東京に点在する、いくつものバー。

そこはお酒を楽しむ場にとどまらず、都会で目まぐるしい日々をすごす人々にとっての、止まり木のような場所だ。

どんなバーにも共通しているのは、そこには人々のドラマがあるということ。

カクテルの数ほどある喜怒哀楽のドラマを、グラスに満たしてお届けします──。

▶前回:初デートで渋谷のイタリアンに連れて行ったら、「なんか違う…」と男がフラれた理由




Vol.3 <モスコミュール> 惣田瑠美(30)の場合


昨夜、夜風を取り込むために、ほんの少しだけ開けて寝た窓。

その1cmほどの隙間から、楽しげで賑やかなピアノの音が聞こえてくる。

「ううぅ〜、頭に響くぅ…」

元麻布の住宅街に位置する瑠美の自宅マンションは、すぐ近くにこども園があるのだ。

朝9時になるとピアノの音とともに子どもたちの声が聞こえてくるこの環境を、瑠美は心から気に入っていた。

けれど、いつもなら微笑ましく感じる子どもたちの声が、今朝ばかりはズキズキと瑠美の頭を刺激する。

「ちょっと秀司、窓閉めて…」

と、そこまで言いかけて瑠美は口をつぐんだ。

時刻はすでに9時。こんな時間に、秀司が部屋にいるわけがない。

「よいしょ…と」

重たい体に喝を入れどうにかベッドから身を起こした瑠美は、朝日に目を細めながらそっと窓を閉め切る。

そして、少し静寂を取り戻した部屋のなかで作り置きのフルーツウォーターをグビグビと飲み干すと、昨夜のことを思い出しながら大きなため息をつくのだった。


この1LDK55平米の元麻布の部屋は、瑠美だけの部屋ではない。付き合って2年になる彼氏・秀司と共同で借りている、同棲の生活の舞台だ。

いわゆる“愛の巣”と言えば聞こえはいい。けれど、最近の瑠美と秀司の間にはどこか不穏な空気が漂い続けており、ここ1ヶ月は愛の言葉を交わすどころか、ゆっくり会話を楽しんだ記憶がなかった。

昨夜もそうだ。

深夜1時を回った頃。仕事帰りに時々利用するミクソロジーバーで楽しんだ瑠美が上機嫌で帰ってくると、リビングにはムッツリとした顔をした秀司がソファに座ってスマホをいじっていた。

「あれっ!秀司、起きてたんだ。ただいまぁ〜」

思いがけず顔を見られたことに喜ぶ瑠美だったが、秀司の反応は芳しくない。

スマホからチラと視線を上げて瑠美の顔を確認すると、うんざりしたような表情を浮かべ、無言のまままたすぐにスマホに集中し始めたのだ。

「え…、なに?なんか感じ悪いですけど…」




証券会社で働く秀司の仕事は、朝は早く、夜は読めない激務だ。

赤坂でエステサロンを経営する瑠美とは平日も休日もなかなか時間が合わず、少しでも一緒に過ごす時間を捻出するために同棲を始めて、そろそろ1年半になろうとしている。

同棲を開始した当初は秀司の遅い帰りを待つこともあったが、あるとき「何時になるかわからない帰りを待たれるのも悪いから」と言われてからは、瑠美も納得して好きなように過ごすことにした。

