カメラマン、クリエイター、カレーをスパイスから作る男――。

これらの男性は“付き合ってはいけない男・3C”であると、昨今ネット上でささやかれている。

なぜならば、Cのつく属性を持つ男性はいずれも「こだわりが強くて面倒くさい」「自意識が高い」などの傾向があるからだそう。

一見するとどれも個性的で魅力的な男性に思えるが、果たして本当に、C男とは付き合ってはならないのか…?

この物語は“Cの男”に翻弄される女性たちの、悲喜こもごもの記録である。




カメラマンの男/春香(23歳)の場合 【前編】


初夏の日差しの中、椎野春香は目の前にそびえる都会に圧倒されていた。

― これが、東京…。

明治の文明開化を思わせる赤いレンガ造りの建物の背後には、超高層のビルディング。近未来的なアーチ状のアーケードの向こうには、中世のお城のようなレストランがある。

恵比寿ガーデンプレイスの建物群は、一見ちぐはぐなようにもみえるが、そこには計算し尽された「東京の洗練」が存在する。

辺りを闊歩する人々も、着飾ったスタイリッシュな男女ばかり。そんな周りの情景を、春香は思わずうっとりと見つめてしまっていた。

「春香、目線こっちちょうだい」

猫のように甘い声に呼びかけられ、春香は我に返る。

言われたとおりに視線を送る先にいるのは、カメラを構えた恋人──江川光司。

今日は光司に誘われるがまま、春香は東京都写真美術館で行われている写真展にやってきたのだ。

「え、これでいいの…?」

「そう」

光司の職業は、カメラマンだ。

クラシックな建物の前で何気なさを作為したポーズをとると同時に、心地いいシャッター音が春香を包む。

カシャ、カシャ…。シャッターの音に合わせて、ファインダーの奥に視線を送る。

レンズ越しに、光司と見つめ合う。

春香はこの瞬間が、たまらなく好きだった。

離れていても、彼とひとつになったような快感を覚えるから…。


富山の山あいの町に生まれた春香は、幼い頃から東京に憧れていた。

雑誌やテレビの中でキラキラ光り輝くその街の住人になりたいとずっと夢見ていた。しかし、5歳で父親を亡くし、女手一つで育ててくれた母親の頼みで、大学を卒業するまでは地元から出られなかった。

けれど、そんな春香もついにこの春、就職を機に念願の上京を果たすことができた。就職先はなんと、カルチャー系雑誌を多数手掛ける憧れの出版社だ。

頻繁に東京に出向かなければならなかった就職活動は、肉体的にも金銭的にも決して楽ではなかった。でも、憧れの東京で就職をするためだと思えば、なんてことはない。居心地の悪い夜行バスに揺られるたびに、春香の期待はむしろ膨らんでいく。

そんななかで出会ったのが、春香の5つ年上で27歳の、光司だったのだ。

光司との出会いは、先に上京していた高校時代の同級生から誘われたとあるクラブイベントでのこと。その子から、彼氏の先輩だと紹介された。

藝大出身で、映画のスチールやファッションフォトを中心に撮影するカメラマンという光司は、クラブ慣れしていない春香にも気さくに対応してくれた。

あまりにも場違いなリクルートスーツに身を包んでいた春香は、言い知れない居心地の悪さから救ってもらったような気がして、光司の優しさに当然のごとく胸を高鳴らせたのだ。




夜の盛り場においても、白い無地のTシャツというシンプルな装い。無精ヒゲと無造作なマッシュヘアにもかかわらず、光司は清潔感と上品さを兼ね備えているように見えた。

肩の力が抜けている余裕…。春香から見れば光司はまさに、東京に根付いている男性だった。

連絡先を交換すると、光司はその後も、春香が上京するたびに気にかけてくれた。恋愛感情を抱くのは当然だ。

そして──。

春香の不器用なアプローチを、彼は大きな懐で受け止めてくれた。



「ウィリアム・エグルストンはさ、構図の先にある物語を感じさせるんだよね。被写体の人となりや背景まで見えて、一瞬で世界に取り込まれるというか…。僕がさ、ノーマン・ロックウェルの絵が好きなのも同じ理由なんだ」

「へぇ…」

写真展鑑賞後、光司は展示の余韻に浸りながら、写真美術館に併設されているカフェ『フロムトップ』で得意げに持論を語っている。

正直、光司の話す内容は、春香には理解できないことも多い。ただ、アーティスティックな話題を夢中になって語る彼の表情を眺めるのが好きだった。

フルーツティーの爽やかな味わいさえ、光司とのデートでは脇役になる。ほのかに感じた感動を自分の中だけで消化しながら、春香は笑顔で相づちを打つのだった。




つまり光司は、春香にとっては“東京のカルチャー”を具現化した存在なのだ。

彼の実家は世田谷の資産家で、生まれながらにしてアートが身近にあったという。自宅には何千万もする絵画が飾られ、幼児期から親に連れられ歌舞伎やクラシックコンサートを鑑賞していたそうだ。

