(画像:Ado公式Xプロフィールより)
 Ado国立競技場ライブ「心臓」(4月27、28日開催)が騒動になっています。参加した人たちが、“音響がひどい”とか”歌が聞こえなかった”と訴えているのです。

◆「音が貧相だった」批判の声。本人Xでコメント

 その多くは、「観客の手拍子で歌や演奏が聞こえなくなるほど音が貧相だった」とか「歌が聞こえないのはおろか、ドローンや花火などの演出さえ見えない席があった」と、ライブ全体への不満の声でした。

 また、「かつて近隣の億ション住民から騒音の苦情もあったことから近隣住民への騒音対策もあって機材を十分に使えなかったのではないか」とか「会場の規模に見合ったシステムを組まなかった過失」、さらには「国立競技場自体がコンサートに向いていない」といったコメントもありました。

 こうした批判を受け、Adoも反応。自身のXアカウントで「私達も、初めての場所、初めての環境下の中での(筆者註・原文ママ)制作でした。それを楽しみにきてくださったお客様の皆さまのお言葉、嬉しいこと、喜ばしいこと、勉強、糧にしなければいけないこと、しかと受け止めて、今後に活かしていただければと思います。(筆者註・原文ママ)」と、“反省の弁”を述べました。

◆コンサート目的ではない大会場では“聴いた”より“目撃した”

 筆者は現地にいなかったので詳細はわかりませんが、コンサート開催を主目的に設計されていない大きな会場では、多かれ少なかれ音はぼやけるものだと痛感しています。

 1998年に東京ドームで行われたローリング・ストーンズ、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルのジョイントライブは、いずれも音が遅れて聞こえてきました。遅れるだけでなく、残響が回収されないまま積み重なっていくので、ごわごわとうねった大音量しか残らないのですね。

 当然、曲や演奏の全体像は把握できませんでした。日本武道館ぐらいのサイズだと多少ましになりますが、それでも“聴いた”という満足感は得られにくい。

 そう考えると、大きな箱でのライブはこれとトレードオフで“その場にいて目撃した”という満足感を観客のお土産にしてもらうために行われると言っても過言ではありません。

 Adoのライブに参戦した人たちもそれぐらいは理解していたでしょうから、それでも見過ごせないほどにひどかったのだろうと想像できます。

 では、今回のライブは本当に会場だけの問題、また音響システムの設定、見通しのミスだけの話なのでしょうか? 別の視点から考えてみたいと思います。

Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか

 そもそも、Adoの音楽、プレゼンテーションに無理はないのか、という問題です。

 まず、曲。大ヒットした「唱」をひとつとっても、一曲の中でいくつもの急展開があり、そこに多くの楽器、効果音が使われ、細かなフレーズが入り組んでいる。ヘッドフォンで聴いたとしても、一度で全てを追いきれないほどの情報量がある楽曲です。

 これを大きな会場、しかも屋外で再現することを考えると、かなり厳しいと言わざるを得ません。

 そこで、やむを得ない音質の乏しさを補うために、ステージの演出やAdo自身のレア感が重要になってくるわけですが、ここで新たな問題が出てきます。顔や姿を出さず、シルエットだけのキャラクターに、どれだけ没入できるかという問題です。

 たとえば、テイラー・スウィフトやビヨンセのライブを観に行って、最高級の音質を楽しみたいという人は稀でしょう。(なかにはうるさ型のマニアもいるかもしれませんが)やはり、彼女たちが発するオーラを体感したい、観客にそう感じさせるのがアーティストでありスターなのですね。