「チープな正義感は通用しない」28歳女が、友人のために経済界に顔が通じる大物を怒らせてしまい…
前回:28歳女の誕生日を、男女4人でホテルで祝うはずが…。女2人が深く傷ついたワケ
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「宝ちゃん、服とか髪型とかすごく良く似合ってるよ。雄大さんもそう思うよね?」
雄大さんにシャンパーニュの入ったグラスを渡しながらの大輝くんの言葉に、雄大さんは大して興味がなさそうに私をちらりと見た後、グラスに口を付け、ひとくち口に含むと溜息をついた。
窓の外が夕焼けから暗くなり始めている。おそらく16時半くらいだろう。元々、今日は大阪出張だから参加できないと言っていた雄大さんなのに、なんとかして!と愛さんに言われた通りに予定を調整して戻ってきてくれたのだろうか。
そんな雄大さんの溜息が自分に対するものであることに、私は思わずうつむいてしまう。指先には愛さんが塗ってくれたボルドーのネイル。その指先についたビジューが部屋のライトに反射しきらりと光った。
私の全身をコーディネートしながら、宝ちゃんはシュッとした顔立ちだからこういうマニッシュな雰囲気似合うよね、と言った愛さんの笑顔を思い出すと、今ここに愛さんが不在であることが余計に悲しくなった。
愛さんをなぜ怒らせてしまったのか。その理由を教えて欲しいという私のお願いに、ソファーに座った雄大さんはまだ黙ったままだ。
雄大さんの横に2人分程のスペースを空けて私、大輝くんは私たちの正面、少し離れたところに置かれた1人掛けのソファーに、その有り余った長い脚をフットレストに投げ出して座っている。
ホテルのスイートルームというものに初めて入った私は、ベッドルーム以外のスペースがあることにも、窓の外に東京タワーが見えることにも、本来ならば驚き感動したのだろう。でも今は、この空間を自分のために用意してくれた人への申し訳なさで一杯だった。
「雄大さん、怒ってるのはわかるけど…少し言葉を緩めて話してね。宝ちゃんは何も知らなかったわけだし、悪気もなかったんだから」
「悪気があろうがなかろうが失態は失態。悪気がないから許せとかよく言うけど、悪気がないってやつの方がタチが悪いし、要するに考えなしのバカってことだろ」
はい、すいません余計なこと言いました、宝ちゃんもなんかごめんね、と私にまで謝ってくれた大輝くんに、私は首を横にふる。衝動的に愛さんについていってしまった行動が、まさしく考えなしのバカだったと、何もできなかった今は思うから。
ただ、いつもに増してきつい雄大さんの言葉は正直怖い。苛立ちを隠そうともせず、眉間にしわを寄せたままで、雄大さんが私を見た。
「さっきも言ったけど、今日のことは愛も悪い。むしろ愛が一番悪い。ついて行くと言われた時に断らなかったのがアホ。宝ちゃんが自分を思ってくれてることに感動して、とか言うんだろうけど、あの元旦那に隙を与えるだけなのに」
雄大さんの説明によると、元旦那さんの名前は瀧川偉文(たけふみ)さんというらしい。代々、偉人の“偉”を男子にはつけるという家系で、愛さんの息子、タケルくんも“偉瑠”と書くのだと知った。
「愛、今日1日、全く抵抗しなかっただろ?あの元旦那に」
雄大さんに問われて、はいと頷く。普段の愛さんと様子が違って…と話すと、それが愛の作戦だったんだよ、と雄大さんが言った。
「今の愛にとって、唯一の希望は、タケルくんが愛と暮らしたいと言い続けてくれていること。もちろん、愛だってタケルくんと暮らしたい。でも現状ではそれは無理だ。
だからタケルくんが15歳になるのを待っていた。15歳になれば、どちらの親と暮らしたいかという子どもの意志が尊重される可能性が高くなるからね」
でもその願いがあの元旦那にバレるとまずいから、と雄大さんは言った。
