「髪切った?」と聞くのはセクハラ?後輩女性と会話中、34歳男が焦った理由
◆これまでのあらすじ
人気女性誌のWeb媒体でコラムの編集をする優斗(34)。わけあって、“そういうとこだよ”と言って去っていった3人目の元恋人・まど香にワードプレスの使い方をレクチャーしていると、彼女が激しく肩を震わせ始め…。
▶前回:「これってハラスメント?」大手出版社勤務・34歳男が悩む新人指導の“ボーダーライン”
Vol.8 「そういうとこ」も、悪くない
月曜日、18時半。
仕事を終え、僕が帰宅しようとしたときだった。
人けのない編集部の前の廊下から、パタパタと忙しない足音が聞こえてきた。
編集者人生12年、これまでに何度同じようなことがあっただろう。
次の展開を予測した僕は、鞄を足元に置いて残業の覚悟を決める。それからポツリとつぶやいた。
「“林さん、よかった、間に合って”だろう」
それとほぼ同時に、女性の声がかぶさってくる。
「林さんっ、よかった…間に合って!はぁ、はぁ…」
“やっぱり”と小さく頷きながら振り向くと、声の主は意外な人物だった。
「あれっ、臼田さん?」
「すみません…。林さん、もう帰るところでしたよ…ね?さっき何か言ってました?」
― き、聞こえてた…だと?彼女…耳がいいんだな。いやいや、さすがにこれは気持ち悪がられる案件だ…。
僕は手にしていたスマホにあえて視線を移し、調べものをしていたふうを装う。
「いや、うん…。でも大丈夫だよ!何かあった?」
「ちょっと…週末の撮影のことでご相談が…。少しお時間いただけませんか?」
臼田さんは申し訳なさそうな顔とは裏腹に、僕のことを引き止めようと必死な空気を醸し出している。
「…僕でいいの?できることがあったら、もちろん手伝うけど」
「林さんの担当じゃないのに、ごめんなさい。実は…」
臼田愛美(まなみ)は僕の1年後輩、写真室に所属する社内カメラマンだ。
アウトドア雑誌の編集をしていたとき、撮影でずいぶんお世話になった。
口数が多くなく、いつも端的に話すうえに表情を変えることがほとんどない彼女は、いわゆる撮影現場を盛り上げるタイプのカメラマンではない。
朴訥(ぼくとつ)という言葉がしっくりくる人柄で、後輩編集者の中山くんはよく「臼田さんって怖くないですか?」と言っていた。
一方で、臼田さんの仕事を評価する声も多い。
編集長と2人で、こんな話をしたこともある。
「臼田さんの撮る風景写真って、いいよなぁ」
「わかります、わかりますっ!編集長もそう思いますか?なんていうか、画角の切り取り方が絶妙で、センスがいいんですよね」
自然の生命力や力強さのようなものを真正面から誠実に捉える、稀有なカメラマンだ。一目どころか二目も三目も置いているのは自分だけではない。
だから撮影のときは、スケジュールが許す限り、臼田さんにお願いしていた。
しかし、僕が女性誌のWebコラムの編集をするようになってからは、めっきり顔を合わせる機会がなくなった。
最後に仕事してから、もう5ヶ月近くが経つ。
「で、どうしたの?週末は、何の撮影なの?」
悩んでいる様子の臼田さんに向き合う。
「それが、林さんが前にいらしたアウトドア雑誌の撮影なんですけど…」
臼田さんは、続きを言いかけてはやめてを2回繰り返した。言葉を選んでいるのがわかる。
― 今まで…あんまり人に相談とかしてこなかったんだろうな。
臼田さんが素っ気ない人だと思われてしまいがちなのは、もしかしたら人と話すのが極端に苦手だからなのかもしれない。
昔から知っている間柄ということもあるし、何とかして力になってあげたい気持ちになる。
「あの雑誌、今は中山くんが副編集長代理になったんだよね?何があった?大丈夫…?」
