マスク着用、ソーシャルディスタンス、不要不急の外出禁止。

世界を大きく変えてしまったコロナ禍を経て、ようやく時が動き出している。

オフィス街のにぎわい、仕事後の一杯、海外旅行…。

人々が失われた日常を取り戻そうとする中、一歩を踏み出せない女がいた。

これは、人生の大きな節目で自粛を強いられた25歳の等身大の物語。

自粛生活こそが日常だった彼女は、充実した人生を取り戻すべく、10の『ウィッシュリスト』を作成し―。




Vol.1 「もっといろいろ経験したい!」25歳の切実な願い


「長田さん、機材のセッティングは終わってる?」

「はい!すぐ行きます!」

上司の声に、長田未来(みく)は慌てて答えた。

新卒で大手メーカーに就職し、人事部で働いて3年。今日は午後に、新卒採用向けの動画を撮る予定がある。

そのとき、隣の席にいる4月入社の後輩・エミリが、ガサゴソと書類を取り出した。

「未来さん、これってどうしたら良いですか?」

「えーっと、チェック担当が誰か調べるね」

未来が言ったとき、近くにいた先輩がカットインしてくる。

「長田さん、違うわ。そんなの、いちいち担当に回さなくても、自分で処理しちゃって」

しかし彼女は、すぐにはっとした表情になる。

「あっ、長田さん、コロナ禍入社組か。ずっとリモートワークだったもんね、知らなくても仕方ないね。

マニュアル上では担当者がいるけど、こういうのは手が空いている人がやっちゃっているの」

「…知らなかったです。すみません」

未来が入社した時、世界はコロナウイルスのパンデミックという未曽有の事態に陥っていた。

つい最近までほとんど出社せずに仕事をしてきた未来は、いまだにラップトップの中の職場と、リアルとのギャップに戸惑っている。

― えっと、動画撮影の機材をセットするんだよね。台車を防災センターで借りる手続きをして…。

未来が調べていると、再びエミリが話しかけてきた。

「未来さん、台車はちょっと使うだけなら、手続きいらないみたいですよ。新人研修の時、防災センターの人が言ってました」

「そ、そうなんだ。私、研修は動画視聴だけだったから、防災センターの人とリアルで話したことなくて…」

コロナ禍のせいで、まだオフィスの「暗黙の了解」を知らない。未来は、自分だけが取り残されているような感覚になる。

「未来さん、コロナ禍入社ですもんね。大丈夫です!私、手伝います」

「ありがとう」

未来は、心の焦りを見せないように、努めて明るく答えた。

― はあ、使えない先輩認定されないように、挽回しないと。

実は今日の動画撮影には、気合が入っている。未来が尊敬する先輩・白石亜希子にインタビューをするのだ。

28歳の彼女は、リアルで仲の良い数少ない同僚でもある。

― 亜希子さんに、しっかりしたところを見せなくちゃね。




午後になり、動画撮影が無事に始まった。

亜希子のインタビューをカメラの隣で見ながら、未来は思わずため息をつく。

― 亜希子さんに、ふがいないところを見せちゃった。

未経験だった機材のセットは思いのほか時間がかかり、開始時間ギリギリまで髪を振り乱して準備をする姿を、亜希子に見られてしまったのだ。

今、亜希子は涼しい顔でインタビューに答えている。

「広報に配属されてすぐにアサインされたのは、東京オリンピック協賛のプロジェクトでした。その経験は、他の業務にも役立ちました。今は、社内ベンチャーの立ち上げが一段落したところです」

― 亜希子さん、今日もかっこいい。それに比べて私は…。

未来は、この日何度目かのため息をついた。

動画撮影の後、段取りの悪さを謝る未来に、亜希子は優しく言う。

「仕方ないよ。コロナ禍の時は自宅からのリモートインタビューだったから、準備がこんなに大変だなんて知らなかったよね。未来ちゃん、お疲れさま!」

― はあ、またコロナ免罪符。優しさは嬉しいけど、本当につらい…。

「この後時間ある?コーヒーでも飲もうよ」

未来は、亜希子に誘われて、会社のカフェテリアに移動した。




浜離宮庭園の緑が綺麗に見渡せる窓際のカウンター席で、未来は熱いラテを飲みながら、弱々しい声をあげる。

「私、一人前に仕事ができる気がしていたけれど、実際に会社に来てみたら、何もできないんです」

会社は、銀座からほど近くに位置している。浜離宮庭園の緑が、未来の目にまぶしく映った。

「オフィスのことを何も知らないし、こんな素敵な場所に会社があるのに、飲み会もお食事会も、まだ全然経験なくて…」

「確かに、未来ちゃんたちの状況って特殊過ぎるよね。入社していきなりリモートワークでしょ。画面越しに初めましての名刺交換なんて、ちょっと前ならお笑いのネタだったよ」

