぬまま店を出た。そして今日は、1月第2週の金曜日。伊東さんとのデートの日だ。

28歳女子的なデートの心得を相談したあの日から、親友の友香とは毎日連絡を取り合い、全身のコーディネート、そして話題に困ったら使えるよというフレーズ(私にはハードルが高いものもある)もいくつか伝授してもらって、私なりにできる限りの準備はしたつもりだ。

会社の近くまで迎えに行くよと言われたけれど、また元カレ・祥吾に目撃されることが怖くてお断りし、店での待ち合わせにしてもらった。

会社帰りで行くという私の都合を伊東さんが考慮してくれたのか…カジュアルなレストランだから、服装はそんなに気にしなくて大丈夫と言われていた。

だから、女性っぽさを押し出したスタイルだとそれだけでソワソワしてしまう私をよく知る友香と相談したうえで、パールブルーのタートルニットにウール素材のジレ、そしてジレと同素材のパンツを選んだ。

ただし、慣れないヒール(5cmくらいだけど)を履いているので、私にしてみれば結構な贅沢だけれど…会社の前からレストランまではタクシーに乗ることにした。




向かうのは門前仲町のフレンチビストロ。店名を聞いた友香が、さすが伊東さん、知る人ぞ知る予約の取れない店だよと感心していた。日本でも有数のフレンチレストランの料理長を長く務めた有名シェフが独立して作ったビストロで、オープンして3年目に入った店だという。

タクシーに乗り、行き先を告げた瞬間に携帯が鳴った。どこかで見ているの?というナイスタイミングな連絡は愛さんからで、『デート楽しんで♡報告待つ♡♡♡』という文字が愛さん、雄大さん、大輝くん、私、つまり4人のLINEグループに届いていた。

愛さんへ返信しようとした私より早く反応したのは大輝くんだった。

『え!?宝ちゃん、伊東さんとのデート今日なの?オレ聞いてなくて寂しい…!』

確かに大輝くんには伝えていなかったと気がついて、ごめんね!と慌てて打ち込む。

するとすぐに愛さんから『大輝、デートが終わるまで大人しく待ってて』という返信、大輝くんからはシュンとした子犬のスタンプが送られてきて…という流れに思わず笑いながら、あの日…青春の亡霊トークの夜、Sneetでの愛さんとの会話を思い出した。

それは、伊東さんとのデートを愛さんにも報告したあとのことだった。

「宝ちゃんって…大輝のことは全く、全然、どうってことない感じ?」
「どうってことないって…?」
「恋愛的にっていうか。宝ちゃんって大輝のことは全く恋愛対象じゃない?」

予想外の斜め上すぎる質問に言葉を失いつつもなんとか、ないですと答えると、愛さんがそっかあ、大輝はなしか、と言った。

「大輝はまだ自覚してないっぽいけど…大輝にとって宝ちゃんって特別というか…他の女の子とは全然違う気がするんだよなぁ…でもやっぱり宝ちゃんの方が無理かぁ」

私が無理とかじゃなくて、大輝くんからみても私と恋愛なんて論外&圏外だと思いますし、私たちはお互いを初めての異性的友人認定しています…!と大輝くんに自分からハグした時の照れくささを思い出しながら、私は愛さんに言った。

「それに愛さん、大輝くんには、あの…」
「…うん………あの人妻でしょぉ……まあ、大輝が好きなら仕方ないんだけど……なんで大輝はあんなにいい子なのに、どうしようもない相手とばっかり……」

苦虫をかみつぶした顔とはこのこととばかりの忌々しさ溢れる表情でそう言った愛さんに、愛は人のこと言えないだろ、と雄大さんが突っ込むと、ムッとした顔で愛さんが返した。

「…雄大もでしょ」
「…」

― あれ。この2人は確か、元カップルでは。

妙な気まずさが場を包んだその時、店長さんが、あ、そういえばと明るい声を上げた。

「宝さんがデートする伊東さんって、あのフランスのシェフの方ですよね?」

そうですと私が頷くと、僕もお会いしたことあるけれど、あの方、情熱的な方ですよねぇと言った。あんまりまだよく存じ上げなくて…と私が答える前に、そうだった!と愛さんの勢い良い声が響いた。

