レストランに一歩足を踏み入れたとき、多くの人は高揚感を感じることだろう。

なぜならその瞬間、あなただけの大切なストーリーが始まるから。

これは東京のレストランを舞台にした、大人の男女のストーリー。

▶前回:大好きだった彼女が結婚する。彼女の“2番手”だった男2人は、彼女の結婚式当日…




「きっと、これが最後の記念日」潤(23歳)/恵比寿『Atelier LaLa』


― 新入生歓迎会の時期って、ほんとキャンパスが賑やかだなあ。

5月の頭。

早稲田大学の大学院に進学したばかりの潤は、日が暮れた構内を早足で歩く。

同い年の彼女・小春と、恵比寿のレストランで19時に待ち合わせているのだ。

今日は交際3年目の記念日。Tiffanyでリングを買ってきた。

オレンジの電灯に照らされる、美しいブルーの紙袋。中には、小春への思いをつづった手紙も忍ばせてある。

「間に合うかな…」

元気あふれる学部生たちの間を縫うように、潤は急ぐ。

校門を出て、東西線の早稲田駅から高田馬場駅へ移動し、山手線に乗り換えて6駅。

待ち合わせのお店、『Atelier LaLa』に、時間通りに到着した。

ここは、小春が気に入っているイタリアンレストランだ。

味はもとより、架空の映画の主人公「LaLa」のアトリエという設定の世界観が大好きだという。

「記念日はここがいい」という彼女のリクエストに応じ、予約した。

― カジュアルなお店を選んでくれたのは、まだ学生である僕への配慮だろう。

潤は思う。小春の、そういう優しい気遣いができるところも、大好きだと。

席に案内されたとき、スマホが震える。

『小春:ごめん、残業してます』

そっけないメッセージだ。

― 昔の小春だったら、デートに遅れるときは、半泣きの勢いで電話をかけてきたけど。

潤は1人、グラスの赤ワインを注文し、物思いにふける。

院に進学した潤とは違い、小春はこの春から新社会人になって、大手広告代理店で働いている。

就活を始めたあたりから、小春はどんどん変わっていった。


潤が小春と出会ったのは、1年生の秋頃。

早稲田大学文学部で同じ基礎科目を受講していたのがきっかけで、彼女の存在を知った。

教室で初めて会ったときから、潤は彼女の素朴で可憐な雰囲気に虜になる。

― でも、どうやって距離を縮めたらいいんだ?

