恋に仕事に、友人との付き合い。

キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。

すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす?

▶前回:「GWが憂鬱」LINEの友達は190人もいるのに、誘える相手は1人もいなくて…




「みんな同じ」じゃ窮屈だから…/安奈(28歳)


月曜日、8時30分。

「おはようございまーすっ」
「あ、おはよーう」

狭い更衣室は、出社してきた同僚たちであっという間にギュウギュウになった。

ここでは、となりのロッカーはもちろん、向かい側のロッカーにも気を配らなくてはならない。

「ごめんなさい、ちょっと開けてもいい?」
「はい!こっち、閉めます」

スペースに余裕がなく、扉を半開きにするのがやっとだ。

― これじゃあ、制服を取り出すだけでも大変だよね。

私は、高橋安奈。

新宿にあるオフィスビルの1階、住宅設備を展示したショールームで、アテンダントスタッフとして勤務している。

オープニングスタッフとして働き始めて、もうすぐ3年。

仕事の前に気疲れしたくない私は、今日もみんなより10分前にやってきて、すでに着替えを終えていた。

少し離れた場所にある全身鏡の前に移動すると、首にふんわりスカーフを巻き、更衣室をあとにする。

そして、始業時刻の9時。

ショールームの開場は10時だから、まだシャッターが下りたままで薄暗い。

支度を済ませたアテンダントたちがぞろぞろとやってきて、横一列に並んだ。

同じ制服、同じヘアスタイル、同じメイク。同じ笑顔と同じ姿勢に、同じように切りそろえられた素爪…。

― 今日もみんな同じ…。

いつしか見慣れた光景になっていたけれど、俯瞰するとちょっと異様だな…なんて思ってしまう。

― 自分だって、そのうちのひとりなんだけど。

この朝礼も、そのあとにおこなわれる恒例の“あの”儀式も、私にとってはちょっぴり憂鬱なのだった。


ショールームでの主な仕事は、来場者の案内だ。

予約の団体客には、ツアー形式でショールーム内をまわりながら、ひと通り商品説明をすることもある。

この仕事に就いたのは、大学時代のあるできごとがきっかけだった。

演劇サークルに所属する友人から、台本のナレーションを頼まれたとき。「声が透き通っていてきれい」とちょっとした話題になったのだ。

受験生向けの学校案内の動画に出てほしい、と出演依頼をもらったこともあった。

― もしかして、私…話す仕事が向いてる?

すっかりその気になった私は、テレビ局の女子アナを目指した。ところが、アナウンススクールに通って真剣に就職活動をした甲斐もなく、採用試験は全滅。

肩を落とす私に、スクールの講師が勧めてきたのが、ショールームのナレーションの仕事だった。一度転職をしているから、ここが2社目だ。




朝礼が終わると、いつもの発声練習が始まる。

「今日は、『外郎売(ういろううり)』の最初からです。高橋さん、リードをお願いします」

日替わりでまわってくる仕切り役は、2つ下の英里子ちゃんだ。元CAで、語学に堪能な彼女は、英語でのアテンドも難なくこなす。

整いすぎた美人顔はクールに見られがちだけれど、シフトが被る日は“安奈さん、一緒に休憩取りましょ!”と人懐っこく誘ってくれる。

私は、英里子ちゃんに「はい」と返事をして、リードをはじめる。『外郎売』は、歌舞伎の演目で、声を使う仕事をする人ならおなじみのトレーニング教材だ。

「“拙者親方と申すは、お立会の中に御存じのお方もござりましょうが…”」

ほかのアテンダントたちが、声をそろえてあとに続く。

― うーん、声出しの練習は大事だけど…。やっぱり、このやり方って儀式的で苦手かも。みんなはどう思ってるのかな?