「愛とタケルくんはその願いを、その時が来るまで隠しておく約束をしたんだ。だから愛はずっと我慢してきた。1ヶ月に1度の面会でも、その面会時間が元旦那の監視に置かれることがあっても、彼の要求を全て聞いて反論もしていない。
少しでも抵抗の気配を感じられたら叩き潰されるからね。でも裏では弁護士を立てて準備していたし、あと5年。あと5年を待っていた」
「…あ、雄大さんが紹介したあの弁護士さんか」
大輝くんの呟くような反応に、雄大さんがうなずく。2人のやりとりから大輝くんもその弁護士さんと面識があることがわかった。
「だからだよ、宝ちゃん」
「…?」
だから、の意味がわからず首を傾げた私に、雄大さんが溜息をついて続けた。
「彼の家系は古くからの大地主で、企業経営もやっているけど、おそらく違法な裏社会とのつながりも強い。経済界に顔が利くだけじゃなくて、代々続いてきた政界とのパイプもある。
親権争いの時に、白を黒に変えることができたのは弁護士の力だけじゃなくて、裁判官を含む司法界にも根回しした可能性があると言ってる人もいるしね」
まるで韓流ドラマのような話の流れに驚く私とは対照的に、この話を知っていたのか、大輝くんの表情は変わらない。
「…そんなこと、日本でもあるんですか、…本当に?」
信じられず思わず聞いた私に、雄大さんが言った。
「宝ちゃんが想像できなくても、あるよ。権力で塗りつぶされる真実とか、捻じ曲げられる正義とかね。実際に今、愛が対峙してる世界で、オレも何度も経験してる」
― 雄大さんも、何度も。
「その世界では、宝ちゃんが信じてきた“世の常識”が通じないどころか、悪手になる」
タクシーの中で愛さんに言われた言葉を思い出した。
「宝ちゃんのチープな正義感も、宝ちゃんが育った田舎のあったかい家庭での理論も、ここでは…私と彼の間には通用しない。…私が今までどれだけ、あの子と暮らすために…」
私のチープな正義感。私の常識が通用しない世界。愛さんの言葉が脳内で何度も繰り返される。
話を戻すけど、と雄大さんが言った。
「愛が旦那に反論しなかったのがなぜかって話ね。おそらく今日、愛はひどいことを言われてただろ?容易に想像がつく。でもどんなに理不尽なあの人の態度にも、人格を否定される言葉にも反論しなかったはずだ。でも愛は、ただ怖くて黙っていたわけじゃない。
反論すれば元旦那のスイッチを入れてしまう。恐ろしいほど用心深くて、どんなに小さな危険分子でも事前に摘み取る人のスイッチを。一度戦闘モードに入ると、歯向かう相手を徹底的に叩き潰すまで気が済まないんだよ、あの人は。
だから愛は未来のために、じっと我慢してたんだ」
「…あ」
気が付いてしまった。私は…。
「…もしかして私が……噛みついてしまったことで…その、戦闘モードを…」
雄大さんは、電話で話した愛さんは興奮していたから、どこまで正しく聞けたかわからないけど、と前置きしてから、説明を続けてくれた。
「タケルくんを海外に留学させる話は、内緒の携帯電話がバレたせいだし、それは愛の浅はかさであり愛のミス。でもその上でさらにというか、宝ちゃんの言葉があの人に火をつけた可能性が高い。それに愛は焦ってるんだ」
「…私が…」
― どうしよう…。
気づけば大輝くんが私の横に座っていて、心配そうに肩を支えてくれていたけれど、とんでもないことをしてしまったという焦りで、その優しさに気がつくのが遅れた。
「宝ちゃんも怖かっただろうに、愛のために彼に歯向かってくれたんだということは愛もわかってた。ただ宝ちゃん、愛がタケルと暮らしたいと願ってる、ってことを言っちゃったみたいだけど…それは覚えてる?」
「すみません…言ったかもしれないんですけど、その…」