言った途端、僕はつい口をつぐむ。元恋人・香澄とのやり取りで、「大丈夫?」という過剰な心配が相手の自信を奪うことがあると知ったからだ。
「あ、はい、その…中山さんと…少し揉めてしまったといいますか…はぁ…」
― あぁ、やっぱり中山くんか…。臼田さんに“修正依頼しにくい”とか、いろいろ言ってたもんな。まだ解決してなかったのか。
あのとき、“コミュニケーションを取って”とか“いい関係性を築いていけば、もっと”とかアドバイスした僕は、彼にパワハラ扱いされて上司から注意を受けている。
ハラスメントは当人の受け取り方で発生するものとはいえ、中山くんは少し繊細なところがある人なんだなと思い、それ以降、接し方に気をつけるようになった。
― 同じ編集部で働いていた僕がこうなのだから、写真室の臼田さんが彼とやり取りするのには、相当な苦労があるんだろう。
「揉めたって、何があったのか聞いてもいいかな?それは僕の責任でもあるから。ごめん…」
「林さんのせいじゃないです!私こそ、すみません…。私がぶっきらぼうだから、編集部の方たちとうまくコミュニケーションが取れなくて…」
彼女は、うつむいたまま話し始める。
「中山さん、いつもアシスタントの子たちを挟んで連絡をくれるんです。だから、私の耳に入ってくるときには要点がボヤっとしてることが多くて…。それで私、つい…」
「つい…?」
「“私のことは嫌いでも、仕事のことなんだから直接話してくださいっ!”…って」
― AKBかっ!ううん、そうじゃなくて…意外とハッキリ言うタイプなんだな。
臼田さんには申し訳ないが、某アイドルグループの選抜総選挙における伝説のシーンがポワンと脳裏に浮かんだ。だが、彼女はいたって真剣な表情をしている。僕は、すぐに余計な考えを追いやる。
「う、うん…。それで?」
「それっきりです。しかも中山さん…フリーのエディターになるとかで、退社の準備があるからって週末の撮影も後輩に任せたまま、取り次いでもらえなくなりました」
「それは…迷惑をかけちゃったね。本当にごめん」
「いえ、林さんは何も…。それで相談というのは…後任の川島さんとの顔合わせに、林さんも同席してもらえないかなという勝手なお願いなんですけど…」
古巣とはいえ、後輩の失礼な振る舞いは、自分にも責任がある。
「もちろん、同席させてもらうよ」
「よかった…!ありがとうございます。…今回のことで、私ももっと編集部の方たちに信頼してもらえるように関係を築き直したいなって」
― 中山くんよ…、聞いたかい?
僕は、臼田さんの心意気に感心した。改めて彼女のほうに視線を向けると、切羽詰まった感じが消えて表情が和らいでいる。それと同時に、僕は―。
― 今…僕、ドキッとした?
◆
日曜日、7時半。
「あ、臼田さん。おはよう!」
「林さん…?どうしたんですか?」
ロケ地へ向かうハイエースの前で、川島くんと一緒に写真室の面々を出迎える。何も聞いていない臼田さんは、驚いた表情だ。
「実は、僕も今日だけ手伝わせてもらおうと思ってさ。…っていうのは口実で、久しぶりに自然に触れたいのが本音。モデルさんがいない撮影だっていうから、編集長に頼んで無理やりメンバーに入れてもらった」
なんて言ったけれど、先日の打ち合わせのぎこちない様子を見て、臼田さんと川島くんが打ち解けるきっかけができれば…と内心では思っている。
― これも“よかれと思って”に入るのかな。
3年前に別れた美紀からは、“よかれと思って”を装い、相手に責任転嫁していた自分を見抜かれていた。表面的な善意の裏には、ある種の“都合のよさ”が隠れていることがある、と。
― それなら…ただ善意を押し付けるんじゃなくて、もっと踏み込んでみたらいいんじゃないか?