入社してすぐ、300人を超える同期でリモート懇親会をやったなんて言ったら、亜希子はどんな反応をするだろう。

「そうだ、未来ちゃん、私からビッグニュースです」

亜希子はアイスラテを一口飲むと、いたずらっぽく微笑んだ。

「私、退職しまーす!辞めて、カナダに留学するの。あ、まだ周りには内緒ね」

「えっ!亜希子さん、うそでしょ…」

未来は絶句した。

「会社でやりたいことはもうやり尽くした!ねえ、これ見て」

亜希子は、今どき珍しい紙の手帳を開く。

「え、何ですか?いろいろ書いてあるけど…。プロジェクトマネジメントを身に付ける、社内ベンチャーを立ち上げる、自分の経験を伝える…?」

亜希子の力強い文字を読み上げ、未来は首をかしげた。




「それね、私が20代のうちに仕事で経験したかったこと、『ウィッシュリスト』なの。先日めでたくすべて達成しました!」

「ウィッシュリストですか…」

未来にはあまりピンとこない。

「でも私、まだ28歳でしょう?だから今度は仕事抜きでやりたいことを思う存分やっちゃおうと思って。幸か不幸か結婚の予定もないし。

あれ、未来ちゃんは、長く付き合っている彼氏がいるんだっけ?」

未来の脳裏に、もうすぐ交際4年になる恋人の顔がちらつくが、今はそれどころではない。

「そんな話より、亜希子さんの話です!」

亜希子は、うふふ、と笑って続けた。

「どうしようもない理由で、状況は変わるでしょう?オリンピックの仕事をしてたときなんて、延期に、無観客開催に、プロジェクトが何度も白紙に戻って、そのたびに立ち上がってまた走り出すのはさすがにつらかったし」

亜希子のアイスラテの氷がカランと音を立てる。

「だから自分軸のゴールを決めて、小さくても達成感を味わおうと思ったの。それがこのウィッシュリスト」

「その考え方、すごい…」

未来の言葉に、亜希子はうふふ、と笑った。

「そんなに大層なものじゃないのよ。興味があることを、気軽にリストにして、達成できたら素直に喜ぶの」

「気軽に…。私にも、できるかな?」

未来が独り言のようにつぶやくと、亜希子は大きくうなずいた。

「未来ちゃんたちの状況って、本当に仕方がない。それよりも、今からでもできることに目を向けていこうよ」


未来が人事部のフロアに戻ると、後輩のエミリが、席でこっそりスマホをいじっている。

画面をスクロールしながら、独り言を言っている。

「このデパコス、かわいい!ウィッシュリストに追加しちゃおう」

「…ん?ウィッシュリスト?」

未来は思わず反応してしまう。

「はい。なんか良さそうっていうものを、気軽にリストにしているんです」

興味があることを、気軽にリストにして、達成できたら素直に喜ぶの―。

亜希子の言葉がよみがえる。

未来は自分の席でメモ帳を広げ、ペンを片手に持つ。そして、願いごとを書いてみた。

『もっといろいろな経験がしたい』

ひとつ書いたところで、未来のスマホが震えた。

『悠斗:今週末、会うのは夜からで良い?場所はいつもの店で』

今週末は、大学時代から付き合っている恋人・悠斗との交際4年記念日なのだ。






週末。

「4年記念、おめでとう!これからもよろしくね」

未来と悠斗は、飲みなれた味のスパークリングワインで乾杯した。

緊急事態宣言中でもお酒が飲めたこのレストランを訪れるのは、もう何回目になるだろう。

「やっぱりこの店が落ち着くな。俺たちのサークルの集まりも、ずっとここだったしな」

未来が悠斗と出会ったのは、早稲田大学のテニスサークル。近隣の学習院女子大学からインカレで所属することができたので、未来は参加した。

「そうだね。よく練習の後、ラケット持ったまま大勢で押しかけたよね」

この店はガヤガヤ感がなく、かといって気取ってもいないちょうどいい雰囲気で、重宝していた。

「そうだ、私たちのインカレサークル、どうなるんだろう?学習院女子大、なくなっちゃうでしょう?早稲田だけのサークルになるのかな?」

未来と悠斗は、取り留めのない話をする。

「どうだろう。サークルの奴らに今度聞いてみよう。そうだ、この前うちの設計事務所にOB訪問に来た後輩が、未来に会いたがってたよ」

悠斗は現在、建築設計事務所に勤務していて、一級建築士を目指し勉強中だ。

交際期間が長い未来と悠斗は、サークル仲間の間でも、恋人以上、夫婦未満のような扱いを受けている。

― まあ、私も将来は悠斗と結婚するつもりだけど。

悠斗も『俺が一級建築士の試験に合格したら、結婚しよう』と常々言ってくれる。




悠斗の顔を見ながらスパークリングワインを飲むと、交際してから4年間の思い出が、昨日のことのようによみがえってきた。

― 大学対抗戦に出場した悠斗の最終試合は、緊張したなあ。あと、サークルメンバーで企画した、悠斗の大学院の卒業パーティー。楽しかったな。

そのとき、未来は不意に愕然とする。

― あれ?私、自分メインの思い出がほとんどなくない?

未来の胸に、ふいにもやもやとした気持ちが広がる。

悠斗の人生を応援し続けた結果、自分は何も経験せずに年を取ってしまったのではないか。

そんな疑念が浮かんだのだ。

「未来、俺、決めたんだ」

早くもマリッジブルーになりかけていた未来は、ほろ酔いの悠斗の声で、我に返る。

「2年後までに、絶対に一級建築士の試験に合格する!うちの事務所は忙しいけど、俺、決めたんだ。そしたら結婚しような」

2年後。

そう聞いて、未来はほっとしてしまう。

2年間というのが、自分に与えられた猶予なのかもしれないと思ったのだ。悠斗と人生を歩み始める前の、自分のためだけの2年間。

未来は、ひそかに決心した。

― 私も、ウィッシュリストを作ってみよう。自分軸の人生を楽しんで、それから迷いなく結婚する!

「悠斗、ありがとう。私、頑張ってみる」

少し的外れな返事になったが、未来の気持ちは、これまでになく前向きになっていた。

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