そんな懐疑的な気持ちが、声に表れていたのかもしれない。

「高橋さん、ちょっといい?」

発声練習のあと、マネージャーから呼び出された。だが注意されたのは、見当違いなことだった。




「開場まで時間がないからハッキリ言うけど、リップの色が濃すぎるわ。直してもらえる?」

「…リップですか?すみません、いつも使っているもの以外は持っていません」

「それ、いつもと同じ色ってこと?ずいぶん違って見えるけど…じゃあ取りあえずそのままでいいわ」

同性とはいえ、マネージャーに口もとをジロジロ見られるのは、いい気分ではない。

「はい…。では、ツアーの準備をしてきます」

私は、朝一の業務にかこつけてサッとその場を離れた。

― 朝に塗ったティントがまだ残ってたのかも…。

制服のポケットから手鏡を取り出すと、さすがは色落ちしにくいと話題のティントだと感心する。

― 会社に来る前に使うのは、まずかったか。

このショールームでは、ファンデーションの質感からアイメイクの方法、リップに至っては品番まで厳しく決められている。

“できるだけみんな同じになるように”と、3ヶ月に一度はメイク研修もおこなわれる。“みんな同じ”にこだわる理由はよくわからないけれど、クライアントからの強い要望があるらしい。

― 私はコスメが大好きだから、ちょっと窮屈。

だからこそ、Instagramにメイク動画や写真を投稿して楽しむことで、心のバランスを保っている。

“anna”の名前をアナグラムで“nana”に入れ替えたアカウントは、フォロワー数5,000人。

決して多くはないけれど、リールの再生数は17万なんてものもある。例のティントに関する投稿も、帰宅後にアップしようと思っていたところだ。

ところが―。

終業後、ふたたびマネージャーから呼び出され、私はがくぜんとした。


マネージャーは、眉間にシワを寄せながらこう言った。

「あなた、Instagramで収入を得てるって噂になっているけど…。心当たりはある?」

「収入は得てませんっ!…何ですか、その噂って?」

「アテンダントのあいだでそういう声が上がっているのよ。まぁ、SNS自体は禁止じゃないけど。副業となったら話は別だから、覚えておいてね」

― アテンダントの誰かが告げ口したってこと…?

真っ先に思い浮かんだのは、英里子ちゃんの顔だった。

― まさかとは思うけど…ね。いやでも、彼女にしか話してないのよね…。

会社にバレると面倒なので、私は仲の良い英里子ちゃんにだけしか、SNSの存在を明かしていない。

彼女は「相互フォローしたら、ほかのアテンダントにバレるかもしれないから…」と気を利かせて、“見る専”で楽しむと言ってくれていた。

「ううん、疑っちゃダメ!そもそも顔出ししてるんだし、誰かが偶然見つけたんだよね」

わりと大きめの声で、自分に言い聞かせるようにひとり言をつぶやきながらInstagramを開いたときだった。

― これ…何?




ふいに流れてきた広告に、ピタリと指先が止まる。

“寝そべって聴くオーケストラ”

オーケストラのステージ前で、ビーズクッションに横たわる男女のイラスト。公演中は寝そべるどころか、寝てしまってもOKと書かれている。

「ふふ…寝てもいいって。でも、これならハードルが高くなくていいかも!」

詳細を読み進める。

「えっ、公演中はスマホを見てもいい?お酒も飲めるし、会話してもいいのっ?」

ここまでくると驚きを通り越して、もう興味しかない。

これといって音楽に詳しいわけでもないのにワクワクし、チケットの販売開始を待つことにした。



チケットの発売日。

ほんの数時間出遅れただけで、目当てのビーズクッション席はおろか、ハンモック席もソールドアウトしている。

残っているのは、リクライニングチェアの座席だけ。私は慌てて予約と支払いを済ませ、何とか1席押さえることができたのだった。

― どうしようっ、初めてのオーケストラなんだけど…!ドレスコードなしって書いてあるけど、せっかくならオシャレしていきたいよね。

公式サイトに出演者情報や会場内で販売されるドリンク、フードのメニュー、グッズに次いでプログラムの一部が公開される頃には、職場でモヤモヤしていた悩みごとは、頭の片隅に追いやられた。

