◆これまでのあらすじ

数年ぶりに再会した、医師の陸と外資コンサル勤務のミナト、そして弁護士の幸弘。

3夫婦それぞれがレスで悩む中、幸弘の妻、琴子に子宮筋腫が見つかり、将来子どもが産めないのでは、と不安になる。

義父に不妊クリニックのパンフレットを渡され、琴子は将来のことを考えることに…。

▶前回:「本当に仕事?」土日も出勤する外コン勤めの夫に、31歳妻は不満を持ち…




妻・小野琴子の決意


夜はまだ少し肌寒さの残る、5月初旬の金曜日の午後9時。

「小野さんですね、こちらの番号札を持って、おかけになってお待ちください」

琴子は、渋谷区にある不妊治療専門のクリニックを訪れている。

先日、義父に「予約しておいたから」とパンフレットを渡された場所だ。

― 不妊とかいう問題じゃなく、私たち夫婦はそもそもずっとしてないんですけど…。

何も事情を知らないのに、琴子の体に問題があるのではと邪推する義父に腹が立ち、琴子はクリニックの訪問を断ろうかと思った。

しかし、一度話を聞いてみるのも悪くないかも、と思い直し1人でやってきた。

― 遅い時間なのに、人がいっぱいいる…。

このクリニックは、午後11時まで開いているので通いやすく、ドクターもよいと評判だ。

待合室には、夫婦で来ている人が半数ほどいて琴子は虚しくなる。

― 「俺、子どもを欲しいと思ったことがない…」。

胸にチクリと刺さった幸弘の言葉を思い出す。

これまで、夫と子どもの話をしなかったわけではない。

他人の子どもを見たとき、琴子が幸弘に言ったことがある。

「今は考えられないけど、いつか子どもも欲しいよね」

その時、幸弘は否定せずに笑顔を向けた。

― 幸弘も同じ考えだと思っていたのにな…。

「302番の方」

自分の番号札を呼ばれ、簡単な検査の後、診察室へと通される。

40代の真面目そうな医者は、琴子の書いた問診票を見ながら、険しい顔をした。

「子どもを持つ時期が未定になっていますが、今日はどうしていらっしゃったんですか?」

見た目と違い、柔らかな口調に、琴子の緊張が解けた。

「筋腫が見つかったこともあって、将来的に子どもを欲しいと考えた場合、いつまでに作るべきか、それまでどんな対策をするべきかなど、相談したいと思いまして…」

すると彼はハハ、と笑った。

「受験対策ではないので、絶対これをしなさい、とは言えないです。ただ、一般的に35歳を過ぎると、1人目妊娠の確率がどんどん下がる傾向にはあるので、筋腫以前にそこは覚えておいてください」

