「何を話したらいいんだっけ?」結婚して3年、まるで同僚のような夫と2人きりになって困惑した妻は…
東京の女性は、忙しい。
仕事、恋愛、家庭、子育て、友人関係…。
2023年を走り抜けたばかりなのに、また走り出す。
そんな「お疲れさま」な彼女たちにも、春が来る。
温かくポジティブな風に背中を押されて、彼女たちはようやく頬をゆるめるのだ――。
▶前回:仕事を理由に旅行をドタキャンしてきた彼氏。女が本音を漏らしたら、電話を切られて…
朱美(35) あの頃の気持ちに戻って…
― なんか、思ってたのと違う。
日曜の朝、6時45分。
初台にある3LDKマンションのリビングで、朱美は重たい肩を回しながらため息をついた。
― …疲れたなあ。
朱美は、社用のノートPCを開き、濃いめのコーヒーを一口流し込んだ。
新卒から勤めている自動車メーカーのマーケティング業務が、相変わらず忙しい。
産休育休から復帰して約1年。慌ただしさは、今がピークだ。
― ちょうど、私が職場に戻ったタイミングで、チームにいた若手2人が転職してしまったからなあ。
朱美は時短勤務なのに、1人分の戦力としてカウントされている。
チームには子どもを持っている人がいないため、「時短勤務だから仕事を減らしてほしい」とは言いづらい。それで、土日に仕事を持ち込むのが当たり前になっていた。
「よーし、早く終わらせよう」
夫の俊春は、同じ会社の1つ上の先輩だ。社内で最も忙しい営業部にいて、残業も多く、彼もまた土日に仕事をすることが多い。
互いに忙しいのは重々承知だから、家事も育児もお互いに協力するようにしてきた。
だが、あまりにパツパツの暮らしで、最近の朱美はキツい。
― なんか…パンク寸前って感じ。
流れるように時間は過ぎ、切迫したまま夕方になった。
莉子が昼寝をしている間に、朱美は食器洗いを、俊春はリビングの拭き掃除をしている。
そのとき、ふと俊春が言った。
「あのさ。最近の僕たちってさ…」
何となく嫌な予感がして、朱美は、流していた水道を止める。
「何?」
朱美が恐る恐る聞くと、俊春は言った。
「僕たち最近、お互いに切羽詰まりすぎてるよな」
「で、ちょっと、考えたんだけど」と俊春は、カウンターキッチンにいる朱美の方をまっすぐに見る。
「覚えてないかもしれないけど、再来週でプロポーズして、もうすぐ4年目なんだよ」
朱美は、プロポーズの日なんて忘れていた。曖昧な返事をすると俊春は言う。
「よかったらデートしてくれませんか?」
朱美にはそれが、ものすごく突拍子もない提案に思えた。思わず笑ってしまう。
「デートって…。どこに行くの?」
「プロポーズしたあのレストランに、もう一度行きたいなと思ってて」
東京駅にあるフレンチだ。夜景がすごく綺麗だったのを朱美は覚えている。
「…嬉しいけど、莉子はどうするの?あの店なら、子連れは厳しいし」
「実は、母さんに頼んであるんだ」
俊春は、義母の予定を確認済みだという。
義母は幼稚園の先生として長いキャリアを持っているから、預け先としては安心だ。
「でもそれ、迷惑にならないかしら」
「お願いしたら、母さん、喜んでたよ。生きがいになるわとまで言ってた」
「なら、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
朱美は水道を勢いよく出し、お皿を洗い始める。突然入った「デート」の予定が、なんだか照れくさかったのだ。
結婚して、3年半。
俊春とは夫婦というより、「子育て」という仕事を一緒に頑張る同僚のような関係になっている。最近は夜の付き合いどころか、手をつなぐくらいのスキンシップもない。
― だから、デートだなんて何だかむず痒い。
俊春もそうだったのか、黙々と机を拭き、その後「トイレ掃除でもしてくるわ」とリビングを出ていった。
◆
「乾杯」
4年前にプロポーズされたその店に、同じ日にちにやってきた。
朱美は、ライトグリーンのワンピースを着ている。産前によく着ていたものだから、ウエストや腰回りが少しきつい。
そんな朱美は今、さっそく途方に暮れていた。
― 何を喋ったらいいんだっけ。
4年近く一緒に住んでいるのに、いや、住んでいるからこそ、こうして2人で向き合うと話すことがないのだ。
「…莉子、楽しんでるかな」
「うん。だって、母さんに飛びついてたもん。きっと楽しんでるよ」
すぐに沈黙。
居心地の悪さは、前菜が出てきて、スープが出てきても変わらなかった。
昔は、何でもないことでケラケラ笑いあったり、いじり合ったりしていた。お互いのことを知りたくて知りたくてたまらなくて、話が尽きなかった。
あの頃は、金曜夜に会って、土曜の深夜までバーで語り明かしたり。電話をして、気づいたら3時間が経っていたり。
朝になって、カーテンの向こうからぼんやりと光が差し込んで、「ねえ、もう朝だよ」って言ったり。