以来、お客様の要望に応えて深夜の施術を受け付けることもあれば、2人いる従業員のエステティシャンを飲みに連れていって労うこともある。

昨夜はちょうどそのどちらもが重なり、食事の後大好きなミクソロジーバーにも足を延ばしたことで、帰宅が遅くなってしまったのだった。

「私の帰りが遅かったから、怒ってるってこと?でも、秀司だっていつも仕事で遅いじゃん」

「そんなこと言ってないけど」

「じゃあなに?言いたいことあるなら言ってよ」

「べつに?とくにないよ。ハァ…俺、明日も早いから寝るわ。瑠美も仕事だったんだろ?本当に仕事だったんだとしたら、おつかれさま」

「…はい?何、その言い方?」

明らかに敵意を含んだ秀司の物言いに、瑠美は思わずカッとなる。

けれど、確かにもう遅い時間だ。すでに日付も変わり、朝6時には会社に着かなくてはいけない秀司を引き留めるのは気が引けた。

寝室へと引っ込む秀司を無言で見送ると、瑠美は頭を冷やすためにベランダの窓を少しだけ開ける。

そして、ミクソロジーカクテルの酔いをさました深夜2時ごろ。むしゃくしゃした気持ちをようやく収めて、秀司に背を向けながらダブルベッドに入ったのだった。






朝日が満ちるリビングには、まだ昨日の険悪な空気が澱んでいるような気がする。

すでにピアノの音は止んでいるが、ひっきりなしに聞こえる子どもたちの笑い声はこの場所にミスマッチで、「秀司との間には、今のままではこんな明るい未来はない」という現実を、残酷に浮き彫りにしているように感じた。

瑠美は、空っぽになったフルーツウォーターのグラスをシンクに置きながら、しばし立ち尽くす。

「やっぱり、ダメだ。私から言わなくちゃ」

そう呟くと意を決してスマホを取り出し、秀司にLINEを送った。

<秀司、話がしたい。今夜仕事が終わったら、いつものバーに来てくれるかな。何時になっても待ってるから>



“いつものバー”こと、恵比寿のオーセンティックバーに秀司が現れたのは、もうすぐ23時になろうかという頃だった。

「…うす」

「…おつかれさま。来てくれてありがとう」

会って話すだけなら、自宅でも事は足りる。

けれど、なかなか一緒に過ごす時間がとれないふたりにとっては、唯一時間が合う深夜にバーで会話を楽しむというのは、定番のデートなのだ。

特にこのバーは、ふたりが初めて出会った思い出の場所でもある。

大切な話をするために、今日はこのバーをふたりで訪れたい。

そう思って、わざわざ秀司を呼び出したのだった。


「……」

「……」

瑠美の隣に座った秀司は、居心地悪そうな表情を浮かべて黙ったままだ。

しかし、どちらも口を開かずにじっと座っていただけなのにもかかわらず、ふたりの前のカウンターには自動的に、2つの銅のマグカップが置かれた。




「お待たせいたしました。モスコミュールでございます」

無口なバーテンダーが、視線を伏せたまま静かな声で告げる。

注文を済ませておいたのは、もちろん瑠美だ。秀司が来たら出してくれるように、馴染みであるバーテンダーにあらかじめ頼んでおいた。

ふたりはしばらく黙ってそれぞれのマグを見つめていたかと思うと、どちらからともなくおずおずとマグを合わせる。

そして「乾杯」という言葉の代わりに──互いに、「ごめん」と小さく呟くのだった。

「…昨日は、感じ悪くてごめん。っていうか、ここのところずっと態度が悪かったと思う。許してほしい」

「ううん。私のほうこそ、キツイ言い方しちゃったと思う。ごめんね」

辛口のジンジャーエールの刺激と、爽やかなライムの香りがするモスコミュールが、瑠美の喉を滑り落ちる。すると途端に胸の中のわだかまりがほどけて、素直になれるような気がした。