それで、自分なりに動いてみることにしたのだ。
撮影が始まると、2人が打ち解けやすいように僕はそれぞれに耳打ちした。
「臼田さんは、自分から話すのがあんまり得意じゃないだけで、話すのが嫌なわけじゃないんだ。打ち合わせもしっかりしたいって人だし、…それに彼女が撮る風景写真はとにかく最高だから!」
「川島くんはレスポンスも早いし、気になることがあったらいろいろ言って大丈夫な人だよ」
“何か困ったことがあったら、いつでも連絡して”
こんなことを言いながら立ちまわっていると、自然に触れるどころか、まともに見ることもないまま撮影が終わった。
帰りの車内。
助手席の川島くんは、グラグラと頭を揺らしてすっかり眠ってしまっている。
僕は、運転手の後ろの席でノートパソコンを立ち上げると、ワードプレスにログインして、この日のうちに確認しておきたい原稿を開いた。
30分ほど車に揺られた頃、ようやく一息つく。
すると…。
「林さん、今日はありがとうございました」
「ん?こちらこそ、いいリフレッシュになったよ」
「…気を使ってくれたんですよね?風景どころじゃなかったんじゃ…あの、よかったらこれ」
後ろの席にいる臼田さんは、iPadを差し出してきた。画面には、さっきまでいた湘南の海が映し出されている。
「うわ…めちゃくちゃキレイだね。いつの間にこんなに撮ってたの?本当…いい写真だな」
「スクロールしてみてください」
言われるがままに指先を滑らせていくと、雲の切れ間から太陽の光が降り注ぐ1枚の写真に目がとまった。
「天使のはしご…だ。この写真、スマホの待ち受けにしたいな」
「それ、私も気に入ってる写真です。あとでデータ送りますね」
iPadを返すために、後ろの席へ振り向く。身を乗り出すようにしていた彼女と、顔がグッと近づいた。
「あっ、ごめん」
急に照れくさくなった僕は、ペラペラと喋りだす。
「そういえば、この前も思ったんだけど。臼田さん、雰囲気変わったよね?髪、切った?」
― 違う、違〜うっ!バカか、僕は…。これってセクハラじゃないか!
かつては、会話が続く魔法のフレーズとされてきたタモリさんの“髪切った?”だが、相手によってはセクハラだと言われてしまう時代なのだ。
何の偶然か、3人の元恋人たちから回収できた自分の“そういうとこ”が出てくるわ、気をつけてきたつもりがここにきてハラスメントをかますわで…。
慌てふためき、やっぱり僕は変われないのか、とがっくりうなだれる。
「…林さん?」
臼田さんの怪訝そうな声には続きがあった。
「髪、切ったんですよ!気づいてくれて嬉しいです」
「本当?あー嫌な思いさせちゃったんじゃないかって…焦った!」
「まさか!」
「そっか、よかった。ミディアムっていうんでしょ?その長さ、すごく似合ってるね」
「ありがとう…ございます。嫌な思いだなんて、私は…林さんがみんなのことをよく見てるところとか、陰でさり気ない気遣いをしてくれるところとか、何ていうか…“そういうとこ”、好きです。…って、尊敬してるって意味ですよ!」
― えっ…“そういうとこ”って、そういう使い方もあったの!?
自分の中でネガティヴ確定していた言葉が、いとも簡単にひっくり返されると、胸がドクンと強く脈打った。
単純な僕は、すぐに“そういうとこ”も悪くないんだと思い始める。頬がじんわりと緩んでいくのがわかった。
耳までカーッと熱くなったのは、ほかにも理由がありそうだけれど―。
産休中の元副編集長・三橋さんは、その頃…
『三橋:先週、生まれました!女の子、メロメロです。林くんはどう?うまくやってる?』
『優斗:おめでとうございます!僕は、おかげさまでいろいろありつつも何とかやってます』
― へぇ…林くん、いろいろねぇ…?
私は、我が子が眠る傍らで静かにキーボードを打つ。
「うん、あとは“レビュー待ち”にすれば…と」
ワードプレスの投稿一覧から所有を開くと、“ライター・メグ”の原稿がズラリと並ぶ。
三橋容子(40)、ペンネーム・メグ。私もかつて“そういうとこ”で振られかけた女だ―。
▶前回:「これってハラスメント?」大手出版社勤務・34歳男が悩む新人指導の“ボーダーライン”
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