それを思い出すと、今とはギャップがありすぎて、寂しさが朱美の中をぐるぐると回る。
「あ、電話だ、なんだろう。仕事の後輩からだ」
俊春が、ポケットから震えるスマホを取り出して、中座をした。
入れ替わりに、カップルがやってくる。
― 2人とも、20歳半ばぐらいだろうか。
朱美はなんとなく、会話を聞いてしまう。
「すんごい、いいお店だね」
彼女のほうが言うと、彼氏は苦笑いする。
「箱根、ドタキャンして本当にごめん。埋め合わせってわけじゃないけど、反省も込めて、しっかり記念日を祝いたくて。今までの俺、当たり前のようにデートより仕事を優先しちゃって、ホント悪かったよ」
ツーブロックの髪型に、スーツをカチッと着ている彼は、いかにも仕事人間というような雰囲気だ。
「いいのよ」と彼女は、何でもないことのように言った。
「仕事は、優先してくれて構わない。こうやって節目節目で、ちゃんと話せれば、それで十分よ」
そのとき、俊春がごめんごめんと言って戻ってきた。
「後輩がミスしちゃったみたいで、それの報告だったわ」
同じ会社にいるから、俊春の仕事での評判はよく耳に入ってくる。後輩から慕われていて、お客さんからも評判が良いらしい。
「ねえ、懐かしいね」
朱美は、プロポーズの日のことを思い出しながら話し始める。
先ほど聞こえた、隣の若い彼女が言ったこと。
― たしかに、どれだけ忙しくても、節目節目で、楽しい自分たちを思い出せたらいいのかも。
その言葉に、背中を押されたのだ。
「あなたがここでプロポーズしてくれた日さ」
「うん」と俊春の顔が柔らかくなる。
「近くのホテルに2人で泊まってさ、これからどうしていこうかとか、朝まで話したよね」
「そうそう、どこに住みたいかとか、どんなふうに仕事を進めたいかとか。朝近くになって、3つの夢を決めたんだよ」
― 3つの夢…?あったような。詳しく覚えていない。
俊春は、ゆっくりと話してくれる。
「子どもが欲しい、お互いに仕事を頑張りたい、それから3つ目は…2人でちゃんとデートもする。3つ目が、どうしても後回しになっちゃってるな」
俊春はうつむく。
「最近の俺たちって、なんていうか…夫婦っていうより、子育てっていう仕事を一緒にやってる仕事仲間みたいな感じだよね」
照れの混じった表情で俊春は言う。
「それはそれで悪いことじゃないと思うんだけど、たまにはこういう時間が必要だなって思ったんだ。いつもごめんな。僕、余裕がなくてさ」
「いや、私の方だよ。余裕がないのは」
仕事量の調整について会社に言えばいいのに言えず、疲れ果てて、俊春から何を話しかけられても不機嫌に返してしまう。そんな自分が嫌で、またどんどん不機嫌になって。
そのとき、隣のカップルが楽しそうに笑って、耳がそちらの方に向いた。
カップルは焦ったように、揃って人差し指を口の前に当てている。
「やばい、静かにしないと、こういう店なんだから」と笑顔でひそひそ言い合う2人を見て、朱美は思い出した。
― 懐かしい。ちょうどプロポーズされたその日、私たちもあんな風だった。
お酒が入るにつれてはしゃぎがちになって、それであんなふうに「ちょっと静かにしないと」と笑い合った。
俊春の口元も緩んでいる。きっと同じことを思い出しているのだろうと朱美は思う。
◆
大満足のディナーを終えた朱美と俊春は、タクシーに乗って、義母の家まで向かうことにした。
ぼんやりとした幸せが、朱美の全身を包んでいる。
「そういえば、こないだね」
朱美は、取るに足りないような話をする。同期のおかしいエピソードとか、最近気になっているドラマの話とか。
俊春は昔と変わらず、細かくリアクションを打ってくれる。朱美は、莉子が生まれる前の2人に戻ったような気持ちになった。
「ねえ、俊春。またこんなふうにデートしよう。本当にたまにでいいから」
俊春は、大きくうなずいて「約束する」と言った。
明日からまた、怒涛の日々だろう。2人で力を合わせていても、全く余裕がない。不安も多いしストレスもある。
けれど、こうやって2人の楽しかった時間に立ち戻ることができれば、何だって乗り越えていけると朱美は思った。
歩き出すと、右手が、俊春の温かい手に包まれる。温かくて、頬ずりしたいぐらいの愛しい未来が見える。
「朱美、その服、めちゃくちゃ似合ってるなあ」
俊春の、久々の甘い声。春らしい風が吹いて、ワンピースの裾が揺れた。
▶前回:仕事を理由に旅行をドタキャンしてきた彼氏。女が本音を漏らしたら、電話を切られて…
▶1話目はこちら:大学卒業7年で差が歴然。29歳女が同級生に感じるコンプレックス
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最終回:北海道から夢を持って上京。東京に出てきて戸惑ったこととは?