「伊東さん、フランス生活が長いからさ。メンタルはすでにAmur(アムール)の国の人だよ」
「ア、アムール?」
「フランスは愛の国でしょ?伊東さんは長年その愛の国で暮らすうちに、情熱的で押しが強めな男子になっちゃってるってこと。まあ押しが強くなきゃパリでフランス人相手に星付きレストランなんて続けられないだろうけど。

あー…もしかして…あっという間に、私、伊東さんとパリで暮らします!とか宝ちゃんに報告されちゃうのかなぁ…宝ちゃんがパリに行っちゃうなんて、それは寂しすぎる…!」
「あ、愛さん???」

まだデートに誘われただけなのに、すでにパリで暮らすことに?勝手な脳内トリップに旅立った愛さんに突っ込んで欲しい!助けを求めて雄大さんを見ると、思いもよらず…その顔がニヤニヤしていた。

「まあ、ありだな。宝ちゃんがフワフワしている間に、伊東さんにパクっといかれて、パリにさらわれて、気がついたら一気に人生変わっちゃったっていうのも、楽しいんじゃないの?」

雄大さん???あなたそんなこと言う人…というかキャラでしたっけ???




伊東さんはアムールな人…という、ナゾかつ余計な情報を仕入れてしまったことにより、さらにデートへの緊張が増し。その緊張を和らげるためにも早め行動をと私は10分前にレストランに到着した。それなのに。

― あ、先に…。

すでにレストランの前には、こちらに手を振る伊東さんが。店が分かりにくい場所にあるからちょっと心配で…という笑顔と共に近寄ってきてくれた、その手には。

― これが…ア、アムールの国の人…?

花束。黄色と白にややオレンジ。そして緑がさわやかなミニブーケの大きさだった。

「荷物になるかなと思ったけど、どうしてもあげたくて。あ、花言葉的な念はこめてないから安心して」

そう言って笑った伊東さんにつられて笑う。伊東さんにドアを開けられ中に入ると満席の活気に圧倒されたけれど、案内されたのは店の一番奥に位置する4人掛けのテーブルで、静けさと落ち着きが感じられてホッとした。

コートと花束を預けてから着席し、シャンパーニュ以来ですね、という挨拶を改めて。その流れでまずはシャンパーニュを頼むことにした。




「宝ちゃん、どんな料理が好きかな?」

やや魚介の方が好きだけどお肉も好きです。お肉の中なら牛よりも鶏か羊…とメニューを見ながら、私の好みと伊東さんのおススメを掛け合わせて、シェアするつもりで前菜を3品、メインはお互いに一品ずつ決めた。

ここは一皿一皿にボリュームがあるから、まずはこれだけ食べた後で考えようか、とメニューを置いた伊東さんの表情がとてもワクワクして見えるのは…これは多分デートだからというより…。

「このレストランは、フランスから輸入されてる鶏肉と日本の食材を掛け合わせるメニューが面白いんだ。フランスの鶏って日本の鶏とは違って…」

― 伊東さんって、本当に料理とか食材のことが…そして食べることが大好きなんだ。

シェフだから当たり前なのかもしれないけれど、食材、調理法、メニューの開発理論、そして飲み物の選択に至るまで、それらを語るときの伊東さんの目はキラキラしていた。

根セロリを使った前菜が思ったより甘くておいしいという私の感想に、日本の野菜はフランスの野菜より甘く作られていてその理由は…とか、豆のスープが出てきた時にはこの店のスープの漉し方は独自な手法で…などまるで解説員のように教えてくれる。

おかげでデートという今日の名目に対する私の緊張感はいつのまにか消え去り、興味深く楽しい話にただ素直に相槌を打てばよいという形式がいつのまにか出来上がっていて、友香に準備してもらっていた“話題に困ったら使う質問リスト”的なものも使う暇がなかった。

「ごめん、オレまた、自分ばっかり喋ってた。料理のこととなると…」

ワインが空になり注文するタイミングなどで、伊東さんは時々我に返るようで、その度に照れたように謝ってくれたけれど、私は本心から首を横にふる。

「お話、めちゃくちゃ面白いです。それに…実は何を話せばいいのか緊張していたので、沢山話してもらえてホッとしてます。そもそもデートしようって誘われて食事に行くことって、私、あんまりない…というかめちゃくちゃ久しぶりで」
「本当に?オレ的にはライバルが少ない方がラッキーだけど…宝ちゃんってめちゃくちゃ魅力的なのに。久しぶりに素敵な子に会えたなってシャンパーニュで初めて会った時から思ってるよ」

こちらを見つめる伊東さんの目に、ググっと一気に熱がこもった気がした。…こ、これはもしかして、アムールモードがオン、ってやつなのでしょうか?