カメラとの出合いも、小学生の時。新聞記者であった祖父のコンタックスを譲り受けたところからだという。映画館への往復だけで半日以上かかる上に、アルバイトで遊びのお金を作っていた春香の環境とは、大きな違いだ。

「…沢田教一や一ノ瀬泰造にも憧れるけど、平和ボケの環境で育った俺が戦場で写真を撮っても説得力はあるのかな」

光司がつぶやくひとつひとつの言葉が、春香の知的好奇心を刺激する。背伸びをしてでもその世界に追いつきたいと、春香はいつも必死で手を伸ばす。

「それを言うなら現代人はみんなそうだよ。むしろ光司みたいに余裕のある人じゃなきゃ、見えない景色もあると思うな」

「なるほど、確かにね…」

あてずっぽうでも会話が通じると嬉しくて、まるで神様と通じたような気がした。ふたりの関係性は恋人同士というより、教祖と信者のようなものだったのかもしれない。


「ねえ、どうして光司は私と付き合いたいと思ったの?」

恵比寿の路地裏にあるオーセンティックバーに連れていってもらったある日、春香は思い切って光司に尋ねてみた。

知人だというバーテンダーと、打ち解けて会話をする光司の姿…。ウイスキーグラスの丸い氷を細い指でもてあそぶ光司の都会的な身のこなしに、どうして自分のような凡人が隣にいられるのかが、わからなくなったから。

自分でも理解している。春香は、容姿は平凡。性格も平凡。高校の時から変わらないぱっつん前髪の黒髪ロングヘアは、多少個性的とは言われているものの…内面には何の面白みもない人間だ。

そんな自分を、光司のような上位の存在が受け入れてくれるなんて…。そんな不安が、ふと押し寄せてきたのだ。

けれど、怯える春香を落ち着かせるように、光司は言った。

「男はね…女の肥料になりたいものなんだよ。春香のようなまっさらな女性なら特にね」

カウンターの上のキャンドルライトに照らされながら、光司はウイスキーグラスを揺らす。隣でジントニックのグラスを傾ける23歳の田舎娘は、いつものようにわかったような空返事をする。

「なるほど…」

しかし、妙にセリフじみた言葉が引っかかり、光司がお手洗いに立った隙にスマホで検索してみた。

文豪・谷崎潤一郎の小説からヒントを得た言葉のようだ。

― 谷崎…今度読んでみなきゃ。




光司と過ごしていると、こういうことが多い。

モダンな美術館、ラグジュアリーなレストラン、ミニシアターの映画、学校で習わない文学作品──。彼から自然と投げかけられる不思議な啓示をなぞるように、デートの後も春香はその復習に余念がなかった。

「ユーロスペースで観たアキ・カウリスマキの新作が最高だったんだ」
「『みかわや』のカニコロッケが小さい頃からの大好物でね…」
「歌舞伎役者している同級生から招待券をもらったから行かない?」

コンプレックスを感じる隙がないほどの自然さで光司は、春香にいつも東京のヒントを与えてくれる。

それは時折、春香を戸惑わせながらも、より一層の学びを与えてくれるのだ。

― カメラマンと付き合って良かった…!

美意識の高い光司といるだけで、感性が磨かれたような気がする。出版社の編集職であるがゆえ、感度の高さは誰よりも求められる。

光司への憧れは、必然的に仕事にもいい影響を及ぼした。

入社から半年もすると春香は、新人でありながら企画をひとつ任されるようになったのだ。



「企画が好評なのは、光司が私にいろいろ教えてくれたからだよ。ありがとう」

ウィークデイの午後11時。仕事帰りに待ち合わせしたいつもの恵比寿のバーで、光司の肩にもたれかかりながら、春香はトロンとした表情でつぶやいた。

「僕はなにもしていないよ」

「ううん。私を成長させてくれているのは、紛れもなく光司だもん」




ウォッカベースのマティーニを手に、春香は「東京の女性」として生きている自分に酔いしれる。

クールでドライな口当たりはまるで、隣にいる光司のようだ…と、そんな柄にもない形容が浮かび、それが妙におかしくて、静かに顔をほころばせた。

「どうしたの?」

「なんでもないよ」

春香がそう言うと、光司は不意打ちで手元にあるカメラのシャッターを押した。

「かわいい」

「暗いから、写っていないんじゃない?」

「大丈夫、ここには焼き付いているから」

瞳を指さす彼の仕草に照れながら、春香は光司と魂で通じ合えている自分を、何よりも誇りに感じた。

しかし…。

心から信奉していた光司の美しい世界が、すべてまやかしだと気づいたのは──

それからほんの少しだけ、後のことだった。

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光司を溺愛し、崇拝する春香。しかし、春香は光司のある姿を目撃してしまう…。