それはきっと秀司の方も同じなのだろう。ポツリポツリと、昨晩のことについて話し始める。

「4月に配置換えがあってから、仕事が思うように進まないことがあって。昨日は冷静になれなかった」

「そっか、異動があったって言ってたもんね。もっと労うべきだったよ」

「いや、そうじゃないんだ。それだけだったら、瑠美にあんなみっともない姿見せないよ。それだけじゃなくて…」

「他にも何かあるの?」

せっかく素直に話し始めてくれた秀司だが、どうにも歯切れが悪い。焦れた瑠美がせっつくと、秀司は辛そうに眉間を押さえながら搾り出すように言った。

「瑠美、昨日は『深夜のお客さんの施術がある』って言ってたよね。ここのところ毎週火曜日は、そう言って深夜に帰ってくる。でも…。

もし他に好きな人ができたり、俺に愛想が尽きたりしたんなら…そんな回りくどい嘘つかないで、はっきり言ってほしいんだ」




顔を歪めながらやっとのことで言葉にした様子の秀司だったが、瑠美は、秀司が一体何を言っているのかわからなかった。

「え…?ごめん、なんでそう思うの?」

まったく心当たりのない瑠美は、戸惑いの言葉を返すことしかできない。

けれど秀司は、そんな瑠美のことをますます辛そうな表情でじっと見つめたかと思うと、ゆっくりと手元のスマホを差し出す。

その画面には、瑠美の経営するエステサロンのGoogleのページが表示されていた。

「ここまで来たら、もう全部言うよ。

瑠美のサロン、来月で3周年だろ?俺、サプライズでオープン記念日に花を贈るつもりで、Googleで住所を確認してたんだ。そしたら、ここに…」

瑠美は、秀司の指さす箇所をゆっくりと覗き込む。するとそこには青い時計のマークに並んで、

<火曜日 定休日>

と記されているのだった。

「…ん?あれっ。コレ、間違ってるね」

「…え?」

「えーどうしよう。これってGoogleに連絡すればいいのかな?」

「火曜日、定休日じゃないの…?」

「違うよ?うちはお客様次第。定休日とか無いから一緒に暮らし始めたんじゃん。

火曜は定期のお客様ばっかりだったから全然気づかなかった。え〜、いつからこうなってたんだろ」

「じゃあ、昨日めちゃくちゃ帰りが遅かったのも…」

「普通に、22時にお店の施錠して、そのあとお店の子と飲みに行っただけだけど」

「じゃあ別に、仕事だって嘘ついて誰かと遊びに行ってるとかも…」

「ないない!ええ〜?なんでそんな発想になるわけ?秀司、仕事本当に大丈夫?さすがに思い詰めすぎだって!」

しばしポカンとした顔を浮かべていた秀司だったが、会話の内容をようやく理解しはじめのだろう。一気に顔が赤くなり、頭を抱えた。

「マジで?俺、てっきり瑠美がもう…。うわぁ、ダサすぎる」

「うん。ダサすぎるね」

「…すいません、マスター。もう一杯お願いします…」

瑠美の返答にますます追い詰められた秀司は、なみなみとマグに満ちていたモスコミュールを一気に飲み干すと、バーテンダーにお代わりを注文する。

しかしバーテンダーは、口元だけにほのかな微笑みを浮かべながら言うのだった。

「もう、モスコミュールじゃなくてもよさそうですが?」




モスコミュールのカクテル言葉は、「仲直り」だ。

2年前。付き合い始めたことを揃ってバーテンダーに報告すると、普段無口な彼が珍しく饒舌になり、「ケンカをした時にはモスコミュールですよ」と教えてくれた。

それ以来どんなに険悪なムードになっても、瑠美と秀司は何度もモスコミュールで危機を乗り越えてきているのだった。

「改めましてもう一度、ごめんなさい」

結局もう一杯お代わりのモスコミュールを頼んだ秀司は、Googleへの文句を垂れながら、今度はゆっくりとマグを傾ける。

バツの悪そうな秀司を前に時計を確認すると、時刻は23時半。

瑠美は思わずホッとして、バーテンダーに笑顔を見せた。

「モスコミュールのカクテル言葉は、実はもう一つあるんです。

『ケンカをしたら、その日のうちに仲直りをする』。

瑠美さん。男って、なかなか素直になれないバカな生き物ですからね。秀司さんが素直になれないときには、ケンカを変に長引かせないためにも、あねさん女房の瑠美さんから折れてあげて下さいよ」

「あねさん女房は余計でしょ!」などと言いながらも、あの時バーテンダーから受け取った忠告は、こうして2年経った今も役に立っている。

― バーってほんと、人生勉強の場所よね…。

そうしみじみと感じ入りながら、瑠美もじっくりとモスコミュールを味わう。

一体、これまでにふたりで何杯のモスコミュールを飲んだのかわからない。

けれど瑠美は、秀司と一緒にいるためだったら──。

この先何百杯、何千杯でも、モスコミュールを飲むつもりだ。

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