「35歳、ですか…」

「ですが、今は医療も進んでいますし、色々な方法はありますよ。筋腫の方は主治医と相談して、もし妊娠したいと思ったら、いつでもまた来てください」

医師の爽やかな笑顔に、琴子は少しだけ救われた気がした。でも、夫婦の問題が解決したわけじゃない。

― やっぱりちゃんと、レスや子どものことについて話し合わなきゃ…。

明日はちょうど、久しぶりにディナーを予約している。

今までなんとなく逃げていた問題について夫婦で話し合おうと、琴子は決心を固めながら帰宅した。


初めての夫婦喧嘩


「なんか、久しぶりだね、こういうの」

琴子と幸弘は、乃木坂にある和食とワインを楽しめる店、『乃木坂 しん』を訪れている。




「ああ、確かに。そういえばこの間、俺の両親が迷惑かけたな」
「ううん、大丈夫。それでね、今日は少し話があって…」

琴子が話を切り出そうとした時、ちょうど食事が運ばれてきた。

「わぁ、美味しそう」

八寸を見て、琴子が小さく歓声を上げると、幸弘も微笑んだ。

幸弘の笑顔に安心した琴子は、本題に入ることにした。

「あのさ、今日こそは話さないと、と思っていたの。その、2人のことについて…」

幸弘は、表情一つ変えず、上品な箸使いで皿を綺麗にしていく。

「あの、最近ずっとしてないじゃない?お互い忙しいし、仕方がないとは思っていたんだけど。でもやっぱり、2年もしてないのは、夫婦として健全じゃないと思うの」

幸弘の顔色を読み取ろうとする琴子だったが、相変わらずのポーカーフェイスで、まったくわからない。

幸弘は、白ワインをゆっくりと口に含んだ後、口を開いた。

「夫婦として健全って、何?」

静かで優しく、でもどこか冷たい口調。

琴子はわずかに萎縮するが、なんとか言葉を絞り出す。

「やっぱり夫婦なんだし、愛情表現って大事だと思うの。普通の夫婦はもっとしていると思うし。それに、私は将来的に子どもを持ちたいし…」

お店の中だというのに、自分たちがいる空間だけが切り取られたように、周囲の喧騒が一切聞こえない。

幸弘はペースを変えることなく、ゆっくりと八寸を食べ終わると、ナプキンで口元をふく。

そして作ったように口角をあげ、琴子の顔を見た。




「琴子にとって、愛情表現ってそれだけなの?普通の夫婦ってなに?俺ら、普通の夫婦になりたいんだっけ?」

幸弘の言葉に琴子の緊張感が高まる。

「なりたいとかじゃなくて…。ただやっぱり、夫婦っていっても男女なんだし、そういうのは大事だと思うの」

幸弘と琴子は、これまで大きな喧嘩をしたことがない。

幸弘は、大抵琴子の意見に賛同する。家を決めるときも、家具を揃えるときも、家事の分担も、琴子が決めてきた。

だから、こういった意見の食い違いは、初めて。

張り付いたような笑顔を崩した幸弘は、「ふぅ」とため息をつき困った顔をした。


「俺は、琴子のことは大事に思ってるよ。最高の嫁だと思ってる。ただ俺にとって、セックスってそんなに重要だと思ってない。それに俺は、自分の子どもは欲しくないんだ」

「どうして?幸弘だって、いつかは子どもを欲しいと思ってた」




琴子の言葉に、幸弘は驚いた表情を見せた。

「いや、俺は子どもを欲しいなんて思ったことはない。いつか欲しくなる時がくるかもと思ったけど、俺の意見は今も変わってない」

「理由は?そこまで欲しくない理由でもあるの?」

ショックを受ける琴子に、幸弘は薄ら笑いを浮かべながら答えた。

「理由?俺はもうこれ以上、俺らみたいな犠牲者を生みたくないんだよ」

会話の合間に運ばれてきた料理を淡々と食べ進めていた幸弘は、最後の一口を飲み込むと、帰り支度を始めた。

「悪い。俺、事務所に戻るわ」
「え、ちょっと待ってよ。まだ話は終わってないんだけど…」
「ごめん。また改めて話そう」

そう言って、幸弘は席を立ち、個室の扉を開けようと手をかけた。

幸弘を引き止めるように、琴子が声を振り絞る。

「改めてっていつ?いつも大事な話のときは、そうやって逃げるじゃない」

感情的になるのを抑えるように話す琴子に、幸弘は冷たく答えた。

「琴子だって、わかっていると思ったけど。俺たちみたいな子、結局不幸になるだけだよ」

パタンと扉が閉まり、再び静寂に包まれる。

琴子は急に幸弘という人物がわからなくなり、呆然とするのだった。


夫・小野幸弘の葛藤


2日後の月曜日、午前9時。

幸弘は、シニア・パートナー弁護士に呼ばれた。

「実は、君をジュニア・パートナーにっていう話があがっているんだよ」

「ありがとうございます」

落ち着いた声で頭を下げる幸弘に、彼が資料を取り出して見せた。

「それでというか…。例の大企業が、顧問弁護士を変えるという噂が出ているんだ。ただ、他の事務所ももちろんその座を狙っているみたいでね」

「はあ…」

幸弘の悪い予感が、的中した。

「ここの代表、確か君のお父さんのお知り合いだったよね?今回の契約が取れれば、君を引っ張り上げやすいんだけどね」




「わかりました。父に聞いてみます」

幸弘はそう答えたが『またか』と心の中でつぶやき下唇を噛む。

こんなことは、今まで何度もあった。

幸弘が評価される裏には、いつも父親の影。

やっと自分の目指したい道に進んだと思っても、常に親が絡んできた。

だからこそ、必死に仕事をし、誰よりも実力をつけて認めてもらいたかったのだ。

それなのに、誰も幸弘を単体では見てくれない。

琴子だって、結局一緒だ。

親に逆らえず、家族のために幸弘を選んだ。

結婚して半年が経った頃。幸弘は徐々に琴子に心を開き始めていた。

だが偶然、彼女には結婚直前まで恋人がいて、結婚後も何度かその男と会っていたことを知った。

琴子が結婚を決めたのも所詮、親の意向に従っただけ。

子どもを欲しがるのも、親に言われたからだろう。

― 俺ら夫婦の間に愛情なんて、初めからないんだよ…。

幸弘は飲んでいたコーヒーの紙コップをグシャリと潰すと、自席へ戻った。




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