「…その、シャンパーニュでは、泣いてしまったりして、ほんと子どもで、申し訳なかったです。自分でも情けなくなりますし、魅力的という言葉とは程遠いというか…」

オタオタと焦った時の私の必殺技、自虐返し。褒められるとソワソワいたたまれなくなり、自虐モードに入る私のこの癖を友香はいつも叱る。宝の自己肯定感の低さはマジでナゾ、と突っ込まれても、低さのナゾどころか、自分に肯定感が存在するのかすら私はよくわかっていないのだと思う。いつもごめんね、友香。

現実逃避気味に親友に思いをはせていると、伊東さんに引き戻された。

「オレは…宝ちゃんのあの涙にグッと来たんだから、そんなこと言わないで欲しい」
「…え?」
「あの涙に、なんか撃ち抜かれちゃったんだよね。宝ちゃんのこともっと知りたいと思った」

いやいやいやいや!違うんです伊東さん!私はなんだか申し訳なくなり、訂正しなければいけないと焦った。

「その…実はあの時の私はどうかしていて、普段は全く涙もろくないはずなのに泣いちゃって。この何か月か涙腺が壊れちゃってるみたいですぐ泣いちゃうんです。それが自分でも怖いというか…。

それに…女子の涙に撃ち抜かれるとかちょっと…あまりにも錯覚っぽいというか…少し冷静になった方が良くないですか?」

あ。やばい。伊東さんがキョトンとしてしまっている。うう、そんなにじっとみつめられると…!私はよくわからない焦りに駆られてしまい、急いで続けた。

「あの…つまり、何が言いたいかと言いますと…その、涙は女の武器ともいいますし、その背景も知らずに、迂闊に涙にグッときたとかは、よくないのではないかと…」

― ああ、もう、自分でも何を言ってるんだか…!

喋りながら混乱した私を見る伊東さんのその表情はまだキョトンとしたまま…というより、キョトン感が増している。支離滅裂な言葉を並べてしまったことに恥ずかしくなって私がうつむいた瞬間、プッと吹き出す音に引き戻され顔を上げた。

伊東さんが肩を震わせて笑っている。しかもそれが徐々に爆笑に変わってゆく。…え?一体なぜ???戸惑っていると、しばらく笑い続けた伊東さんが、その目じりに涙を浮かべたまま言った。(笑いすぎて涙を浮かべる人を久しぶりに見た)

「宝ちゃんって本当に正直な人なんだね」
「…正直、ですか?」
「オレ、フランスに住んでるし、ちょっと普通の段取りを踏んでたら関係を進められないから思い切って言うね」
「……はい?」
「オレ、やっぱり宝ちゃんが好きです。だから恋人になりたい。とはいってもまずは遠距離恋愛になっちゃうけど…遠距離恋愛とか…できる人?」

― いきなり会話が剛速球に…!

「宝ちゃん、オレのこと嫌い?」
「いえ、キライでは…」
「じゃあ、好き?」
「……好き…かは、まだ正直わかりません、…ごめんなさい」
「まだ、ってことは…可能性はあるかな?オレに嫌悪感はある?」
「嫌悪感は全くないですけど、あの」
「よし。じゃあお試しで付き合ってみない?例えば3ヶ月とか期限決めてもいいしさ。オレ、頑張って会いにくるから」

にっこりとほほ笑まれて、心臓がうるさい。うるさすぎて、心臓が飛び出しそうとはこういう状態のことをいうのだろうか。

そしてこの日のうちに、私は。

自分にそんなことが起こるなんて…と、思いもよらぬ約束を伊東さんと交わすことになるのだった。

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▶1話目はこちら:27歳の総合職女子。武蔵小金井から、港区西麻布に引っ越した理由とは…

次回は、6月8日 土曜更新予定!