そして迎えた公演当日。




“開演1時間前からお席でくつろげます”

そんな案内を見ていた私は、あらかじめ決めていたように、チョコレートサンドとクラフトカクテルを手にリクライニングチェアに座った。

― あと30分かぁ。これからオーケストラを聴くっていうのに、座席でカクテルって何だか背徳感…。

2杯目のカクテルを半分飲むころには、緊張が緩み気分がまどろんできた。

しばらくすると、それぞれの楽器を手に出演者たちが席につき始める。指揮者のあいさつが済むと、早速1曲目。

春をテーマにした、誰もが知る名曲で始まる。

― うわ…これが生の楽器の音なんだ。

私たちを日常から切り離し、別世界へと誘うような優しい音。かと思ったら、ヴァイオリンのソロパートにガシッと心をつかまれる。弦楽器特有とでもいうのか、リードしてくれる力強さが魅力的だ。

木管楽器の音色は温かみがあって、情緒的。曲の歌詞を思い浮かべると、すごく合っている。

うっとりした気分に浸っているとソロパートが終わり、たくさんの楽器が一斉に奏でる大迫力のハーモニーだ。音が振動となってお腹の底に響き、ビリビリ震える。

目を閉じると聴覚がより敏感になって、まるで音のシャワーを浴びているようだ。

― はぁ…なんてすごいんだろう…。

ふたたび目を開ける。

形や大きさ、色が違うたくさんの楽器が“ここ!”というポイントで個性を放ったり、調和したりして輝く。

90分の公演は、名残りを留めてあっという間に終わってしまった。



翌日―。

アテンダントの控え室にやってくると、先に休憩に入っていた何人かの話し声が聞こえてきた。

「ねえ、高橋さんのインスタ見た?あれって照明とか準備して、自分で撮ってるんでしょ?」
「本当、よくやるよね」

― 嫌なタイミングで来ちゃったな、どうしよう。

すると。

「えー?私は好きだけど、安奈さんの投稿。このあいだの韓国コスメ…えっと『AMUSE』の粘膜リップティントなんて、つい買っちゃったし!」

英里子ちゃんの声に、私より1つ上の木村さんが続く。

「うん、私も『BOBBI BROWN』のリュクス アイシャドウ真似しちゃった!仕事の日には使えないけどね。ていうか、安奈ちゃんがメイク講習の先生してくれたらいいのに」

私はこのときハッとした。

昨日のオーケストラ公演の帰り道、何かに気づいたようで、その正体をつかめずにいたが、ようやく気づいたのだ。

― そうだ!「みんなが得意なことを、もっと活かせたらいいのに」って思ったんだ。

英里子ちゃんは、英語。木村さんは、前職のテーマパークキャストの経験を活かしたシアタールームでの接客。きっと、お客様のテンションを上げるのがうまいと思う。

ほかにも元保育士のアテンダントだっている。それぞれの個性をもっと伸ばすことができたなら、調和したときの熱量がグンと増す気がする。

あのオーケストラの演奏のように…。

― 明日、マネージャーに提案してみよう。

クルリと振り返り、控え室の前から去ろうとすると、うしろから声をかけられた。

「あ、安奈さん!」

「英里子ちゃん、木村さん…?」

「私たち、今からマネージャーのところに行こうと思ってるんです。実は、安奈さんに次のメイク講習の先生をしてほしくて…。あ、それより先に…安奈さん、引き受けてもらえますか?」

願ってもいない提案だった。

心の中で、もう一度英里子ちゃんに謝罪をしてから口を開く。

「あのね、私も…今同じようなことを考えてたの」

“みんな同じ”が悪いことだとは言わない。けれど、春の風がスッと通り抜けられるような風穴を開けるのも、ときにはいいんじゃないか―と思う。

今私は、頼りになる同僚たちと一緒に、新たな一歩を踏み出したい気持ちでいる。

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