中高一貫男子校出身、女性経験皆無。

シャイを自認する潤は困り果てながら、1年から2年にあがる2021年の春、ありったけの勇気を出してお花見に誘った。

お花見といっても、大学の周辺を2人でゆっくり散歩しながら桜の木を眺めるというシンプルなもの。

途中、休憩のためにイタリアン・カフェに寄って、チーズケーキを食べたのを懐かしく思い出す。

潤は緊張と不安と愛しさで胸がいっぱいで、うまく会話が続かなかった。ただ沈黙を避けるため、延々と「このチーズケーキおいしいね」と繰り返したのを覚えている。

その日をきっかけに距離が縮まり、数週間後のGWに潤のほうから告白し、交際開始。

2人で公園で散歩したり、カフェで本を読んだり、たまに近場で旅行したり。幸せな時間を積み重ねた。




「あの頃と比べて、最近はなあ…」

グラスワインに口をつけると、華やかな香りが鼻を抜ける。

小春は「20時過ぎになる」という。

潤は、先んじていくつか食事を注文した。

生ハム、ガーリックシュリンプ、白身魚のポワレ。どれも小春が好きそうなものを選んだ。

大学3年の秋頃、就活を前に、小春は変わった。

「いい企業に就職して、安心して暮らしたいの」

「うちは裕福とはいえない家庭だから、私が稼いだらみんなを楽にできるしね」

小春は高いモチベーションで、一流企業に絞って志願。

インターンシップから本気で取り込んだ結果か、社会で重宝されるような明るさや社交性を、みるみるうちに身に付けていった。

そして実際に、複数の有名企業からの内定をゲットした。

内定の数だけ大人びていく小春。その頼もしさ。潤は、もちろん純粋に応援していたし、かっこいい彼女を誇らしく思った。

ただ同時に、時折さみしさを感じるようにもなった。

潤は、当時から、院へ進学して柳田國男の研究をすると決めていた。

― 卒業したらまったく違う道になるけど、僕たち、うまくやっていけるのかな。

小春の就活中に抱き始めた不安は潤の中で、今もなお、どんどん濃くなっている。




たとえば、あんなにのんびりしていた小春が、レストランでチャキチャキと注文を済ませるとき。

読んでいる本の種類が、文学作品から、ビジネス書に変わったことに気づいたとき。

そして、電話の時間がどんどん短くなっていることに気づいたとき。

最近は、潤から電話をかけても折り返しすら来ない。潤は、自分の優先順位が下がっているのを感じる。

社会人になりたてなのだ、さぞ忙しいのだろうと自分に言い聞かせるが、この恋が終わりに向かっているようにしか思えないのだった。

「ごめん、お待たせ」

手を合わせながらやってきた小春は、ブラウンのスーツをカシっと着こなしている。

「美味しそう!これはワインが合いそうね」

小春は、すぐに手を上げて、お酒と、和牛ラグーのパスタを注文をした。


「いやあ、遅れちゃってごめんね」

彼女はもう一度謝ってから、話を始める。

1ヶ月の新人研修を経て、今日、営業職に配属されることが決まったこと。GW明けに、1つ上の営業職の先輩を集め、大きめの飲み会を開くことになったこと。

小春は自ら幹事役を名乗り出たという。「そのお店探しのためにこんな時間になっちゃった」と苦笑いした。

「先輩のうちの1人が、お店探しを手伝ってくれたの。うちの会社って、ホントみんないい人ばっかり」

テーブルに並んだ料理を自分のプレートにとりわけながら、小春はその先輩の魅力について語る。

次第に話は、最近の広告業界、テレビ業界の事情に広がっていく。

小春の話だからと、潤は興味深く聞いていた。しかし和牛ラグーのパスタがなくなる頃、なんだか急にむなしくなってしまう。

「…あのさ、小春。もっと2人の話をしない?ほら、今日は記念日だしさ」

「え、2人の話ってなに?」

「これまでの思い出とか、これからのやりたいこととか。そういう話」

潤には、小春と今年行きたい場所がいくつもある。

熊本の阿蘇山、北海道のニセコ、ちょっと足を延ばして台湾もいい。

そういう話を自分から始めようと思った瞬間、小春は声をしぼりだすようにして言う。




「…よくわからない。やりたいことって、なんだろう」

隣のカップルが談笑する声が、急に耳に入る。

「…思いつかない」

「なんでもいいよ。一緒にやりたいこととか、行きたいところとかあるならプラン立てるし」

「…ない…かもしれない」

潤は泣きそうな気分をごまかすように笑う。

「そっか、いいんだ。お互い環境が変わったし、先のことなんて考えにくいよね」

たぶん小春は、2人の思い出よりも、輝いている先々の日々に夢中なのだ。未来への希望の量が、思い出の量を上回ってしまったのだ。

潤は、妙に納得した。

― 「一緒にいるの、もうしんどい?」。そう聞いてあげた方がいいのかもしれない。

でも、そんなことをしたらあっという間に小春を失ってしまいそうで、潤はなにも言えない。

だから、話題を戻す。

「ねえ、小春はこれから仕事でどうなりたいの?」

等身大の野心を語りはじめる小春。途端に目がキラキラがし、表情が色づく。

潤は、ホッとしたような、心がつぶされるような、複雑な感覚に陥る。

気づけば21時半。

注文したチーズケーキが出てきたタイミングで、潤は、Tiffanyの紙袋を小春に手渡す。

「え、なに?…開けていい?」

ゴールドのリング。そして、手紙を見て、「おお」と言う小春。

彼女はリングを手にとり、自分の右手薬指につけた。




「ありがとう。いいデザインだね」

笑う小春の表情からにじみ出る、ぎこちなさ。

彼女が本当に喜んではいないことがわかるくらいには、一緒に生きてきた。

― 多分これが、最後の記念日になるな。

潤は、そう直感せざるをえない。

手紙には、これまでの思い出や、一緒に行きたい旅行先についての思いを書いた。

それから、忙しくなるであろう小春の体調が心配なこと、何かあったら自分を頼ってほしいことを書いた。

あんな手紙は、きっともう彼女の重荷になる。わかっていても、潤は伝えたくて必死でしたためたのだ。

― だって…失いたくない。

でもきっと、もう、この恋愛は難しい。

「ねえ、潤くん」

「ん?」

「…チーズケーキ、おいしいね」

「ね、おいしいね」

「ね」

― この会話…。付き合う前の僕らに戻っちゃったみたいだな。

潤は打ちひしがれた気分で「うん、ホントおいしいね」とまた言って、笑顔を作った。

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