私は自分があの時何を言ったのか、はっきりとは思い出すことはできなかった。緊張していたし、興奮していたし、なにより怒りが膨れ上がっていたから。でも。
愛さんから聞いたという雄大さんの説明によると私は、「タケルくんと暮らす未来を夢見て頑張っている愛さんを、母親じゃないって言ったこと、謝って」「息子と暮らしたくない母親なんていない」とあの人に嚙みついたらしかった。
「宝ちゃんのその言葉に対して、愛はタケルと暮らしたいと言ってるのか?的なことをあの人は答えたらしいんだけど、それに愛は不安になってる。秘密にしてきた願いがバレたんじゃないか、タケルくんと一緒に住むために計画してきたことを、つぶされるんじゃないかって」
― どうしよう、どうしたら。
自分が起こした、思いもよらなかった、事の大きさに震えてしまう。私の肩に置かれた大輝くんの手に力が入り、大丈夫だよ、と声がふってきたけれど、その顔を見上げることはできなかった。
「愛は、ことタケルくんのことになると、異常なほど過敏でナーバスになるから、宝ちゃんへの言葉も八つ当たり気味というか、そこは多めに見てやって欲しいんだけどさ。オレからしたら、携帯を渡した時点で愛のリスク管理も緩すぎると思うし。感情に流されすぎる愛の弱点が露呈したよね」
淡々とした雄大さんの声に、私は、携帯のことを問い詰められていた時の愛さんとタケルくんの顔を思い出す。
「……でも……。海外に行かされるのが嫌で、お父さんが怖くて逆らえなくて、愛さんを頼ったタケルくんの気持ちも、そんなタケルくんを支えたくて、ダメだと分かっていても、携帯を渡しちゃった愛さんの気持ちも、私、わかります」
雄大さんの、そういうとこ、と言う声がして私は顔を上げた。
「今のコメントも、思わず口に出ちゃったんだろうけど。わかってる?宝ちゃんが今回思わず、勢いで喋ったことが問題になってるってこと。目的の遂行に必要なのは冷静な作戦であって、感情論は不要なの」
宝ちゃんって意外と思ったことすぐに口に出しちゃうよね、と呆れた声の雄大さんに、確かに…と落ち込む。オレは宝ちゃんのそういうとこ結構好きだよ、と大輝くんが慰めてくれるけれど、今はきっと100%雄大さんが正しい。
「私は危険の芽はどんなに小さくても摘むよ。勝負は勝たねば意味がないからね」
元旦那さん…タケフミさんの言葉、あの蛇のようなまなざしを改めて思い出すと、足がすくむ。
「…私、どうしたらいいですか?私に何かできることは…」
雄大さんにアドバイスをもらいたかった。愛さんの願いが、本当に壊されてしまう前に、私ができることがあるなら、どんなことでもしたかった。
「宝ちゃんにできることなんてないよ。そもそも、自分の野心のためにあんな男と結婚したのは愛だし、ま、ぶっちゃけトータルで言うと、愛の自業自得」
― 愛さんが、野心で結婚?
そんな疑問が浮かんだ私を気にすることもなく、あとはオレが対処するからと、雄大さんはコートを羽織り、あわただしく出て行った。
「…雄大さんに任せてれば大丈夫だよ」
大輝くんはそう言ってくれたけど、自分の無力がただただ呪わしく、大丈夫だという気分にはなれなかった。
「オレは、宝ちゃんの行動っていいなって思ったよ。雄大さんは冷静な作戦のみが必要とか言ってたけど、宝ちゃんが純粋に愛さんを思って、見返りを求めず動けたってすごいと思う。今回はうまくいかなかったけど、無駄じゃない気がするっていうか」
ただのなぐさめだとしてもありがたい。私がそう伝えると、大輝くんがいたずらをするような笑顔で言った。
「宝ちゃんの行動が無駄じゃなかったって、実証してみようか?…オレが、なんとかできるかも」
オレ、こう見えても結構なお坊ちゃまなので、とウィンクした大輝くんは、そのままどこかに電話をかけ始めた。
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